ご挨拶にかえて

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2013 年頭の辞

代表 内田修道近影



1937年(昭和12)の地方都市政治社会状況から考える

京浜歴史科学研究会代表  内田 修道


 1937(昭和12)年2月、栃木県町村長会と栃木県農会は合同大会を開き、地方財政調整交付金の増額を要求する宣言および決議文を採択し、実行委員を選出して政府に対する陳情運動をはじめた。25日には、県町村長会長で南押原村長(現鹿沼市)の石塚豊作などの実行委員10名が宇都宮の第14師団司令部に師団長末松茂治中将を訪問した。しかし、末松は出張で不在だったため、副官の松本少佐に面会して、大会の宣言決議の趣旨を陳述し、政府筋への働きかけを依頼した。次いで宇都宮連隊区司令部にも赴き、板津司令官に面会して協力を依頼した。さらに、県庁を訪ね、松村光麿知事と面会し、同様の陳情を行なっている。町村長たちは、なぜ地方財政調整交付金問題で陳情先に第一に師団長や連隊区司令官に求めたのであろうか。彼らは、地方政治の課題を解決する手段として政党の力はないと認識していたのであろうか。
 地方町村の切実な要求に制度的方向性を示したのは、これより以前、1932(昭和7)年8月に出された内務省の「地方財政調整交付金制度要綱」からであり、町村の切実な要求が日の目をみたのは、二・二六事件直後の広田弘毅内閣が成立して間もない、1936(昭和11)年5月の第69議会であり、しかも臨時的措置であった。この制度が恒久的な制度となるのは、1940(昭和15)年に到ってからである。
 36年の鹿沼町の歳入総額に占める国=県からの補助金額は41%に達していた。自治体として財政的な根拠を失い、国=県への依存度を際立たせている。ここには一方で政党の地方利益代弁組織としての機能停止、他方で財政による自立不能状態による国=県へ従属し、戦争動員体制へ編成されていく構造的関係が示されていると言えよう。しかし、だからといって地域住民が総動員体制の中に直ちに絡め取られたわけではない。37年4月の総選挙では林銑十郎内閣よる地方財政調整交付金の大幅な減額に猛反発した政党が、軍部支持政党を押さえて総選挙で圧勝した。
 この総選挙の直前に執行された鹿沼町の町議会議員選挙にこの時期の地域の政治社会状況が示されている。選挙公示前から建川美次中将を中心として活発に動いている新政党設立運動と連繋し支持し、その実現に向かって邁進することを掲げた「革新会」から6人が立候補し注目された。しかし、選挙結果は前評判とは裏腹に52人の立候補者のうち、当選したのは32名、「革新会」の候補者は全員落選した。
 7月7日日中戦争が始まり、8月には国民精神総動員実施要綱が閣議決定され、9月には国民精神総動員中央連盟が結成されて、総動員態勢が一気に加速をはじめた。そうした状況の下で、9月29日、町会議員資格決定をめぐる議題で町会が開かれた。 鹿沼町の有力者である某議員が国税の滞納処分を受けたという事実が市制町村制第八条第六項「滞納処分中ハ町村ノ名誉職ニ就クコトヲ得ス」の規定に抵触することから、清水一郎町長が同法第三五条の「町村長ハ町村会議員中被選権ヲ有セサル者(中略)アリト認ムルトキハ、之ヲ町村会ニ付スベシ、町村会ハ其ノ送付ヲ受ケタル日ヨリ十四日以内ニ之ヲ決定スヘシ」という規定に基づいて町村会にその処分を諮ったのである。有力議員の一人である橋田長一郎は、某氏が現在は完納して被選挙権が回復しているにもかかわらず、なお名誉職の資格がないのかと、町長と助役に質問した。これに対して、町長と助役は、これは地方局の見解であると前置きしたうえで、被選権は復活しても名誉職は復活しないと答弁した。ここで橋田議員は、美濃部達吉博士の三五条の解釈をとうとうと読み上げ、この解釈によれば町会に決定を求めるのは、処分継続中、すなわち滞納中になされるべきであると力説した。そして、町会にこの処分提案を否決するよう求めた。橋田議員の否決案は大多数で可決され、町長と助役もその決議を受け入れたのである。ここには、議員のなかには政党政治を否定し、国家主義を奉ずる軍部の独裁政治に承伏しない議員がいたのである。このことは、日中戦争の開戦後、言論や思想の自由が完全に否定された状況の下での派手な戦勝パレードや戦勝祈願の背後に軍部独裁に承伏できない人びとがいたことを示しており、ここに示されている鹿沼町の政治社会状況は各地にあったことが推察される。15年戦争期を論ずる場合、地域からの実証が必須と思う。


2013年1月27日発行、京浜歴史研究会報 第324号より転載
写真は1月27日の総会にて撮影