京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2011年春
品川宿に幕末・維新を探る

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 5月22日(日)(雨天順延5月29日)
 *実施の問い合わせは当日午前6~7時までに事務局へ
【集合】 京浜急行北品川駅改札口 午前10時
【コース】 北品川駅
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御殿山
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八ツ山橋
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土蔵相模跡
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善福寺
 ↓・鏝絵
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鯨塚
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御殿山下砲台跡
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法禅寺
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一心寺
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聖蹟公園・品川宿本陣跡
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品川神社
 ↓・稲垣退助墓
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東海寺
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子供の森公園(昼食)
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清光院
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妙蓮寺
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天妙國寺
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品川寺
 ↓・銅像地蔵菩薩坐像
 ↓・梵鐘
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海雲寺
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釜屋敷
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京浜急行青物横丁駅(解散)
【参加費】 1000円(資料代を含む)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃、京浜急行青物横丁駅で解散予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

 京浜急行北品川駅から鈴ヶ森にかけては、旧東海道の面影が比較的残っている地域であった。道幅もほぼ江戸時代のままである。しかし、近年の都市化の波は、この街も呑み込もうとしている。
 品川宿は、目黒川河口に開けた港町だ。現在は想像するのも困難だが、街道のすぐ東側は江戸湾が広々と見渡せたのである。太田道潅時代、品川は江戸の外港的役割を果たした。徳川家康が慶長6(1601)年に宿駅整備を行い、品川は東海道1番目の宿駅とされ、陸上交通の重要な位置を与えられた。
 寛永10(1633)年頃、給米として26石9斗が与えられ、寛永17(1640)年の曽根吉次・伊奈忠常の巡見で伝馬100匹が仰せつけられた。目黒川を挟み南北に分かれて人馬役を負担していたが、次第に人足は善福寺・法禅寺門前と北側にできた新町でほとんど負担するようになったため、享保7(1722)年、それらの地が歩行(かち)新宿として宿に加えられ、旅篭の営業も認められることとなった。問屋場・貫目改所は南北両宿に置かれていたが、文政6(1823)年に大火で両問屋場ともに類焼し、その後は南品川のみとなっている。
 大名・公家などの宿泊に提供された本陣は南北両宿にあったが、南品川のものは早くに廃れ、北品川(現在、跡地は聖蹟公園となっている)のみとなっており、脇本陣は寛政・享和頃(1789~1804)には北品川と歩行新宿に一軒づつあった。本陣では一般客を泊めることができず、大名らも財政難により利用を控えたり、充分な手当を支払わなくなったため、経営が厳しくなった。そのため文化8(1811)年に本陣が焼失した時、主人の(鶴岡)市郎右衛門は自力で再建できず、宿が代官所(代官大貫次右衛門)からの拝借金150両を得て再建に充て、以後、品川三宿で本陣を維持することとなり、市郎右衛門は本陣の守役となっている。この時期、脇本陣の所在地も南本宿と歩行新宿に代わっている。
 一般の旅人を宿泊させる旅篭に置かれた飯盛女(食売女)は、享保3(1718)年に各旅篭1軒に2名とされたが次第に数が増え、1720年に新吉原から訴えられた時には、品川三宿で1000余人が抱えられていたという。度々、宿への手入れが行われ、過人数の召し捕らえ、営業者の所払い・過料等の処罰を受け、一時衰微することもあったが、明和元(1764)年には大旅篭9軒・中旅篭66軒・小旅篭16軒で500人まで抱えることが許された。南品川宿155人、北品川宿143人、歩行新宿202人という内割りがなされ、一軒毎の定数もあったが、やはり守られるものではなく、天保15(1844)年正月には関東取締出役により、旅篭屋94軒・飯盛女1358人が捕らえられている。品川宿にとっては大きな打撃であったが、早くも翌年には、南品川226人、北品川207人など、計668人の飯盛女が見られるという回復を見せた。
 このように品川宿に多くの飯盛女が置かれたのは、幕府公認の遊郭である吉原が“北”と称され、値段・品格ともに高級であったのに対し、品川が“南”と呼ばれ、より身近で安価、庶民的な遊興の地として人気があったためでもある。
 この地は、幕末には政争の舞台となった。1853年にペリー艦隊は品川沖まで入ってきて、幕府の肝を冷やした。あわてた幕府は、桜の名所であった御殿山を切り崩してお台場を造った。しかし、実際にはあまり役に立たなかった。
 横浜開港後の貿易が始まり、東海道は人通りが激しくなっていく。イギリス(高輪)・フランス(三田)・アメリカ(麻布)の公使館が設置されていった。そのなか1863年、御殿山に建設中だったイギリス公使館が攘夷派によって焼き討ちされた。水戸や長州藩の攘夷派の志士たちは品川遊郭をアジトのひとつとしたので公使館は目と鼻の先であった。彼らが定宿にしていた「土蔵相模」の名前は有名である。
 明治なると、それまで幕府や大名の保護を受けていた大寺院は、廃仏毀釈や近代化の波を受けて没落・荒廃していくものも多かった。芝・増上寺と並んで江戸の入り口にあった大寺院であった東海寺も多くの塔頭を失った。さらに鉄道や国道が開通することになり、東海寺や品川寺などの境内地は切り売りされていった。また、そうした土地を使って官営工場(品川ガラス工場)も建設され、品川も近代化の波のなかでその景観を変えていった。
 なにげない町並みのなかに、幕末・明治の息吹を少しでも感じていただきたい


3.見学ポイントの解説

御殿山
 品川宿の西側に連なる高台が御殿山であった。武蔵野台地の東端に位置する。現在は第一京浜国道をはさんで、南端に品川神社が見られる。
 太田道灌の旧址と伝えられる。江戸初期、徳川家康が品川御殿を建設。歴代将軍の鷹狩りの休憩所、茶会の場として利用されてきたという。元禄15(1702)年に四ッ谷太宗寺付近から出火した火事で、麻布御殿と共に焼失。寛文(1661~73)頃より桜が植えられ、文政7(1824)年の「宿差出明細帳写」によると、11,500坪の御殿山に600本に及ぶ桜が見られたという。
 幕末期には台場建築のための土取場となり、山の北側がえぐりとられた。開国後の文久元(1861)年、諸外国の公使館などを建設することとなったが、文久2年12月12日(1863.1.31)、完成間近のイギリス公使館が長州藩の高杉晋作・伊藤俊輔(博文)ら御楯隊を名乗る尊皇攘夷派志士によって焼き打ちされた。
 明治期には鉄道を敷くため、さらに東西に分断され、現在の東海道線が通っている。
八ツ山橋
 東海道線に架かる橋で、明治5(1872)年に新橋・横浜間開通の際に建設された日本の跨線橋第一号。当初は木造であったが、大正3(1914)年にアーチ型鉄橋に替わり、さらに昭和5年、同様の橋が増設されたらしい。老朽化で昭和60年に現在の物に架け替えられた。橋詰に先代の親柱と欄干が保存されている。海側には京浜急行のワーレントラス橋が見られる。昭和8(1933)年4月1日に省線品川駅に乗り入れが始まった時に架けられたものという。
 品川宿の入口には、「是より南、築山茂左衞門支配所」の標柱が建つ。築山は天保期、備中国倉敷などの代官も努めていたようで、品川宿を治めていたのは弘化2(1845)年頃のようである。
 旧東海道に沿う商店街は鈴ヶ森刑場跡ヘと抜ける。通りの所々に「街道松」として、五十三次で縁のある保土ヶ谷・大磯・三島・浜松・土山などの各宿の個人・団体などから寄贈された松が植えられている。
土蔵相模跡
 相模屋忠兵衛という旅籠屋の跡。宿場でも有数の大旅籠屋であり、土蔵造りであったことから「土蔵相模」と呼ばれていた。幕末には倒幕派の謀議の場となった。文久2(1862)年、御殿山のイギリス公使館焼き討ち事件の密議もここで行われたといわれている。明治以降は貸座敷となり、近年まで「ホテル相模」として営業していたが、1977年に取り壊された。
善福寺(音響山伝相院。時宗)
 永仁2(1294)年、遊行寺二世の他阿真教の開基という。本堂は蔵造りで、正面には鏝絵(こてえ)で龍が描かれている。墓地には万治元(1658)年の念仏供養塔があり、品川宿成立以前から念仏講が行われていたと推測されている。
鏝絵(こてえ)
 漆喰を塗った上に、鏝を使って浮き彫りのように風景や肖像を描き出した絵。善福寺のものは、入江長八(1815-1889、伊豆長八、伊豆国松崎村出身、長八美術館があり、鏝絵制作体験も可)またはその弟子の作といわれている。善福寺の鏝絵は残念なことに剥落が進み、原型がわからなくなってしまっている。長八の作品は、つげ義春の漫画で有名な「長八の宿 山光荘」などに残っている。
 土蔵造り、石蔵造りは江戸時代の市街地に発達した防火建築である。品川宿でも商家や寺社で普及したが、漆喰細工はこれに伴って発達した左官職人の工芸的技術である。東京近辺では、震災、戦災、住環境の変化により、ほとんどが失われてしまった。品川宿にはこの善福寺のほかに、寄木神社の本殿の扉に残っている(非公開)。また、高輪泉岳寺、成田山新勝寺にも長八の鏝絵がある。
 保存状態の良い鏝絵をもっとも多く見ることができるのは、大分県宇佐市安心院(あじむ)町である。関東では、横須賀市浦賀の寺社に、幕末期から明治期のものが残されている。
鯨塚・利田神社
 利田(かがた)神社は寛永3年(1626)に沢庵和尚が東海寺の鬼門除けとして勧請した弁天堂がはじまりだと伝えられている。維新後に、利田神社の社号を公称する神社となった。鯨塚はこの神社のなかにある。寛政10年(1798)5月1日、一頭の鯨が江戸湾に迷い込み、品川沖に姿を現した。長さ9間1尺(約17メートル)の大きな鯨を見ようと多くの見物客が繰りだし、ついに11代将軍徳川家斉に供覧された。その後、クジラの骨をこの場所に埋め、塚を立てた。現在の石碑は明治39年(1906)に再築されたものである。
御殿山下砲台(台場)跡
 江戸湾防備体制を強化するために作られた台場の一つ。安政元(1854)年5月着工、同年12月竣工。水戸藩から献納された三門の砲台が設置された。品川沖に作られた台場と異なり陸続きのため、陸(おか)砲台ともいわれた。現在品川区立台場小学校の敷地になっているが、五角形に区切られており、台場の輪郭をうかがい知ることができる。
法禅寺
 旧東海道から少し西に入った所にある浄土宗の寺である。寺伝によると、南北朝時代の至徳元年(1384)、言誉上人が、この地の草庵にあった法然上人自刻の像を祀って堂宇を建立したのが起こりという。江戸時代は、五代将軍綱吉の生母桂昌院の帰依を受け、寺運も栄えた。
 入母屋造り瓦葺きの大きな本堂と東海七福神の布袋を祀る観音堂があり、さらに流民叢塚碑がある。明治4(1871)年に建てられたこの碑には幕末の天保の大飢饉のおり、品川宿で病気や飢えで窮死したと記録される891人の内、500余人を当寺が葬ったことが記されている。はじめは円墳状の塚の上に建てられていたが、昭和9(1934)年にコンクリート製の納骨堂に改修されたという。また安政元年(1854)御殿山から出土した121基の板碑の内、67基が寺に保管されているようで、この場にも3基程、展示されている。最古は徳治3(1308)年、新しいもので延徳2(1490)年という。板碑は鎌倉~戦国時代、関東中心に造られた石造供養塔で、主に秩父産の緑泥片岩(青石)が用いられた。
一心寺
 幕末、日本開国を断行した井伊直弼を開基とした寺で品川宿の町民代表一同によって建立されたと伝えられている。昭和になってから豊盛山延命院一心寺という寺格を得、成田山分身の不動明王を本尊とし、「品川の不動さま」として親しまれている。
聖蹟公園(品川宿本陣跡)
 北品川の本陣は品川三宿のほぼ中央に位置する。参勤交代の諸大名や公家・門跡などの宿泊・休憩所として利用された。明治元(1868)年、明治天皇東幸の際、行在所(あんざいしよ)として使われた。10月12日に到着し、翌日、有栖川宮等の出迎えを受け、江戸へ出発している。それを記念して昭和13(1938)年、聖蹟公園とされる。
 明治5(1872)年の宿駅制度廃止後は、警視庁品川病院などに利用されていたという。
 公園の東端中央には「御聖蹟」の碑が見られる。小さめではあるが、イベントを行う際のステージとして使用することを考えた造りであろう。その右側には、公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動について記した「聖徳の碑」、公園を整備開園する際に東京市が建立した「聖蹟公園由来の碑」が並ぶ。
 また左手奥の胸像は、昭和50年に社会福祉功労を顕彰し、名誉区民となった石井鐵太郎(1893〈明治26〉.7.14~1978〈昭和53〉.1.27)のものである。さらに奥の「夜明け」と題された新聞少年の像は、もともと昭和24年に二宮尊徳像が建てられていたというが、昭和42年、石井によって子どもたちが親しみやすいこの像に建替えられた。
品川神社
 『新編武蔵風土記稿』によると、当社は稲荷、祗園、貴布禰(きふね)を相殿(あいどの)とし、さらに東照宮を祀っており、この四座を総称して品川大明神と称した。稲荷は文治3年(1187)に守護職二階堂道蘊(どううん)によって勧請され、祗園は文明10年6月(1478)、太田道灌が勧請して相殿とした。貴布禰が勧請された年代は不詳であるが、天正19年に御朱印を賜っている。慶長19年(1614)徳川秀忠が大坂冬の陣に際して祈祷と太々神楽が奉納された。寛永14年、東海寺建立に際して社地の南側が御用地となり、代わりに1083坪余が賜与された。また、東海寺の鬼門に当たるとして同寺の鎮守と定められた。元禄の頃(1688~1703、綱吉の時世)には、年間の諸行事が慣例化していった。稲荷の例祭は2月初午の日で神楽奉納、4月17日の祭事では太々神楽が執行された。祗園祭は6月7日御輿の巡行。貴布禰祭は9月9日、御輿の巡行、神楽が執行された。
 明治維新に際して大きな変動があり、東海寺は廃寺処分、社名は品川神社となった。同社の現在の由緒書には源頼朝が安房国の洲崎明神(現千葉県館山、洲崎神社)の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を当地に勧請して海上交通安全・祈願成就を祈願したことが当社の創始であるとしているが、『風土記』には一切そうした記述がない。年号が稲荷の勧請と同じである。『江戸名所絵図』では牛頭天王社となっており、庶民の目線からこの神社がいかなるものであったかがわかる。
板垣退助墓
 品川神社の裏にあるが、ここは東海寺塔頭高源院の墓地であり同寺が世田谷区烏山に移転(1939年)した後も墓地の一部が残されたのである。1837(天保8)年~1919(大正8)年。高知県の出身。幕末から活躍し戊辰戦争時には東山道先鋒総督府参謀として従軍。明治政府に仕え留守政府首脳となったが明治6年征韓論争に敗れ西郷隆盛と共に下野。翌年、有名な民選議院設立建白書を提出した。その後、自由民権運動の中心的な人物として活躍し明治14年自由党の総理となった。第二次伊藤博文内閣と大隈重信内閣で内務大臣をつとめた。明治33年以後は政界から離れ社会問題の解決に従事した。
東海寺
 東海寺は、三代将軍家光が沢庵宗彭(そうほう)のために創建した寺院で、寛永14(1637)年に寺領500石が与えられ、翌年開かれた。臨済宗大徳寺派。沢庵は京都大徳寺の住職であったが、寛永6(1629)年に紫衣(しい)事件によって出羽国上ノ山(山形県)に配流されていた。また沢庵漬けを始めたのも彼と言われる。
 寺域は47,240坪にも及ぶ広大なもので、堀田正盛、酒井忠勝、細川光尚らが建立した塔頭をはじめ、たくさんの塔頭・諸庵が林立する豪壮な寺院となった。正保2(1645)年、沢庵が没すると、しばらくは無住となったが、幕府は大徳寺五門流の輪番地とした。元禄7年以降、たびたび火災に遭うが、幕府の庇護により、再建されてきた。明治4(1871)年、廃藩置県により品川県(東京都世田谷・品川・大田・目黒・渋谷・新宿・中野・杉並・豊島・目黒の各区及び三多摩の一部、新座郡、入間郡の一部)が設置されると、県庁を東海寺に置くこととなり寺域は削られ旧観は失われた。本堂は現在の品川小学校の場所にあったという(山手通りの反対側)。
 現在の東海禅寺は塔頭玄性院跡。梵鐘は元禄5(1692)年に造られたもの。裳階付き禅宗様仏殿、客殿などがある。境内の墓地には、家光側近であった堀田正盛(供養塔か?)の下総国佐倉藩主堀田家、丹波国篠山藩主青山家の墓などが残る。
 広島の被爆石などを配した「原爆犠牲者慰霊碑」は1971年8月に建てられた「建立趣意碑」によると、東京都原爆被害者団体協議会(東友会)によるもので、同会は1958年に東京在住の広島・長崎被爆者によって創立され、被爆者への政府支援と核戦争反対を訴えてきた。1965年に木碑が建てられ、67年に千羽鶴の羽を象っ(かたどつ)た石碑に変えられた。
 外様大名肥後熊本藩細川家の墓地は、残念ながら入口が民家の敷地になっており、中に入ることができない。3代藩主光尚が父忠利のために建立した塔頭妙解院跡で江戸における菩提所となった。  
 
  *問答河岸
    三代将軍家光「海に近くてもトウ海寺とはこれ如何」《遠→東》
    沢庵宗彭「大軍を率いてもショウ軍というが如し」 《小→将》
 
清光院
 東海寺の造立後、その広大な境内のなかに、帰依している大名らによって塔頭の建立が相次いで行われたが、この清光院はそのなかのひとつとして慶安2年(1649)に建立された。東海寺の塔頭は、明治維新後に庇護者を失って廃絶するものが多かったが、清光院は現在も残っている塔頭の一つである。
 五輪塔や墓碑が並ぶ境内の墓地には、福沢諭吉らが仕えた豊前(大分)中津藩主奥平家や摂津高槻藩主永井家の墓がある。
妙蓮寺
 恵日山と号し、長享元年(1487)現在地に創建されたという。
 境内の墓地に高木正年の墓がある。高木は安政3年(1856)、南品川の旧家細井半兵衛の二男として生まれ,叔父高木以善の養子となった。蘭学や法律を学び、明治16年(1883)に東京府会議員に選出された。その後第一回総選挙で衆議院議員になった。所属政党は変化したが、一貫して非政友会という立場であった。41歳のとき両眼を失明し、盲目の代議士として活躍した。昭和9年(1934)に亡くなった。
 また墓地の中央には慶安4年(1651)、由井正雪とともに幕府転覆をはかり、直前に発覚して鈴ヶ森で処刑された丸橋忠弥(まるばしちゅうや)の首塚がある。
天妙國寺
 弘安8(1285)年、日蓮の弟子天目が開創した。鳳凰山と号し、京都総本山妙満寺の末寺、顕本法華宗の別格山である。天正19(1591)年、徳川家康から朱印地として寺領10石が与えられた。家光は鷹狩りでしばしば立寄り、寛永11(1634)年11月に五重塔の修築を命じた。
 墓地に入ってすぐ右手に大正3年3月建立の「岡本家墳墓」がある。浪曲師桃中軒雲右衛門(1873〈明治6〉.10.25~1916〈大正5〉.11.7)は「義士銘々伝」などを得意とし、当時のレコード普及もあり、絶大な人気を得た。陰三味線や琵琶・清元の節調を加味した荘重豪快な節などを創始し、寄席から劇場へ進出した浪花節中興の祖。本名は山本幸蔵というが、本人は岡本峰吉を名乗っていたという。群馬県の高崎が出身地。弟子に桃中軒牛右衛門を名乗った宮崎㴞天がいる。
 別に昭和21年11月7日に日本浪曲協会同人が建てた「浪曲界先覚慰霊塔」もある。
 15世紀中頃に建立された五重塔があった。慶長19(1614)年に秋の大風で倒壊し、寛永年間に修築されたが、元禄15(1702)年の四谷塩町からの大火で焼失したという。塔があった場所は不明というが、礎石が三つ残されている。
品川寺(ほんせんじ)
 真言宗醍醐派、海照山、普門院。本尊は水月観音・聖観音。江戸六地蔵の一番。寺伝では空海が営んだ草庵に始まり、当初金華山大円寺と称したが、長禄年間(1457―59)に太田道灌が伽藍を造営し、品川左京亮との由緒によって品川寺と改称した。
銅造地蔵菩薩坐像
 江戸六地蔵の第一番(第二番は東禅寺(浅草)、第三番は太宗寺(新宿)、第四番は眞性寺(巣鴨)、第五番は霊巌寺(深川)、第六番は永代寺(深川))。宝永5(1708)年に造立。深川の地蔵坊正元(しょうげん)が発願し、江戸中から多くの賛同者を集め、神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀(おおた まさよし)によって完成。
梵鐘
 境内の鐘楼にある梵鐘は、明歴3(1657)年に造られたもの。この梵鐘は慶応3年のパリ万博に出陳されたほか、明治4(1871)年のウィーン万博にも出展された。日本に返される途中で行方不明になってしまった。後に、スイスのアリアナ博物館にあることが判明し、昭和5(1930)年になって返還された。こうした経緯から、「洋行帰りの鐘」と呼ばれている。
海雲寺
 建長3(1251)年、不山東用が海晏寺内に建てた庵「瑞林」に始まる。海晏寺の塔頭瑞林院となり、はじめ臨済宗であったが、慶長元(1596)年に曹洞宗となる。竜吟山と号す。本尊は十一面観音像。
 火と水の神、台所の守護神とされる千体荒神王を祀る千体荒神堂(護摩堂)がある。明和7(1770)年3月に高輪二本榎の鍋島家から勧請された。島原の乱で鍋島直澄(18歳)が出陣した折、肥前天草の荒神ヶ原の荒神様に必勝祈願をして以来、祀られてきたものという。堂内には信者が奉納した27面の扁額が掲げられている。文字額や雌雄二鶏図が多い。文久元(1861)年奉納の雌雄二鶏図はガラスの上に彩色された珍しいもので、浪曲師の広澤虎造夫妻が昭和10(1935)年に奉納した文字額もある。格天井の中央には龍の図が描かれ、周りには纏(まとい)図が見られる。東京各区消防組が昭和5(1930)年に奉納したものという。 
 平蔵地蔵は悲運の死を遂げた正直者を祀ったものである。江戸末期の1860年頃、鈴ヶ森刑場の番非人の一人、平蔵が巨額の金を拾い、落とし主を探して届け、当然のことと礼金も断った。それを知った二人の仲間は、金を山分けしていれば三人とも乞食をしなくても生活していけたのにと腹を立て、平蔵を小屋から追い出し、凍死させてしまった。金の落とし主であった仙台屋敷の若侍が遺体を引き取り、青物横丁の松並木の所に手厚く葬り、地蔵尊を建てて供養を続けた。明治32(1899)年10月、京浜電車開通で線路に引っかかり、当時の住職が境内に移して回向したものである。
 右手の建物の後ろに「大日本帝国議会原始紀念碑」、橘流寄席文字の「筆塚」(家元橘右近)なども見られる。「大日本帝国議会原始紀念碑」は隣の「特別賛成員連名碑」と共にかなり大きなもので、下部がしっかりと地中に埋め込まれている。建設の発起人は茨城県筑波郡真瀬村の山田喜平とある。特別賛成員として名が見られる貴衆両院議員の中には、中島信行・片岡健吉・河野廣中・佐々友房・箕浦勝人らの名がある。「筆塚」の後ろのブロック塀には末広亭・鈴本亭といった寄席の名や、雷門助六・二代目三遊亭円遊・桂文楽・桂三木助・春風亭柳昇などの名前が見られる。これは入口右手の東京大般若講が明治43年(1910)に寄進した同様の塀の続きであろうか。そちらには三舛屋、金龍亭女中、岩下岩三郎、本所縁頭薬師寺清兵衛、北品川髪結高橋嘉久などの中に、名古屋大須電気館岡本美根登といった名も見られる。
釜屋跡
 南品川の品川寺門前にあり、観音前とも呼ばれた立場茶屋(たてばちゃや)。後に改築をし、「本陣」としての機能を果たすようになる。
 文久2(1862)年8月21日には、薩摩藩下屋敷を出発した島津久光一行が、生麦事件の直前に、釜屋で休息をとっている。
 新撰組は慶応3(1867)年に、京都に向かう副長土方歳三らが立寄っている。荷物を飛脚屋に預けて身軽になった一行が、昼食を釜屋でとっている。酒は出なかったが、刺身に三、四品の肴がついて、新人隊士には贅沢な食事と映ったようだ。
 当時の釜屋の主人は半右衛門といって、新撰組の賄費は9貫300文だった。その後、新撰組が鳥羽・伏見の戦いで敗れ、海路、江戸に戻ると、慶応4年1月15日、ここに止宿した。
 平成8(1996)年に、「青町横町商店会まちのお宝保存会」によって、釜屋跡地に案内板が設置された。