京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2010年秋
秋の両国を歩く
-忠臣蔵・大震災・大空襲-

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 11月14日(日)(雨天順延 11月21日<日>)
 *実施の問い合わせは当日午前6~7時までに事務局へ
【集合】 JR両国駅西口改札口 午前10時
【コース】 JR両国駅西口改札口<集合>
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両国橋
 ↓・大山詣での垢離場(こりば)
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回向院
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吉良邸跡
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不知火の碇
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勝海舟生誕の地
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芥川龍之介生育の地
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両国国技館
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旧安田庭園<昼食>
 ↓・安田善次郎
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横網町公園
 ↓・東京都慰霊堂
 ↓・東京都復興記念館
 ↓・関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
 ↓・東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
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財団法人同愛記念病院
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蔵前橋
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厩橋
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駒形橋
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吾妻橋
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アサヒビール工場跡地
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勝海舟銅像
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隅田公園
 ↓・掘辰雄記念碑
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牛島神社
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言問橋
 ↓・東京スカイツリー
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浅草寺<解散>
【参加費】 1000円(資料代を含む)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃、浅草寺前で解散予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

 現在の両国のあたりは、もともと本所と呼ばれていた。この土地の開拓が始まったのは、徳川家康の江戸入府以後のことであり江戸の郊外という位置づけであった。
 明暦の大火(1657年)で江戸の中心部が焼失して以後、幕府は江戸の周辺の都市再開発に着手する(回向院は明暦の大火の死亡者を祀るために創建された)。両国橋(武蔵・下総両国をつないだので名付けられた)は本所深川再開発事業の一環で架けられ、大都市江戸を支える流通の要衝だった深川に隣接する地域として発展していった。つまり本所・深川地域は江戸時代の「新興住宅地」であったのである。
 18世紀後半あたりから、江戸の人口は100万を超え大消費都市として成立し政治・経済・文化の面でそれまでの先進地帯であった大坂と対抗できるようになった。「いき」や「通」といった美意識をもった「江戸っ子」文化が生まれ、本所・深川はそうした文化を支えた地域でもあった。
 その江戸の一角で突如として起こったのが赤穂浪士の討ち入り事件だった。1701(元禄14)年3月14日勅使接待役であった播磨国赤穂の藩主浅野内匠頭長矩(ながのり)が幕府の儀礼を司る高家筆頭吉良上野介義央(よしなか)に対して江戸城内松の廊下で刃傷におよんだ。時の将軍徳川綱吉の裁定によって内匠頭は即日切腹となった。その1年9ヶ月後、1702年12月15日未明、元赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入りし吉良上野介を殺害した。
 本所には吉良上野介の上屋敷があった。この屋敷はもともとは松平信望(のぶもち)という5000石の旗本の屋敷であった。すでに述べたように当時の本所は江戸の郊外とされる辺鄙(へんぴ)な場所であった。名門吉良家がこのような辺鄙な場所への屋敷換えされたことから、幕府は吉良家を見捨てた、または討ち入りをさせたかったという説があるほどであるが、真偽のほどはさだかではない。
 またこの事件は、儒教という幕府の公式学問のあり方が問われた事件でもあった。
 その後、明治時代になると参勤交代で全国から来る武士がいなくなり江戸(東京)の人口は半減することになり、本所近辺も次第に寂れていくことになった。
 大正時代を迎える頃、第一次世界大戦による「バブル」景気もあり、この地域にも住宅街と小さな工場地帯が形成されていった。
 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東一帯はマグニチュード7.9の大地震に見舞われた。特に被害が大きかったのが横浜と東京市内であった。地震と同時に各地で火災が発生し3日間にわたって燃え続けた。東京市では約30万戸が全焼した。特に当時の日本橋・浅草・本所各区はその面積の9割以上が焼失した。被災人口は約170万人(東京市人口の75%)、死傷者・行方不明者は約10万人であった。
 この震災からの復興計画を策定したのは、内務大臣兼復興院総裁の後藤新平だった。当初の計画案は国家予算の3倍にあたる40億円を投入する予定であった。しかし、強い反対にあい予算は大幅に削減された。それでも現在まで東京の道路体系のもととなる基幹道路を多くがこのとき造られた。隅田川に架かる多くの橋もこの復興計画によって造られたものである。
 しかし、この地域は再び大きな災厄に見舞われていく。
 1944(昭和19)年7月のマリアナ諸島のサイパン島占領以後、戦略爆撃機B-29による本格的な日本本土への空襲が始まった。
 1945年3月10日未明から約2時間半、東京下町に対してBー29約300機による夜間の無差別爆撃が行われた。深川・本所・浅草・日本橋・神田などが攻撃目標とされ7~9万人(正確な死傷者の調査は今日まで行われていない)の犠牲者が出た。この時、約19万発の油脂焼夷弾が広範囲に投下され猛烈な火災が引き起こされ、多数の死傷者を出すことになった。この後、東京市全域は空襲を受け、多くの地域が焼け野原になってしまった。
 現在の東京においてこうした天災・戦災の跡をみつけることは、ほとんど不可能である。しかし、そうした歴史はなくなってしまったわけではなく、単に埋もれてしまっているだけである。普段、何気なく見ている景観のなかに歴史の重みを感じてほしい。


3.見学ポイントの解説

両国橋
 万治2年(1659)12月竣工《寛文元年(1661)竣工との説もある》。もとは50m程下流にあり、浅草から渡ってくると、正面に回向院の正門があった。隅田川(大川)には、文禄3年(1594)に千住大橋が上流に架けられて以来、戦略的な必要から橋は架けられなかった。しかし明暦の大火後、江東地方(本所・深川)の開発が進み、両国橋が架橋された。江戸市中の火事からの退路の確保も期待された。初めは「大橋」と名付けられたが、元禄6年(1693)に新大橋が架けられ、「両国橋」と称された。武蔵と下総の2ヶ国に架けられた橋という俗称でもあった。現在の橋は昭和7年(1932)に架け替えられたものという。
 玉屋、鍵屋の掛け声で知られる両国の花火大会は初夏から夏への移り変わりを感じさせる風物詩である。梅雨が終り、夏の盛りを迎えるに当たり、屋形船を出して納涼に川涼みを始める「川開き」に、船頭がお清めをする様に花火を出したのが、次第に日を決めて大きな打ち上げ花火を催す様になったという。欄干に花火玉のオブジェが見られる。
大山詣での垢離場(こりば)
 相模国の霊山大山(阿夫利山)への参詣に向かう出発地。参詣は山頂の石尊社までの登拝が許される旧暦6月27日から7月17日にかけて見られた。江戸の町人たちは同職の仲間や隣近所で講を組織し、三、四人で出掛けることが多かったという。両国橋東詰の垢離場で水垢離をとり、袢纏に鉢巻き、梵天(幣束)と一丈余の木太刀を押し立てて、先達役が法螺貝を吹き、一同で「懺悔(さんげ)懺悔、六根清浄」などと唱えて進んだ。
回向院
 浄土宗、国豊山無縁寺。芝増上寺の末寺。
 江戸時代、明暦3年(1657)の江戸大火後、保科正之ら幕閣は10万8千人余の遺体を本所牛島新田の50間四方の地に埋葬した。その地に建てられた諸宗山無縁寺回向院が始まり。その後も地震・海難事故など諸災害の犠牲者や牢死・刑死者、行旅病死者などが葬られた。
 明暦の大火は振袖火事の名でも知られる。1月18日昼過ぎの本郷丸山町本妙寺からの出火、翌19日昼前の小石川伝通院表門下の与力屋敷から、そして同日夕刻の麹町町屋からの相次ぐ出火により、江戸城を始め、多くの武家屋敷・町屋を焼失した。因みに天守閣は再建されなかった。明和9年(1772)の目黒行人坂の大火、文化3年(1806)の丙寅(へいいん)大火(車町火事)と共に江戸の三大火災に数えられる。
 明和5年(1768)9月、回向院で初めて勧進相撲が行われ《天明元年(1781)が最初とも言われていた》、天保4年(1833)から春秋2回、晴天10日間の常設場所となった。本場所毎に小屋がけがなされ、雨天中止、天候回復で興業再開、一場所終えるのに二ヶ月以上を要したこともあったという。
 明治42年(1909)に山門東隣に常設館が落成し、「国技館」と命名された。相撲が国技として考えられる様になるのは、これ以降のことである。設計の監修は辰野金吾により、13000人を収容した。国技館の丸屋根は「大鉄傘(だいてつさん)」と称され、東京の新名所となった。鶴見の名望家佐久間権蔵の日記にも、息子の道夫が「午後より中島ニ出テヽ国技館ノ角力ニ至ル」という記事が残る(大正6年5月20日)。第二次大戦中、昭和19年(1944)1月の春場所を最後に、風船爆弾の工場として使用されたという。戦後、進駐軍に接収され、返還後は日本大学に売却され、講堂として使用された。老朽化により昭和58年(1983)に解体された。
山門を入って左手の玉垣に囲まれた「力塚」は昭和11年(1936)に建立されたもので、歴代相撲年寄を慰霊したものである。その時、大正5年(1916)建立の「角力記」なども集められたという。
境内の一画に様々な慰霊塔や著名人の墓が集められている。
 明暦の大火による横死者を追善供養した「常念仏一万日回向供養塔」《延宝3年(1675)8月の銘あり》を初めとして、天明3年(1783)の浅間山噴火、安政2年(1855)の大地震、大正12年(1923)9月1日の関東大震災などの犠牲者が慰霊されている。
 海難事故による供養碑も見られる。「南無阿弥陀仏」と刻まれた大きな碑には、ロシアに流されて帰国した大黒屋光太夫の天明2年(1782)の海難事故も記されているという。裏側にある小さな帆掛船の形の碑が珍しい。
 端の方に著名人の墓が並んでいる。
・浄瑠璃 竹本義太夫(1651~1714)
 貞享元年(1684)、大坂道頓堀西に竹本座を興し、近松門左衛門、竹田出雲の作品を語って人気を博し、義太夫節の開祖となる。大正7年(1918)に建てられた墓石の碑銘は衆議院議長大岡育造による。
・戯作者 山東京伝(1761~1816)・京山(1769~1858)
 京伝は深川木場の生まれ。北尾重政に浮世絵を学び、18歳から黄表紙の画工兼作者(北尾政寅)となる。洒落本・滑稽本で人気を得たが、寛政改革の風俗取締りで手鎖り50日の刑に処せられ(1791)、以後は読本作者となる。作品は『江戸生艶気樺焼』『仕懸文庫』『通言総籬(そうまがき)』など。弟京山は兄に勧められ、戯作・篆刻の道に進む。婦女子向けの教訓ものを得意とし、考証にも才を発揮した。安政5年(1858)、流行病コロリ(コレラ)で病死。『蜘蛛の糸巻』『教訓乳母草紙』など。
・国学者 加藤千蔭(1735~1808)
 橘千蔭。賀茂真淵に入門し、古典に通ず。和歌では村田春海と並び、江戸派の双璧を為す。書にも優れ、千蔭流と称される。父の跡を継ぎ、町奉行所の吟味方与力となるが、寛政改革で50石減俸、100日の閉門を命じられた。天明8年(1788)、病気で辞職。
・義賊 鼠小僧次郎吉(1797~1832)
 鳶人足くずれの盗賊で、主に武家屋敷から盗んだ。小塚原で獄門となる。彼の供養塔のかけらを持っていると願いが叶うという俗信から、石が削り取られ、何度も建て替えられてきたという。現在は手前に削り取り用の墓石「お前立ち」が置かれている。
 隣に「猫塚」があるのはご愛敬か。
奥にある水子塚は寛政5年(1793)に松平定信が建立したものである。
吉良邸跡
 赤穂浪士の討ち入り(1702年、元禄15)で有名な吉良上野介義央(よしなか)(1641~1702)の上屋敷跡。浅野内匠頭による刃傷事件の時、吉良邸は江戸城内ともいえる鍛冶橋内(八重洲辺り)にあった。しかしそこは御用地として幕府に召し上げられ、一時期は息子である上杉綱憲の屋敷に移った。その後、松平信望の屋敷を拝領した。約8400平方メートル(約2550坪)の広大な屋敷地であった。1934(昭和9)年にその一角を東京市に寄付した。
 吉良家は足利氏から出た一族であり足利一門のなかでは家格が高かった。義央は三河吉良氏の家系で高家として幕府の儀礼に携わった。また知行地である三河国幡豆(はず)郡吉良地方の統治に手腕をふるい黄金堤の築造、富好新田の開発などによって名君として慕われた。
 

 

 徳川綱吉は、それまでの「武威」を重んじた政治に変わって、朱子学を重く用いた政治を行った。後の世から悪政と言われた「生類憐み令」にしても、犬・人間を含めたすべての生類を「仁」の下に幕府の管理・保護下に置くことを目的としていた。
 しかし実際の政治とあるべき理想は必ずしも一致するわけではない。そのことは赤穂浪士の吉良邸襲撃事件を見ても明らかである。
 浪士たちの行動は主君の仇を討つという「義」を実行に移したものであり、朱子学の教えからすれば本来賞賛されるべき行動という者もいた。しかし、彼らを処罰しなければ集団間の私闘を許したことになり、幕府や藩が守るべき「平和」な秩序は維持できなくなる。
 幕府は襲撃後、46人の赤穂浪士をいったん泉岳寺から仙石伯耆守の 屋敷に引き揚げさせ、それから細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物の4大名家に預けさせた。
 忠義を奨励していた将軍綱吉や側用人柳沢吉保をはじめとする幕閣は死罪か切腹か助命かで対応に苦慮した。
 学者間でもさまざまな議論がかわされた。林信篤(大学頭)や室鳩巣(儒学者)は義挙として助命を主張した。荻生徂徠(儒学者、柳沢吉保に仕えた)は、①浅野長矩はもちろん赤穂浪士の行為も、公法からして義ではなく不義である。②しかし主君のために敵討ち(復習)するのは、私(わたくし)において士の恥を知るものであり同情できる。③従って彼らは切腹に処するべきだ、と主張した。この荻生の主張が採用され、浪士には切腹が命じられた。
 結局、一面では賞賛されるべきであった浪士たちを綱吉は処分せざるをえなかった。すなわち綱吉の考えた(理想とした)道徳国家はついに実現されなかったのである。
 
不知火の碇
 駆逐艦不知火(しらぬい)は東雲(しののめ)型駆逐艦の一艦である。1896(明治29)年度の海軍拡張計画で建造された日本初の駆逐艦。同型艦6隻はイギリスのソーニクロフト社に発注された。全艦が日露戦争に参加した。同型艦には、東雲、叢雲(むらくも)、夕霧、陽炎、薄雲がある。
 1899(明治32)年5月13日、イギリス・ソーニクロフト社で竣工した。1922(大正11)年特務艇(二等掃海艇)に編入。翌年、雑役船(運貨船)に編入された。1925年廃船。322トン。全長63.5m、最大速力30ノット。
勝 海舟 (文政6~明治32年〈1823~99〉)
幕臣、幼名及び通称は麟太郎。本名は義邦(よしくに)、のち安芳。江戸の人。蘭学・兵学に通じ、蕃書翻訳係に採用され、さらに長崎に設立された海軍伝習所に入る。1860年(万延1)遣米施設の随行艦咸臨丸を指揮して太平洋を横断。海軍操練所では広く諸藩の人材を育成、幕府の主流派からは離れたが、幕府海軍の育成に尽力。征討軍に対し旧幕府を恭順に導き、西郷隆盛と会見して、江戸の無血開城を実現した。維新後は海軍卿・枢密顧問官などを歴任。「吹塵録」「開国起源」など、著書も多い。
芥川龍之介(1892~1927)
 東京生まれ。号は澄江堂主人。俳号は我鬼。府立三中(都立両国高校)、第一高等学校、東京大学英文科卒。1916年、第4次『新思潮』創刊号に発表した「鼻」が夏目漱石に激賞され、翌17年、創作集「羅生門」で不動の地位を築く。作品は、『今昔物語』などの古典文学から題材をとったもの、キリシタンもの、江戸を題材にしたものなど、多岐にわたる。胃潰瘍、神経衰弱、不眠症に悩まされ、田端の自室で大量の睡眠薬を服用し、自殺。
「芥川賞」は、芥川を記念し、文芸春秋社が1935年に設けた賞。長男比呂志は俳優。三男也寸志は作曲家。
代表作
初期:「羅生門」、「鼻」、「芋粥」など
中期:「地獄変」、「邪宗門」など
後期:「河童」、「大道寺伸輔の半生」など
両国国技館
 昭和59年(1984)11月、貨物操車場跡であった現在地に完成。地上2階、地下1階。1月・5月・9月の3場所を開催。
 旧国技館がGHQに接収され、メモリアルホールと改称後、相撲興業に使用できなくなると、明治神宮外苑での野天相撲、日本橋浜町公園に仮設国技館を設けての興業を行った。台東区蔵前に国技館が仮設されたのが昭和25年(1950)。昭和29年に2階建で、外観が純和風の蔵前国技館が完成した。収容人数は11000人だった。昭和59年(1984)9月場所を最後に閉館。東京都に売却して得た金は、新国技館の建設資金とされた。
旧安田庭園
 下野国足利本庄家の下屋敷。隅田川の水を用いた潮入り回遊式庭園。維新後は備前岡山の池田章政邸となり、明治24年に安田善次郎の所有となる。善次郎没後、東京市に寄贈され、開園された。昭和42年、東京都から墨田区に移管されたが、隅田川の汚染や公害により一時は危機的状態となったが、池や樹木の手入れなどの改修工事を経て現在の景観を取り戻した。
安田善次郎(1838~1921)
 安田財閥の創立者。銀行王。元治元年、銭両替商安田屋を開き、維新の混乱期に巨利を得る。安田銀行(後、富士銀行→みずほ銀行)設立。大磯の別荘で、大陸浪人のテロリスト朝日平吾に暗殺される。日比谷公会堂、東大安田講堂は彼の寄付による。
東京都慰霊堂
 現在のJR両国駅裏手一帯には江戸時代、御竹蔵と呼ばれる幕府の用材集積所と御蔵屋敷があった。明治時代には陸軍用地となり陸軍被服廠が置かれた。その後、第一次大戦後の軍縮によって廃止され公園にされる予定であった。1923(大正12)年9月1日午前11時58分に起きた関東大震災のため、数万の群衆がこの空き地に避難してきた。そこに大旋風がおこりあたり一面は火の海となり4万人にのぼる人々が焼死する大惨事となった。この犠牲者を追悼するために1930(昭和5)年、この地に建てられたのが震災記念堂である。
 その後、1945年3月10日の東京大空襲の戦災犠牲者(軍関係以外の一般市民)は、公園その他130ヶ所に仮埋葬されていた。その後、改葬・火葬を行いそれらの遺骨を震災記念堂にあわせて納め、1951年に東京都慰霊堂と改称した。
 本堂は伊東忠太(東京帝国大学・早稲田大学教授、主な設計は平安神宮、築地本願寺など)が設計した。寺院風の建築が特徴である。200坪の講堂を備え、三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41m、基部は納骨堂となっている。講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基納められている。
東京都復興記念館
 震災記念堂の建築とあわせて大震災関係の資料を展示するために造られた。伊東忠太設計。
関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
 1973年に建てられ、表面には「この歴史 永遠に忘れず 在日朝鮮人と固く手を握り 日朝親善 アジア平和を打ちたてん」と刻まれている。関東大震災の時、「朝鮮人が襲ってくる」「朝鮮人が井戸に毒を入れている」というデマが流れた。このデマの出所については諸説があるが、こうしたデマに基づいて自警団、警察、軍隊が朝鮮人を虐殺した。その人数は正式な調査が行われず不明であるが、ある調査では6000名以上が殺されたという。一番多くの朝鮮人が殺されたのは神奈川県である。
東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
 1999(平成11)年3月の都議会決議「東京空襲犠牲者追悼碑の早期建立について取り組むこと」を受けて建設の取り組みが開始された。翌年、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の募金活動による寄付約9065万円を建設経費の一部として2001年に竣工。碑の制作者は彫刻家土屋公雄。碑のなかには東京空襲犠牲者名簿が収められている。ちなみに同時にこの碑と同時並行で検討が進められてきた「東京都平和祈念館」(仮)の建設は現在凍結されている。
財団法人同愛記念病院
 関東大震災の時、米国赤十字社が中心となって救援金品の募集が行われた。その結果、義捐金の総額は1960万ドルにのぼった。日本政府は、被災民や貧困者の救援のため、義捐金の一部約700万円を使い、病院を設立することにし財団法人同愛記念病院財団(旧財団)が設立された。その時の病院の経営の基本方針は①病院は一般病院とする、②経営方針は無料または経費を原則とする、③総資金のうち約300万円を創設費とし残額を経営資金とする、④病院の位置はなるべく本所深川方面とする、⑤名誉会長に駐日米国大使を推薦する、などであった。同愛記念病院(The Fraternity Memorial Hospital)は1929(昭和4)年から診療を開始した。その後、旧財団は1945年4月1日日本医療団に合併した。戦後、GHQに接収されていたが1955年社会福祉法人同愛記念病院財団が設立され、翌年診療が再開された。
蔵前橋
 橋名は「蔵前通り」にちなんでいる。1984年(昭和59)年までは蔵前国技館がすぐ近くにあり、高欄には力士などのレリーフが施されている。関東大震災の復興計画の一貫で架橋された。橋長173.2m、竣工1927(昭和2)年。施工は東京市復興局。
厩橋
 橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった)」にちなんでいる。橋全体に馬を連想させるレリーフなどが施されている。関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋された。橋長151.4m、竣工昭和4年9月、施工東京市復興局。
吾妻橋
 1774年(安永3)年に初めて架橋された。武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったといわれる。橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれた。これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことからである。1887(明治20)年隅田川最初の鉄橋として架橋された。人道橋、車道橋、鉄道(東京市電)橋の3本が平行して架けられていたが、関東大震災によって木製だった橋板が焼け落ちてしまった。橋長150.0m、竣工昭和6年6月、施工東京市。
アサヒビール工場跡地
 江戸時代から「浩養園」という庭園があり、多くの人々に親しまれていたが、その後1900年札幌麦酒東京工場が設置され、1906年には大日本麦酒吾妻橋工場となった。戦後の大日本麦酒株式会社の分割によりアサヒビール工場となったが、工場の移転後、再開発が進められ、現在は「リバーピア吾妻橋」と名を変え、アサヒビール本社、レストラン棟、住宅、墨田区役所が建てられている。アサヒビール本社ビルはビールジョッキの形をしており、隣のレストラン棟の屋上の巨大なモニュメントは,燃え盛る炎を形象した「フラムドール(金の炎)」と呼ばれるものである。
隅田公園
 隅田川の両岸に及ぶ臨水公園。関東大震災後、帝都復興計画に基づき、火除け地として造成された。
 墨田区役所の北側は水戸藩下屋敷の跡地である。蔵屋敷として利用されていたが、明治維新後、一時明治政府の管理下に置かれ、その後、水戸徳川家当主昭武に下賜され、小梅邸と称された。明治8年(1875)、明治天皇が東京での初の花宴(宮中の花見)に行幸している。隅田川沿いに桜が植えられ、花見の名所となったのは8代将軍徳川吉宗の時であった。関東大震災で全壊した後、池などの遺構を活用した日本庭園が残る。
 公園の入口近くに藤田東湖(1806~1855)の「正気の歌」(「和文天祥正気歌」)の碑が建つ。東湖は徳川斉昭の腹心として藩政改革に当たった。斉昭が幕府から謹慎処分を受けると、彼も連座、弘化2年(1845)、この下屋敷に幽閉されている時に「天地正大の気、悴然として神州に鍾(あつ)まる…」の詩を詠んだという。後、斉昭が許されて幕政に参与する様になると、彼も側用人として復帰、尊王攘夷派の中心人物となる。安政の大地震で遭難。
 この公園の浅草側に「東京大空襲追悼碑」がある。これは1986年3月15日に台東区内で平和運動に携わってきた人たちの請願によって建てられた。碑文の「ああ 東京大空襲 朋よやすらかのに」は当時の内山区長の書である。
掘辰雄(1904~1953)
 小説家、昭和初期に活躍。東京市麹町区平河町に生まれる。父掘浜之助は元広島藩士、上京して裁判所に勤めていた。母西村志気は、東京の町家の娘。浜之助には妻がいたが子がなく,辰雄は堀家の嫡男として届けられた。辰雄が2歳のとき母は堀家を去り、4歳のとき向島の彫金師の上条松吉に嫁した。
 府立三中から第一高等学校に入学。高校在学中に室生犀星や芥川龍之介の知遇を得る。一方で、関東大震災での際に母親を失うという経験をし、その後の彼の文学を形作ったのがこの時期であったと言われている。
 1927年、芥川龍之介が自殺し大きなショックを受ける。このころの自身の周辺を書いた『聖家族』で1930年文壇に登場した。肺結核を病み、軽井沢に療養することも多く、そこを舞台にした作品を多く残している。
 1933年、軽井沢で矢野綾子と知り合う。翌年彼女と婚約するが、彼女も肺を病んでいたために、翌年、二人で療養所に入院する。しかし、綾子は死去することになり、この体験が、代表作『風立ちぬ』の題材となった。
 1937年、加藤多恵(1913~2010)と知り合い、翌年結婚。戦時下の不安な時代に、時流に安易に迎合しないその作風は、多くの支持を得たが、戦争末期からは結核の症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできずに、信州追分で闘病生活を送り、1953年没した。
牛島神社
 神社の名前は、両国・向島の本所一帯に天武天皇(701~764)時代国営牧場が設けられ牛島といわれていたことに由来していると言われている。御祭神はスサノオノミコトで、本所の総鎮守で、縁起によると、貞観年間(859~77)に慈覚大師の創建と伝えられている。1180(治承4)年に源頼朝が千葉から挙兵して隅田川を渡ろうとしたが水位が高くて渡ることができずにいたとき、千葉篤胤が神社に祈願したところ無事渡ることができたので、それを感謝して頼朝は多くの土地を寄進したと言われている。
 社殿は、関東大震災後の墨堤拡張工事のために現在地にうつされたもので、旧社地は約500mほど北の弘福寺裏にあった。社殿に向かって右手前、台座の上の牛は、1825(文化8)年ごろの奉納で、自分の体の悪い部分を撫で、牛の同じ部分を撫でると、病気が治るという信仰があり,「撫牛」と呼ばれている。
東京スカイツリー
 東武鉄道・東武タワースカイツリーによって墨田区押上に建設中の電波塔(送信所)。着工当初は高さを610.6mとする計画であったが高さを634.0mとなるように計画を変更したため、完成すれば電波塔としては世界一、人工の建造物としてはブルジュ・ハリファの828mに次ぐ世界第2位の高さとなる。2008年7月14日、2011年冬に竣工。2012年春に開業予定。
 東京スカイツリーの建設目的は、東京都心部に建てられている超高層ビルの増加に伴う東京タワーから放送の電波障害を低減することにある。