京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2010年春
春の大山街道を歩く
-二子の渡し・二ヶ領用水・東部62部隊-

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 4月18日(日)(雨天順延 4月25日<日>)
 *実施の問い合わせは当日午前6~7時までに事務局へ
【集合】 東急田園都市線二子新地駅東口改札口 午前10時
【コース】 二子新地駅<集合>
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二子橋(二子の渡し)
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二子神社
 岡本かの子文学碑
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光明寺
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大山街道ふるさと館
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大貫家
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国木田独歩の碑、亀屋
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二ヶ領用水
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上田家住宅、自由民権家上田忠一郎
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久地円筒分水<昼食>
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溝口神社
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宗隆寺
 浜田庄司
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ねもじり坂
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笹の原子育て地蔵
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東部62部隊遺跡
 部隊本部
 部隊兵舎
 将校集会所(お化け灯籠)
 馬房
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宮崎台駅<解散>
【参加費】 1000円(資料代を含む)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃、東急田園都市線宮崎台駅
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

大山街道
 溝口南公園への大山街道からの入口に「大山小径」と題されたスペースがある。路面の絵タイルに江戸時代に刊行された「新往来すごろく」の図を利用して大山街道を紹介したものである。
 大山街道は神奈川県の南部を通る東海道と北部をかすめる甲州街道の間に、縦横に発達した脇往還の一つで、矢倉沢往還、厚木街道ともいう。
 ルートは江戸赤坂御門に発し、青山、三軒茶屋を通り、多摩川を二子の渡しで越え、溝の口、荏田、長津田、下鶴間、厚木、伊勢原、秦野、松田を経て、南足柄の関本に入り、矢倉沢の関所を抜けて足柄峠から御殿場に出て、駿河(静岡県)の沼津に至る。
 大山街道と称されるのは、江戸時代からの信仰の対象であった丹沢の大山への参詣ルートの一つであったことからである。伊勢原の下粕屋で、東海道の東海道の戸塚宿の東、下柏尾から長後、用田を通り、相模川(馬入川)を戸田の渡しで越える柏尾通り大山道と合流し、子易から大山に入ることができる。
 大山は阿夫利(あふり)山(雨降山)とも言われ、山頂に阿夫利神社が祀(まつ)られている。御神体は巨大な自然石で石尊権現と称される。日照り時の雨乞いや五穀豊穣、無病息災、家内安全、商売繁盛などが祈願された。石尊参りは毎年6月27日から7月17日の期間らしいが、春山・夏山と言われるシーズンには大勢の参詣者で賑わったという。大山講が江戸庶民の間で組織され、まず隅田川の両国橋の袂で水垢離(みずごり)をとって出発する(「相模まで聞こえる程に垢離をとり」)。「大願成就」と書かれた納め太刀を担ぎ、金剛杖を手にした人々が賑やかく街道を通行していったことであろう。江戸から18里余、3~4日の行程は手頃な物見遊山であった。宝暦年間(1751~64)に最盛期を迎えた。古典落語に「大山詣り」というのもある。
 また江戸への物流ルートとしても重要で、寛文9(1669)年には二子・溝の口に宿場が設置された。ただし交通量が増えたのは江戸後期になってのことらしい。駿河の茶や真綿、沼津から伊豆に通じていることで、伊豆から干し魚・椎茸・わさび・炭、また秦野のたばこなどが、馬の背に付けられて運ばれた。現在は通りに沿って蔵造りの家や土蔵がわずかに残っており、往時を偲ぶことができる。明治になってこのルートは「県道1号線」となり、現在は「国道246号線」として生まれ変わっている。溝の口付近の旧街道は国道とは重なっていない。
 奥の「慰霊碑」はこの高津地区における戦没者を慰霊したもののようである。碑面には「郷土の平和を祈って 私達の先輩は戦没した 祖国の平和を護って 犠牲者は眠ってゐる 世界の平和を念じて 私達は永遠に忘れない」と刻まれている。

陸軍東部62部隊
 現在の東急田園都市線梶が谷駅から宮前平駅にかけての丘陵地帯は、かつて陸軍東部62部隊が駐屯していた場所にあたる。
 東部62部隊とは通称の部隊名である。1936(昭和11)年2月26日、いわゆる2・26事件が起こり東京赤坂に駐屯していた近衛歩兵第一連隊が加わった。事件後、第一連隊は満州に派遣されたが1940(昭和15)年12月、日本に復員し残務整理のために残っていた留守部隊をもとに再編成され、東京管区近衛第一師団補充隊・歩兵第101連隊となった。この101連隊が1942年11月にこの地に移転してきた。その後、101連隊は1943年4月に鵄(とび)3062部隊に編成され中国に派遣された(第一次東部62部隊)。この年の6月に第2次東部62部隊が編成され、多い時には3000名近くが駐屯していたという。この土地は戦場に兵士を送り込むための短期教育の場所であった。
 62部隊の移転に先立って、1940年9月から陸軍により用地接収が開始され、馬絹・宮崎・梶が谷・上作延・向ヶ丘・土橋・菅生など約250町歩が東部62部隊および演習場として使用された。そこに住んでいた農民は1年以内に移転するように強制命令を受け、中には先祖の墓を掘り起こして移転した家もあった。演習場は通称溝ノ口演習場と呼ばれた。

東急開発
 戦後、東部62部隊跡地を含めた地域は東急によって開発されたいった。東急の多摩田園都市は、戦前の田園調布開発(イギリスの田園都市をモデル)の延長線上にある。すなわち鉄道建設に先行して住宅地を開発するという方式の採用である。東急多摩田園都市の特徴の一つが「一括代行方式」と呼ばれる東急主導の土地区画整理手法である。また東急は経営安定のため東急自体や公団、地元地主などによる中高層マンション建設を進めた。東京からみて遠隔地の開発から始めその内側の地価を高めより多くの利潤が得られるような工夫も行われた。今回、最後に訪れる東急宮崎台駅周辺(宮前地区)も東急の開発地である。この土地は開発前は花卉の栽培が盛んであった。土地買収は1954(昭和29)年以降に本格化した。そして1960年には宮前全域300万坪の土地計画整理計画が策定された。整理計画では、自然の風致を残し地形の変更は最小限にとどめるという方針で、街路・公園・学校などは計画された。この周辺は従来からの地主、旧軍用地の払い下げを受けた土地所有者、小規模土地所有者がおり同意書取得は難航した。この間、1963年に田園都市線延長建設工事が開始され、1966年4月に溝の口駅(溝ノ口駅から改称)ー長津田駅間が開通した。その後、1972年には事実上、宮崎台周辺の土地区画事業は完成した。


3.見学ポイントの解説

二子の渡し
 二子と瀬田を結んだ大山街道名倉沢往還の渡し場。多摩川の流れによりその場所は一定ではない。渡し船には、人や裸馬を乗せる「徒歩舟」と手車や荷馬車を乗せる「馬舟」があった。大正期に入り、軍の演習により木製仮橋がつくられ、やがて姿を消した。二子橋は1925年7月竣工。新二子橋は1974年3月竣工。
二子神社
 もと神明社と称し、創建は寛永18年(1641)といわれ、旧二子村の村社であった。明治になり、村の中ほどの「第六天の森」にあった「第六天稲荷合社」を合祀して二子神社と称するようになった。祭神は天照大神。
岡本かの子文学碑・岡本かの子
 「誇り」と名づけられた岡本かの子の文学碑は、かの子の長男岡本太郎が制作したものであり、かの子文学の熱心な支持者と作家の川端康成や瀬戸内晴海(のちの寂聴)、建築家・丹下健三らの協力により、昭和37年(1962)11月に建てられた。
 岡本かの子は明治22年3月1日、旧二子村の旧家大貫家の別邸(現在の港区青山)に生まれ、5歳のときに本邸に戻った。次兄雪之助の影響で文学に親しみ、跡見女学校入学後、与謝野晶子に師事し、その歌才を認められた。21歳で後に漫画家として一家をなした岡本一平と結婚。画家・彫刻家となった岡本太郎を生んだ。小説家としてのデビューは遅く、昭和11年になってからであったが、それから昭和14年2月に急逝するまでの短い期間に多くの作品を発表した。代表作に「母子叙情」、「老妓抄」、「生々流転」などがある。
光明寺
 真宗大谷派。甲斐武田氏の家臣小山田宗光が、武田氏滅亡後の慶長6年(1601)、出家して宗専を名のり、この寺を興した。岡本かの子の実家大貫家の菩提寺であり、かの子の兄で文才を認められながら夭逝した大貫雪之助の墓碑がある。
大貫家
 大貫家は神奈川県橘樹郡高津村二子に居を構える大地主であった。大和屋と称し代々幕府や諸藩の御用達を勤めてきた豪商で名字帯刀を許されるほどであった。岡本かの子の「老主の一時期」、「雛妓(すうぎ)」などの作品に大貫家の裕福な旧家ぶりや、父寅吉の人柄がうかがえる。
国木田独歩の碑、亀屋
 亀屋は1642(寛政19)年創業の旅館。この亀屋が舞台となる国木田独歩の短編小説「忘れえぬ人々」は、1898(明治31)年、雑誌『国民之友』に発表され、1901年に短編集『武蔵野』に収録された。1934(昭和9)年、亀屋主人の鈴木久吉はこれを記念し、島崎藤村題字による独歩碑を建てたが、亀屋旅館、亀屋会館廃業により、高津図書館に移された。
 
 *国木田独歩(哲夫) 1871~1908(明治4~41)
 下総国銚子生まれ。父は龍野藩士。山口育ち。東京専門学校(早稲田大 学の前身)中退。代表作「武蔵野」、「牛肉と馬鈴薯」「源叔父」、「運命」 など。墓所は青山霊園。  

「忘れえぬ人々」(国木田独歩『武蔵野』、岩波書店、1949年版)より

 多摩川の二子の渡をわたつて少しばかり行くと溝口といふ宿場がある。 其中程に亀屋といふ旅人宿(はたごや)がある。恰度三月の初めの頃であつた、此日 は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだに淋しい此町が一段と物淋し い陰鬱な寒むさうな光景を呈して居た。昨日降つた雪が未だ残つて居て 高低定らぬ茅屋根(わらやね)の南の軒先からは雨滴(あまだれ)が風に吹かれて舞うて落ちて居 る。草鞋の足痕に溜つた泥水にすら寒むさうな漣が立て居る。日が暮れ ると間もなく大概の店は戸を閉めて了つた。闇い一筋町が寂然(ひつそり)として了 つた。旅人宿だけに亀屋の店の障子には燈火が明く射して居たが、今宵 は客も余りないと見えてひつそりとして、をりへ雁頚の太さうな煙管 で火鉢の縁を敲く音がするばかりである。
 
二ヶ領用水(にかりようようすい)
 天正18年(1590)、関東6カ国に転封となった徳川家康は、江戸近郊の治水と新田開発に取り掛かった。用水奉行小泉(こいずみ)次太夫(じたゆう)に命じ、稲毛から川崎領六郷に至る用水路を作らせた。慶長16年(1611)二ヶ領用水は完成した。橘樹郡北部(稲毛領37ヶ村・川崎領23ヶ村、約2000町歩)の広い範囲に水路が巡らせれた。この用水によって新田開発が進み、「稲毛米」と呼ばれる上質な米が産出された。寛永6年(1629)宿河原取水口および宿河原用水が完成し、米の生産量が大幅に増加した。さらに享保9年(1794)農政家田中(たなか)丘隅(きゆうぐ)によって全面改修が行われた。明治維新後には水田用水だけでなく、横浜の水道水として明治20年まで使用された。大正期以降になると工業水としても利用された。現在ではそうした役割を終え、「地域による水系を活かした環境づくりの推進」の中核的な役割を担い「多摩川エコミュージアムプラン」の中核的施設となっている。
上田家住宅、自由民権家上田忠一郎
 上田家は6代目までは大工であったという。隣家の上田家(大門鉎)とは兄弟分家である。江戸に出店を持つ醤油屋(稲毛屋)で、質屋も営む上田家の7代目、上田忠一郎(1848―1914)は、甥に家業を譲り政治の世界に入った。明治12年、県会議員となる。自由民権運動が各地に広まった明治初期、上田家にはさまざまな民権運動家達が訪れ、上田家は「サロン」の役割を果たし、多くの在村民権家を育てた。また明治13年には民権結社で橘樹郡親睦会を結成するなど、忠一郎は財産をなげうって民権運動につくした。翌14年には自由党に入党。上田忠一郎については、甥の正次による『上田正次日記』に、その活躍ぶりが書かれている。墓は、高津郡溝口宗隆寺にある。
久地円筒分水
 川崎市で初めて国の有形文化財に選ばれたのが久地の円筒分水である(1997年)。ここには川崎市を横断する形で平瀬川が流れ込み、二ヶ領用水と一緒になり「あばれ川」のようになっていた。そこで平瀬川と二ヶ領用水を切り離して平瀬川の川底を二ヶ領用水より1.5メートル低くし二ヶ領用水がぶつかる手前に堰を造った。そして合流して多くなりすぎた三分の二の水を平瀬川に落として、三分の一を平瀬川の真下をくぐってサイフォンの原理をつかって円筒の施設に吹き出させる方式をとった。1941(昭和16)年にこの施設は完成したが、この設計・建設にあたったのが多摩川右岸農業利水改良事務所長だった平賀栄治(1892~1982)だった。
 円筒分水の仕組みは、コンクリート管を通って流れてきた用水を(1)円筒分水中央の円筒から噴水のように噴き上げる、(2)その波立った水面の乱れを、内側の直径8mの円筒が整水壁となって押さえる、(3)4つの堀の灌漑面積に合わせて仕切られている(川崎堀:38.471m/六ヶ村堀2.702m/久地堀1.675m/根方堀7.415m)直径16mの外側の円筒に流れ込み、(4)それぞれの仕切から溢れた水が各堀へ流れていくというものだ。用水の流量が変化しても、常に一定の比率で分水される仕組みになっている。
溝口神社
 『新編武蔵風土記稿』には「赤城社」として記載される。明治維新後の廃仏毀釈に伴い近隣諸社を合祀し、さらに伊勢神宮から分霊を奉迎して天照皇大神を祭神とし、溝の口村の総鎮守社「溝口神社」となった。明治6(1873)年に村社とされている。明治29(1896)年につくられた祭礼用の幟(のぼり)は勝海舟の筆によるもので社宝となっている。
境内には水神社の祠(ほこら)と水道組合碑がある。水脈に恵まれず、飲み水にも不自由していたこの付近では、名主の井戸からいくつか溜め池まで引水したが、この引水設備の完成を祝って水に感謝して水神宮を祀ったという。この設備は関東大震災によって打撃を受け、簡易水道が完成したのは昭和6(1931)年であった。完成を記念して建てられたのが水道組合碑である。
二子神社・久地神社なども本社が管理している。
宗隆寺
 日蓮宗興林山宗隆寺。元は天台宗というが、その創建については不詳。改宗については以下の寺伝がある。明応5(1496)年、ある夜、住職興林が夢で千眼天王(帝釈天・富士浅間)から日蓮宗に帰依すべしとのお告げを受ける。奇しくも同夜、この地の地頭で池上本門寺の檀徒であった階方新左衛門宗隆も同様の霊夢を見たという。両者相談の上、興林が池上に至り、本門寺第八世貫主日調に会い、子弟の約を結んだ。興林は新たに日澄の名号を与えられ、旧号を山号とし、新左衛門を開基として、その号を寺号にしたものという。日澄は聡明な人物で21歳にして「関東の知識」と呼ばれたという。天正元(1573)年、行年99歳で寂す。毎年10月21日に営まれる日蓮宗の御会式(おえしき)では、街道に華やかな万燈が並び、たくさんの人で賑わうという。
山門は明和4(1767)年の建立。山門脇には松尾芭蕉の句碑が見られる。文政12(1829)年に薬種商灰吹屋主人玉川宝永が建立。「世を旅に代(しろ)かく小田のゆきもど里」。墓地には陶芸家浜田庄司、蘭方医太田道一の墓がある。また山門脇に庄司の書体で「昨日在庵、今日不在、明日他行」の碑もある。
浜田庄司
 陶芸家。1894年12月9日、川崎市溝ノ口の母の実家「太田家」で生まれる。本名象二。幼少期は父親の実家「大和屋」(「大山街道ふるさと館」に隣接するケーキ屋、江戸時代創業の和菓子屋だった)で過ごした。東京芝の家から府立一中(現都立日比谷高校)に通い、工芸の道を志し、板谷波山を慕い東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学した。1916年卒業。千葉県我孫子の柳宗悦の家で窯を開いていたイギリス人の陶芸家バーナード・リーチ(1887~1979)に出会い、20年、彼の誘いで渡英し、セント・アイブスに登り窯を開いた。24年に帰国し、のち栃木県益子に移り作陶。伝統的な手轆轤(ろくろ)のみを使用するシンプルな造形と釉薬(ゆうやく・うわぐすり)の流描による大胆な模様を得意とした。
柳宗悦や河井寛次郎(工業学校の先輩、京都五条坂で開窯)らと共に民芸運動の推進者となった。61年、柳の死後、日本民藝館の第二代目館長となる。55年、第一回人間国宝(重要無形文化財「民芸陶器」保持者)に認定され、68年には文化勲章を受賞した。77年には自ら収集した古今東西の民芸品を展示する益子参考館を設立、翌年開館。78年1月5日死去、享年83歳。墓は宗隆寺にある。法名「久成院妙益陶匠日應大居士」。
生家跡には「巧匠不留跡」の碑が建っている。
子育て地蔵・戦災供養地蔵
 子育て地蔵は、昔、西国巡礼から戻った村人が、子どもを授かったお礼に建てたと伝えられている。現在でも末長と下作延の人々が講をつくり地蔵を守っている。しかしこの子育て地蔵の前に建てられている戦災供養地蔵に目を向ける人は希である。1945(昭和20)年4月4日、溝ノ口周辺を約100機のB29が空襲した。その様子を見ようと下作延・末長の人々が空襲警報の解除を待って防空壕から出たところ、1機のB29が250キロ爆弾を投下した。一瞬にして6世帯17名(男11名、女6名)が犠牲になった。翌年4月に供養のための地蔵が地元の人々の手によって建てられた。
東部62部隊部隊本部
 現在の宮崎中学校体育館のところに木造2階建ての部隊本部があった。戦後、1960年代まで中学校の校舎として使用されていた。現在は庭石、灯籠などが残されているだけである。  

春風亭柳昇『陸軍落語兵』(ちくま文庫、2008年5月)より

 砂利道の細い県道を約三十分も行くと丘にでた。
 右前方になだらかな起伏のある広々とした野原が開け、これが演習場であった。
 左手に木の香も新しい建物があり、これが兵舎だ。
 営門には、墨痕あざやかに〝東部六十二部隊〟と書かれた表札が掲げられて、私達を迎えてくれた。
 営門を入り、中央が広い営庭で、その前が連隊本部である。そこから左に折れて行ったところに、幾棟もの建物が並んでいる。これが兵舎で、その兵舎の一番手前が私達の第一機関銃隊であった。
 
部隊兵舎
 現在の虎ノ門病院分院からバイパス道路をこえて西梶ヶ谷小学校にかけて5棟の兵隊宿舎があり、1500~3000人ぐらいが収容されていた。戦後、建物は古市場小学校、日吉小学校、大西学園に校舎として利用された。
将校集会所
 少尉以上の佐官・尉官の休憩所として将校集会所が建てられた。その場所が健在の川崎市青少年の家です。戦後、神奈川県の大山に学童疎開をした子どもたちのなかで戦災孤児になった者を収容する宮崎学園が同所に置かれました。その後、宮崎中学をへて川崎市青少年の家になった。ここに唯一残されているのが「お化け灯籠」である。言い伝えによると、東部62部隊が東京から移転してきたとき、この灯籠も一緒にやってきた。それ以来、灯籠は夜中になると歩き廻り、日本から戦場へと赴いた兵士に向かって「帰ってこー、帰ってこー」と言っているという噂がたった。そこで灯籠が歩かないように足を埋めてしまった。またこの灯籠は豊臣秀吉の朝鮮侵略の時の戦利品だという言い伝えもあるが定かではない。
馬房
 現在は分割されたり改装されているが当時の様子が残る数少ない遺構。軍馬を世話する建物であり、軍馬は多い時には100頭いたようである。