京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2009年秋
青山霊園に明治を訪ねる
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目次
1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説
4.参考情報
東京近郊に住んでいる者ならば誰でも一度は、明治神宮外苑に来たことはあるだろう。しかしその歴史を意識して訪れている人はどのくらいいるだろうか?私たちは身近な風景であればあるほど、その風景は以前と変わらないものと考えてしまう。
例えば、今日の集合場所であるJR信濃町駅は江戸時代はお堀の中なのであるが、そのようなことは現在ではまったく想像できない。明治神宮外苑一体は明治初期、青山練兵場と呼ばれた陸軍の施設であった。その施設が大きく変化するのは、1912(明治45)年7月29日(公式には30日)に明治天皇が崩御し、その葬儀場として選ばれてからである。
明治天皇が崩御した後、東京市では「天皇陵を東京へ」という意見が出された。しかし8月1日に大喪は青山練兵場で実施、陵は京都府紀伊郡桃山城址に造ることに内定した。そのため東京市では天皇陵の代わりに記念となる神社・神宮を造ろうという運動が展開された。しかし、同時に明治神宮は必ず東京になければならない訳ではなく各地で招致運動が行われた。こうした国民運動の盛り上がりが明治神宮実現を大きく後押ししていた。結局、神宮造営の土地が東京・代々木・南豊島御料地に決定されたのは、1914(大正3)年だった。
明治神宮は一般の神社と違う特色をもっている。それは@内苑と外苑から出来ていること(外苑という言葉自体が当時一般的ではなかった)、A内苑は国費で造られたが外苑は明治神宮奉賛会が中心となって民間の寄付金で造られたこと、B外苑には記念館や競技場などが造られたことである。
今回歩く外苑の中心は聖徳記念絵画館である。それは明治天皇を記念するという趣旨からしても当然である。その絵画ー正確には壁画というーは明治天皇の生涯を表すのに相応しい題材を確定するのに時間がかかった。またその費用は希望者や画題と関係のある個人や団体に奉納してもらうことで解決することになった。途中日本画と西洋画の画家たちの対立もあり完成にはかなりの時間を要した。結局、壁画完成記念式が開かれたのは1936(昭和11)年であった。外苑はその機能にも関わらず公園ではない。現在でも宗教法人明治神宮の施設なのである。
次の見学地は青山霊園である。ここは公的な霊園墓地のはしりである。その場所がら明治から昭和にかけての有名人の墓が多数ある。それぞれの人生模様を感じとっていただきたいが、明治天皇の関係では乃木希典に注目してもらいたい。乃木は明治天皇の葬儀の大砲を聞きながら殉死したというが、葬儀場と乃木の自宅の近さは実際に歩いてみるとよく実感できることと思う。
- 明治記念館(憲法記念館)
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1947年から明治神宮の総合結婚式場として使用されている。本殿は1881(明治14)年、赤坂に仮御所を設けた際、別殿として造営された。ここで大日本国憲法草案の審議が行われたことから、のち当時の枢密院議長伊藤博文に下げ渡された。伊藤は荏原郡大井村(品川区西大井)の自邸に移して恩賜館と名付けていたが、1918(大正7)年に伊藤博邦から明治神宮へ献上され、「憲法記念館」と改称された。
- 明治神宮外苑
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明治神宮外苑は、国民からの寄付金と献木、青年団による勤労奉仕により、聖徳記念絵画館を中心に、体力の向上や心身の鍛錬の場、文化芸術の普及の拠点として、大正15年(1926)10月に明治神宮に奉献された。付属の施設として憲法記念館(現明治記念館)などの記念建造物と、明治神宮競技場(現国立競技場)・神宮球場・相撲場などのスポーツ施設が旧青山練兵場跡に造成された。創建から敗戦までは、国の施設として管理され、戦後は宗教法人明治神宮の外苑となった。
- 聖徳記念絵画館
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明治天皇と昭憲皇太后の「御聖徳」を後世に伝えるために造営された明治神宮外苑を代表する建造物である。中には明治天皇と昭憲皇太后の事績を描いた壁画80枚が、画題の年代順に展示されている。絵画館が完成したのは1926年であるが、全80枚がそろったのは10年後の1936年であり、依頼を受けながら完成を見ずに亡くなった画家も7名に上っている。国民の献金によって造営された建物で、外装・外階段はすべて岡山県産の花崗石を使用している。建物中央に大理石張りの大広間があり、東西をこの空間で区分し、東側に日本画、西側に西洋画を展示している。
聖徳記念絵画館展示壁画リストはこちら
- 樺太日露国境天測標
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日露関係を見ていった場合にまず、寛政4(1792)年のラクスマンの根室来航が挙げられる。この時に、大黒屋光太夫が日本へ送還され、「信牌」をもらい、一旦帰国した。その後、この「信牌」をもって文化元(1804)年に露米会社専務のレザノフがやってきたが、幕府への通商要求が通らず、1806−7年にかけて部下のフヴォストフ、ダヴィトフに命じ、樺太・択捉などを襲撃させた。
文化8年には、国後測量中のゴロヴニン海軍中将が捕らえられ、ロシアは高田屋嘉兵衛を捕え、翌年、両者の交換により、日露関係の最悪な事態は免れる事となった。
それから、時がたち、嘉永6(1853)年7月にプチャーチン海軍中将兼侍従武官長が長崎に来航するが、クリミア戦争の影響もあり、一旦日本を離れ中国へ向かう。そこで、ペリー艦隊に接触し、日米交渉の状況を把握した上で、同12月5日、再び長崎にやってきた。この時、締結された日魯条約において択捉・得撫両島の間を国境とし、樺太は両国雑居の地となった。
その後、安政4(1857)年には、修好通商条約を結ぶ前予備条約として、日魯追加条約が締結された。この条約は、キリスト教の信仰が居留地内では自由になる事と、貿易の制限が緩くなった事が特徴として挙げられ、文字通りの「開国」を意味するものとなった。安政5年に日魯修好通商条約が締結されると、追加条約は廃止され、双務的領事裁判権及び最恵国待遇、片務的協定関税が認められ、他の条約とは違う部分が見られる。
文久元(1861)年には、対馬でポサドニック号事件と呼ばれる魯艦占拠事件が起こっている。当時の長崎奉行所の認識には、元寇以来の「魯寇」が来たとして再び「神国」思想が挙がった事もあったが、箱館奉行兼外国奉行村垣淡路守範正と駐日ロシア総領事ゴシケーヴィチとの間で交渉が行われ、解決へと向かっている。
文久2年に、文久使節団がヨーロッパに派遣され、ロシアにも廻り、国境画定交渉を行うが50度線より南を日本、北をロシアとして従来のものと変わりはなかった。
慶応3(1867)年にふたたび国境画定交渉を行う使節団が派遣されるが、「樺太島仮規則」を取り交わして、これまで通り雑居地とする事を認め、未開発の場所への移動・建物建造は自由とする取極めを行った。その後もロシアとの間で小競り合いが続くも、明治8(1875)年、日本特命全権大使兼海軍中将榎本武揚が交渉し、「樺太千島交換条約」を締結し、国境問題に終止符を打つこととなった。
明治37年には日露戦争が勃発し、翌年のポーツマス条約によって、樺太の北緯50度以南を日本領とする国境画定がなされました。
明治39年から同41年まで、天文測量が行われ、国境画定作業が行われ、東はオホーツク海側から西は間宮海峡側まで、おおよそ130キロごとに4基の天測境界標、17ヶ所に平均6キロごとに中間標、19ヶ所に木標が建てられた。また国境全線にわたり幅6メートルの林空が開かれた。三角測量に関わった日本人に矢島守一、平山清次がいる。国境画定委員長は陸軍砲兵大佐大島健一であった。明治神宮聖徳記念絵画館には昭和元(1926)年に旧樺太庁から寄贈された天測境界標第4号の複製品が設置されている。これと同じ標石は札幌の開拓神社脇にも設置されている。また、この絵画館には安田稔によって描かれた「樺太国境画定」の壁画が展示されている。昭和7年に日本石油会社によって奉納されたものであることがわかっており、寸法は縦2.7m、横2.5mとなっている。絵には日露両国の陸軍が標石を設置している様子が描かれている。標石が地中に設置されていたり、頂部の台形の部分がなく角錐のような形になっている部分もあり、必ずしも正確とはいえないが、貴重な絵画作品の一つとして挙げられよう。
その後、天測境界標は全部で4基設置されたものの1970年代に日本の北方領土返還要求に反発した旧ソ連国家保安委員会が標石の撤去要求を行っている。
第1号はオホーツク海側の旧遠内海岸近くにありましたが昭和62年に国境警備隊が撤去し、台座も破壊され、サハリン州立郷土博物館に入った。第2号は、 幌内川右岸にあったが、平成9(1997)年に根室市郷土資料保存センターに入った。第3号は、昭和13年に人気だった女優岡田嘉子と演出家杉本良吉が国境強行突破によりソ連領内に入る事件を起こした付近(中部スミルヌイフの北30m付近の国境縦断の街道付近)に立っていたといわれている。ちなみに岡田は1992年にモスクワで死去。杉本は1939年に銃殺されている。標石は昭和24年に撤去されユジノサハリンスクのサハリン州立郷土博物館に入ったが、その後に破壊されたという話や実物はサハリン内にあるという話もある。今年、映画で『劒岳―点の記』が公開されたが、まさにこれと同じような作業が樺太で行われており、その作業の結果、4基の標石が作られた。その内の4基目が今回の歩く会の中に登場したものである。今回の歩く会をもとに今一度、日露国境問題を考えるきっかけになると良いと思う。
- 明治天皇斎場跡
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大正元年9月13日、明治天皇の大喪が旧青山練兵場で行われた時、この場所に御轜車(ごじしゃ)(ひつぎを乗せる車)が安置された。
- 建国記念文庫
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祝日「建国記念の日」の制定については、国内で大きな議論になった。国会には9回にわたる提出と廃案が繰り返されたが、1972(昭和42)年、政令により「建国記念の日」が国民の休日となった。この文庫は、制定希望の意見書を保管するために、奄美半島の穀物倉高床様式を模している。なおこの碑文を書いた菅原通済は建国記念日審議会会長で、鎌倉深沢地域の丘陵に高級別荘地を開発し鎌倉山と名づけて分譲したことなどで有名な実業家である。
- 御観兵榎
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青山練兵場の時代、明治天皇臨席のもと大日本帝国憲法発布観兵式、日露戦役凱旋観兵式などが行われた。その際、明治天皇の御座所は常にこの榎の大木の西側に設けられていたので、この木を「御観兵榎」と名付けた(現在は二代目の榎)。
- イチョウ並木
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外苑を造成するときに青山通りからの直線道路は左右の歩道に植樹帯を設けイチョウを植えることになった。このイチョウは新宿御苑のものを種として宮内省南豊島御料地(現明治神宮内苑)で成長させたものを植えたものである。
- 青山霊園
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もとは美濃国郡上藩の青山氏下屋敷であった土地に1872(明治5)年明治政府が共同墓地として造成した。1889(明治22)年に東京市営墓地、1935(昭和10)年青山霊園と改称され、1943年東京都営となった。戦後移転計画もあったが、逆に霊園公園構想が持ち上がり整備が進められている。
- 「旧近衛鎮台砲兵之墓」・竹橋事件
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1878(明治11)年8月23日夜、東京で近衛砲兵大隊を中心に東京鎮台予備砲兵大隊と近衛歩兵第二連隊の兵士300余名が蜂起した。55名の死刑をはじめとして、363名の受刑者を出した事件を竹橋事件という。政府は西南戦争の恩賞への不満から無知な兵士たちが起こした暴動と、事件を矮小化し、その真相を隠蔽した。確かに不公平な恩賞が蜂起の直接的な動機とはなったであろうが、当時、明治政府が進めていた徴兵制や学制、地租改正といった近代化諸政策への不満が背景にあり、藩閥専制政治を批判する自由民権運動の考え方を持つ者も見られたという。政府を批判する思想の軍隊ヘの浸透を警戒した政府は、「軍人訓誡」(1878)、「軍人勅諭」(1882)などで「天皇の軍隊」「皇軍」作りを進めていくこととなる。
「旧近衛鎮台砲兵之墓」は1889年の大日本国憲法発布による大赦で出獄した内山定吾(予備砲兵大隊の少尉、無期徒刑)らによって建立された。当時の陸軍墓所は現在の都立大田桜台高校正門付近にあったというが、戦後の同校建設に当たり、現在地に移されて所在が分からなくなっていた。遺族の方や作家澤地久枝(『火はわが胸中にあり』岩波現代文庫)が探し当て、1977(昭和52)年に麻生三郎を中心とした現「竹橋事件の真相を明らかにする会」が結成されている。のち墓所の管理権が東京都から委譲されるのを機に「竹橋事件青山墓地遺族会」が結成され、さらに建碑運動の中で1985年に全国遺族会が発足したという。
左隣の「合葬之墓」は1943年に、陸軍刑務所で刑死もしくは獄死した兵士の内、引き取り手の無かった17名を合葬して建立されたらしいが、その経緯は不明という。
1987年10月15日に建立された顕彰碑には、澤地久枝の撰文と裏面に処刑された55名と自殺者1名が殉難者として刻まれている。
- 中江兆民(なかえ ちょうみん)
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1847年(弘化4)〜1901年(明治34)。本名は篤助。高知城下山田町に生まれる。1871年(明治4)、明治政府が派遣した岩倉使節団には司法省9等出仕として採用され、同年11月には横浜から出発し、アメリカから第三共和政時代のフランスへ渡る。フランスではパリ、リヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合う。1874年(明治7)帰国し、仏学塾を開設する。帰国後まもなくルソーの『社会契約論』の翻訳を手がけた。1875年(明治8)東京外国語学校長、元老院少書記官を歴任、1877年(明治10)退官、仏学塾経営に専念。1881年(明治14)『東洋自由新聞』の主筆となるが、すぐに廃刊となる。翌年(明治15)仏学塾出版局から漢訳の『民約訳解』を出版した。自由党の旗揚げに関わり、党の機関紙『自由新聞』の社説掛(明治15年創刊)となる。1883年(明治16)ウージェーヌ・ヴェロン原著『美学』(1878刊)を翻訳した『維氏美学』を著した。 明治18年(1885年)長野県出身のちのと結婚。1886年(明治19)にはアルフレッド・フイエー原著『哲学史』(1879刊)を翻訳した『理学沿革史』を著した。1887年(明治20)4月『三酔人経綸問答』を著す、南海先生、洋学紳士君、東洋豪傑君の三人を登場させ日本の今後の現在未来の進路を討論させる独特の方法を駆使している。この著作は兆民の講壇研究から政治的実践への宣言書でもあった。帝国議会開会を前に上から与えられた民権「恩賜的民権」を下から獲得する「恢復的民権」たらしめようと民権派を結集し、「憲法点閲」を唱え、自らも衆議院議員となり衆議院での圧倒的多数による支配をめざした。明治24年(1891年)9月に立憲自由党が結党され、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤り2月に辞職。その際「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御届候也。」という辞表を提出した。議会での戦いに敗れ、議員を辞職、政党は兆民の目論見とは別のものとなっていった。晩年には喉頭癌におかされ、医師から余命1年半と宣告された。激痛に耐えながら1901年8月博文館から『一年有半』を出版、ついで『続一年有半』を脱稿。同年12月13日小石川の自宅で逝去。
- 川路利良
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1834〜79年。薩摩藩郷士(鹿児島城下の北、吉野村出身。父は与力組)の子に生まれる。禁門の変で西郷隆盛に知られ、戊辰戦争で戦功を上げる。明治4年東京府大属となり、翌年5月、邏卒総長に任じられた。西郷の推薦で、警察制度調査に渡欧。明治7年、東京警視庁が設置され、大警視に就任。明治10年、東京警視庁が廃止され、内務省警視局に移管、そのまま大警視を務める。西南戦争では陸軍少将兼任となり、征討別働第三旅団司令長官として警視隊を率いて奮戦。
- 乃木希典
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1849〜1912年。明治期の軍人。山口県出身。戊辰戦争、萩の乱、西南戦争に参加。西南戦争において薩摩軍に部隊の軍旗を奪われる。日露戦争においては第3軍司令官として旅順戦において多くの兵士を失う。日露戦争後、海軍の東郷平八郎と並んで英雄視される。学習院院長となるが明治天皇死去に際して殉死した。墓地には、妻静子と長男勝典(南山にて戦死)、次男保典(旅順にて戦死)の墓もある。乃木自身の墓は生前に用意したもので神奈川県真鶴産の自然石で「明治十年 月 日死」と刻した。乃木の死の後に大正元年九月十三日死と後刻された。
- 尾崎紅葉
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1867(慶応3)〜1903(明治36)。江戸生まれ。本名は徳太郎。帝国大学中退。1885(明治18)年、山田美妙らと硯友社を結成し、「我楽太文庫」を創刊。1889年、「二人比丘色懺悔」を「新著百種」第一号として発刊し、これが出世作となる。「伽羅枕」、「三人妻」、「多情多恨」などを発表。代表作「金色夜叉」は芝居や映画で大好評を博し、現在でも文庫(岩波・新潮)で手に入る。幸田露伴とともに「紅露時代」と呼ばれた。門下生に泉鏡花・徳田秋声らがいる。(紅葉の作品は、発表当時の書籍が国会図書館近代デジタルライブラリーで画像公開されている。また、「青空文庫」でも読むことができる。)
- 「解放運動無名戦士の墓」・細井和喜蔵
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細井和喜蔵をはじめ有名無名すべての解放運動戦士の共同安息所として細井和喜蔵遺志会により建立され、終戦後、日本国民救援会に譲渡されたという。毎年、パリ・コミューン記念日である3月18日に全国から遺族が集まり、盛大に慰霊祭が行われる、と1956年3月建立の碑に刻まれている。
細井和喜蔵(1897〜1925)は大正時代の労働運動家、プロレタリア作家として知られる。京都府与謝郡加悦町出身。尋常小学校を5年で中退、織物工場の小僧となる。のち大阪に出て紡績工場に勤め、労働運動に加わるが、病気と組合内部の対立から退職。1922(大正11)年2月以降、『種蒔く人』に小説を発表。代表作『女工哀史』は1923年脱稿、翌年、改造社から刊行。『女工哀史』をはじめ『工場』『奴隷』『無限の鐘』などの作品の印税の一部が「解放運動無名戦士の墓」の建立資金となったという。青山霊園のガイドによると葉山嘉樹(1894〜1945)、藤森成吉(1892〜1977)、山崎今朝弥(1877〜1954)なども眠っているようである。
- 犬養毅
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1855〜1932年。政治家。号は木堂。岡山県の生まれ。慶應義塾中退。「郵便報知新聞」の記者として西南戦争に従軍。1881年統計局権少書記官。明治十四年の政変で大隈重信に従って下野。82年立憲改進党結成に参加、大同団結運動で活躍した。90年第一回衆議院総選挙に当選、以後亡くなるまで17回連続当選した。藩閥打倒を主張して野党的立場を固守し、1912年第3次桂内閣に反対する憲政擁護運動の先頭に立った。22年革新倶楽部を組織、25年それを政友会に合併させ政界を引退した。しかし岡山の支持者たちは引退を許さず犬養を勝手に立候補させ、当選させ続けた。そして政友会幹部に乞われて29年政友会総裁に就任し、31年政友会内閣を組織した。血盟団事件など不穏なテロ事件が相次ぐなか32年の五・一五事件で射殺された。「話せば分かる」という犬養のことばに、「問答無用」と射殺者の海軍将校が叫んだ事実は政党内閣の終末を象徴している。
- 頭山満
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1855〜1944年。右翼の巨頭。福岡県の生まれ。福岡藩士筒井亀策の3男。母方の頭山家を継ぐ。1875年不平士族の矯志社に参加して捕らえられ、西南戦争後出獄。愛国社の国会開設請願運動に参加したが、やがて国権運動に傾き、大アジア主義を唱えた。強硬外交と日本の大陸進出政策を推進、主として政界の裏面で暗躍。右翼の巨頭・黒幕的存在として、政・財界に対して隠然たる位置を占めた。自ら天下の浪人と称し、豪傑然とした言動が多かった。しかしその交友範囲は中江兆民や吉野作造も含まれるなど非常に幅広く、実業家(鉱山経営者)、篤志家としての側面ももっていた。
- 吉田茂
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1878〜1967年。政治家。東京の生まれ。自由民権期自由党の幹部竹内綱の5男として生まれ、すぐ富豪吉田健三の養嗣子となり、のちに大久保利通の次男牧野伸顕の女婿となった。1906年外交官になる。政治思想的には国際協調路線というよりも積極論者であったが、外交的には英米との関係を重視したため軍部から自由主義親米派と見られ、憲兵隊に捕らえられたりした。この戦時中の受難が、逆に戦後は幸いしGHQの信用を得ることになったという。戦後鳩山一郎が追放されると、自由党総裁となり、46年5月第1次内閣を組織したが、1年余りで総辞職せざるを得なくなった。48年10月第2次内閣を組織、極端な財政緊縮策をとり、公務員・公共企業体労働者を大量に整理するなどアメリカの要求に従った政治を強行。「ワンマン」と呼ばれた。51年にはサンフランシスコ平和条約締結と日米安全保障条約締結を実現させた。54年まで首相の座を占め、中央集権を強める警察法改正や保安隊の自衛隊への改編などを行なって戦後保守体制の基本を作り上げた。
- 小村寿太郎
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1855〜1911年。日向国飫肥藩(宮崎県日南市)の下級藩士の子に生まれる。藩校振徳堂、大学南校、開成学校法学部に学び、明治8年、文部省第一回留学生となり渡米、ハーバード大学で法律学を専攻した。帰国後、司法省から外務省へと歴任。父親の負債で困窮し、その整理に奔走してくれた杉浦重剛・菊池武夫等の友情に影響され、国粋主義・対外交に傾斜する。第一次桂太郎内閣で外相を勤め、明治35(1902)年に日英同盟を締結、その功で男爵となる。日露戦後、ポーツマス講和条約を結ぶ。第二次桂内閣でも外相に再任され、日米通商航海条約改正による税権完全回復に成功した。明治43(1910)年には韓国併合を実現させ、侯爵に昇叙される。
- 加藤高明
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1860〜1926年。尾張藩下級武士の子に生まれる。東京大学法学部を首席で卒業、三菱本社に入社。岩崎弥太郎の女婿となる。外務・大蔵両省の要職を歴任。特に公使・大使としてのイギリス駐在は9年にわたる。第3次伊藤博文内閣、第1次西園寺公望内閣、第3次桂太郎内閣の外相に就任。この間、衆議院議員ともなり、一時は桂とも対立関係にあった。明治44(1911)年、男爵となり、大正2(1913)年に立憲同志会に入り、桂の死後、総裁となる。第2次大隈重信内閣では副総理格の外相となり、第一次世界大戦が勃発すると、対独参戦を主張し、対華二十一ヶ条要求を袁世凱政権に受諾させた。のち貴族院議員、子爵、憲政会総裁となり、大正13(1924)年の第二次護憲運動の結果、護憲三派内閣を組織。翌年、普通選挙法、治安維持法を成立させた。大正15年、首相在任中に病没、伯爵に昇叙される。
- 濱口雄幸(はまぐち おさち)
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1870年(明治3)〜1931(昭和6)。高知県出身。東京帝大卒。大蔵省に入り専売局長官・逓信次官を歴任、1913年(大正2)立憲同志会に入党、1915年(大正4)衆議院議員に当選。以後憲政会の幹部。1924年(大正13)第一次、1925年第二次加藤高明内閣の蔵相、1926年第一次若槻内閣の内相を歴任。1927年(昭和2年)立憲民政党結成とともに総裁に就任。1929年(昭和4)民政党内閣を組織した。外相幣原喜重郎、蔵相井上準之介を起用し、金解禁、財政緊縮、産業合理化など、10大政綱を発表。予算の節減、公債発行の中止を実行し、1930年(昭和5年)には金解禁を断行、同年2月総選挙で絶対多数を獲得、臨時産業審議会・臨時産業合理局を設置した。また、協調外交を唱え、対中国政策では英・米と協調し、漸進的方針を打ち出した。軍部・右翼からは軟弱外交と非難された。1930年ロンドン海軍軍縮条約に調印、統帥権干犯問題を引き起こした。1930年(昭和5)11月14日、濱口は広島県福山市郊外で行われる陸軍の演習を視察する予定で、昭和天皇の行幸に付き添い特急燕に乗車するために東京駅を訪れるが、第4ホーム(現在の東北新幹線改札付近)で愛国社社員の佐郷屋留雄(さごやとめお。21歳)に銃撃された。翌年3月逝去
濱口が内閣総理大臣を引き受けるにあたって、主眼となっていた課題は経済政策であった。第一次世界大戦後の国内好況が既に終わりを告げて久しく、昭和2年(1927年)に起きた金融恐慌をはじめ、日本国内が長い不況に喘いでいる一方で、軍拡の動きも活発であった。軍部の動きを抑え、同時に日本を不況から脱するためには、金解禁が不可欠であると濱口は考えた(実際には第一次世界大戦後に再建された新たな金本位制は、諸外国においても正貨不足から軒並みデフレの原因となっていたため不況から脱するどころか、むしろ各国を不況に追い込んでいた)。一貫して国際協調を掲げていた濱口は、蔵相に元日本銀行総裁の井上準之助を起用し、彼の協力の元、軍部をはじめ内外の各方面からの激しい反対を押し切る形で金解禁を断行。特に当時の日本経済の趨勢を無視して、旧平価(円高水準)において解禁した(石橋湛山らジャーナリストは新平価での解禁を主張していた)ことで、輸出業の減退を招き、その後のより深刻なデフレ不況を招来することになる。結果としては、直後に起きた世界恐慌など、世界情勢の波にも直撃される形となり、濱口内閣時の実質GDP成長率は昭和1929年(昭和4)には0.5%、翌1930年には1.1%と経済失政であり、大不況とその後の社会不安を生み出した原因ともなり、後に禍根を残した。任期中に濱口自身が凶弾に倒れたため、その後の経済政策は第2次若槻内閣が引き継ぐ。そして昭和6年(1931年)の成長率はまたも0.4%と低迷することとなる。この大不況は民政党内閣から交代した政友会犬養内閣において蔵相を務めた高橋是清のリフレーション政策により、長きに渡るデフレを終熄させることでようやく終わりを告げることになる。高橋の取った政策は金輸出の再禁止と日銀の国債引き受けによる積極財政という濱口内閣とは正反対の政策であった。犬養内閣において、成長率は昭和7年(1932年)に4.4%、同8年(1933年)に11.4%、同9年(1934年)に8.7%と劇的な回復を見せ、日本は世界に先駆けて不況からの脱出に成功する事になる。
- 井上準之介(いのうえ じゅんのすけ)
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1869年(明治2)〜1932年(昭和7)。大分県出身。 東京帝大卒、日本銀行に入り、1913年(大正2)、横浜正金銀行頭取、1919年(大正8年)日本銀行総裁として第一次大戦の金融及び、戦後の不況対策を行い、、第二次山本内閣の蔵相となり、関東大震災の善後処理にあたる。1927年(昭和2)金融恐慌の祭、再び日本銀行総裁。1929年(昭和4)浜口雄幸内閣の蔵相となり、民政党に入党、次の若槻内閣にも留任したが、世界恐慌による不況の深刻化する中での金解禁、緊縮財政はさらなる深刻な不況を招き、内閣は崩壊。1932年(昭和7)、選挙活動中に血盟団員小沼正に暗殺された。
- 斉藤茂吉
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1882〜1953年。山形県の農家の生まれ、旧姓守谷。東京で開業している親戚の勧めで上京し、医学を学び、親戚の姓である斉藤家を継ぐ。医師(精神科医)としての生活のかたわら作歌に励み、伊籐左千夫に師事し、「アララギ」同人となり、左千夫死後、永塚節、島木赤彦らとともにその主軸として活躍した。第一歌集「赤光」は歌壇以外の人々にも影響を与え、評論・研究の面でも精力的に活躍し、歌壇の第一人者となった。病院(青山脳病院)経営者としてまた家庭人としてさまざまな苦痛・苦難を経験するが、それらを乗り越えて柿本人麻呂・源実朝の研究書や全17冊にのぼる歌集など数多くの作品を残した。
- 大久保利通
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1830年〜1878年。木戸孝允・西郷隆盛とともに維新の三傑と言われる。幕末から薩摩藩において藩政改革、公武合体運動に従事。維新後は新政権において版籍奉還、廃藩置県を断行し、初代内務卿として「大久保政権」体制をつくる。西南戦争の翌年(1878年)5月14日、不平氏族島田一郎らに東京紀尾井坂において暗殺された。同月17日、大久保の葬儀が行われたが日本近代史上最初の「国葬」級葬儀であった。大久保邸(現霞ヶ関)から青山墓地まで葬列が続き行列の最後尾まで45分もかかったという。葬儀に先立ち右大臣正二位が贈位された(明治34年に従一位が追贈)。
- 金玉均(Kim Ok-kyun)
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1851〜1894年。朝鮮(李朝末期)の政治家。開化派。日本との開国後、朝鮮近代化を目指す政治活動を始める。当時の朝鮮は国王高宗の父大院君と王妃の一族の閔氏の対立が続いていた。壬午軍乱(1882、開化政策反対派による政変)で閔氏政権が倒れると、改革派は穏健改革派と急進改革派に分裂した。金は急進改革派に属し、1884年、日本公使館守備兵の軍事力を利用してクーデタを起こし(甲申事変)、閔氏政権を倒した。しかし、清軍の攻撃を受けて3日で倒され、閔氏政権が復活すると、彼は日本に亡命した。閔氏は彼の身柄引き渡しを要求し、暗殺を企てるが、彼は北海道、小笠原など日本国内を転々とした。その後、上海に渡り、そこで閔氏の刺客に暗殺された。その遺体は朝鮮に運ばれ、凌遅刑(人間の肉を少しずつ切り落とし、死に到らしめる刑)に処せられる。
「中央日報」日本語版2005年5月23日によると、この墓所は管理費滞納による改葬対象となっていたが、韓国大使館が管理費を納め、歴史的意義の深い墓所ということで原型保存となった。
≪参考≫国立公文書館アジア歴史資料センター レファレンスコードB03030202200、B03030202300、B03030202400、B03030202500
- 後藤新平(ごとう しんぺい)
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1857年(安政4)〜1929(昭和4)。陸奥国胆沢郡塩釜村(現岩手県奥州市水沢区)出身。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の大叔父に当たり、甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔、演出家の佐野碩をもつ。胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務しのち15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると新平は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。新平本人は最初から政治家を志していたとされるが母方の大伯父である高野の弾圧等の影響もあって医者を進められ、恩師・安場の進めもあって17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学。ただし同校では成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにして愛知県の愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの時期安場の次女、和子を妻にもらう。
1890年(明治23)、ドイツに留学。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、明治25年(1892年)12月には長与専斎の推薦で内務省衛生局長に就任した。明治26年(1893年)、相馬事件に巻き込まれて5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり、一時逼塞。1895年年(明治28)4月、相馬事件で辛酸を舐めたが友人の推薦で復帰。日清戦争の帰還兵に対する検疫業務に広島・宇品港似島で臨時陸軍検疫部事務長官として従事し、その行政手腕の巧みさからこの件の上司であった陸軍参謀の児玉源太郎の目にとまる。 明治31年(1898年)3月、台湾総督となった児玉源太郎の抜擢により、台湾総督府民政長官となる。そこで新平は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を進めた。明治39年(1906年)、新平は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。その後 第2次桂内閣の元で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(1908年〈明治41〉)、寺内内閣の内務大臣(1916年〈大正5〉)10月 )、外務大臣(1918年(大正7年)4月)、東京市長(1920年〈大正9〉12月)を歴任。関東大震災直後の第2次山本内閣の内務大臣兼帝都復興院総裁(1923年〈大正12〉9月)就任、震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のために財界などからの猛反対にあい、当初計画を縮小せざるを得なくなった(議会に承認された予算は5億7500万円)。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されている。晩年は政治の倫理化を唱え各地を遊説した。昭和4年(1929年)、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日逝去。
- 三島通庸
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1835〜88年。薩摩藩士の子として鹿児島高麗町上之園に生まれる。文久2(1862)年、急進的尊攘派として寺田屋事件に連座し、藩邸で謹慎。戊辰戦争では東北各地を転戦した。明治4(1871)年、政府に出仕し東京府参事となる。酒田県令・鶴岡県令を経て山形県令となり、道路開発による産業の育成、東北地方の振興をはかり「土木県令」と称される。明治15年、山形から転じた福島県で三方道路工事を推進し、自由党を主とする県議会や民衆と対立し、福島事件が起きる。さらに明治17年には栃木県令を兼任し、自由党急進派による政府高官暗殺計画から加波山事件を招く。内務省土木局長に転じた後、明治18年の第一次伊藤博文内閣成立で警視総監となる。自由民権運動の取締りに当たり、保安条例実施などで辣腕を振るった。在職中に死去。子爵。
- 松方正義
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1835〜1924年。薩摩藩士の子として鹿児島城下に生まれる。明治政府では日田県知事を振り出しに、民部・大蔵・内務各省を歴任し、地租改正・殖産興業政策に尽力。明治14年政変後、大蔵卿となり、緊縮財政により紙幣整理を推進。明治15(1882)年には日本銀行を設立。増税もなされ、農村部に深刻な不況を招き(松方デフレ)、民権激化事件の原因ともなる。長期にわたり蔵相を務め、2度の組閣でも蔵相を兼任した。のち元老として枢密顧問官、内大臣も勤めた。公爵。
- 黒田清隆
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1840(天保11)〜1900(明治33)。薩摩の下級武士の家に生まれる。戊辰戦争(1868)では追討参謀。五稜郭開城の際、剃髪して榎本武揚の助命嘆願をする。北海道開拓次官から参謀兼開拓長官となり、屯田兵制度設立、札幌農学校設立に尽力するが、北海道官有物払下げ中止に反対して1882年に辞任。また、1876年に日朝修交条規を締結。第一次伊藤内閣の農商務相。第二代内閣総理大臣(1888〜1889)。第二次伊藤内閣の逓信相。著書に「環游日記」(国会図書館近代デジタルライブラリー収録)
- 元田永孚(もとだ ながざね)
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1818(文政1)〜1891(明治24)。熊本藩出身。熊本藩の藩校時習館に学び、横井小楠などとと知り合いその感化を受けた。一時京都留守居・高瀬町奉行などを勤めるが、一度は隠退して私塾を開いていた。明治維新後は1870年(明治3年)宣教使・参事を兼任し、翌1871年(明治4年)には大久保利通の推挙によって54歳にして宮内省に出仕、以後20年にわたって明治天皇の侍講を務めた。その後侍補を兼務し、1886年(明治19年)に宮中顧問官、1888年(明治21年)に枢密顧問官に至った。この間『教学聖旨』(「教学大旨」及び「小学条目二件」)の起草、『幼学綱要』の編纂、『教育勅語』の起草への参加などを通じて、儒教による天皇制国家思想の形成に寄与した。明治天皇の信任が厚く、大事においてはしばしば意見を求めた。また宮中顧問官への就任後も、明治天皇から「天皇の私的顧問」であることを命じられ、正装である洋装の義務を元田だけは免除して和装での参内を許可するなど、彼の明治天皇に対する影響力は伊藤博文ら政府首脳にとっても無視できなかった。1891年(明治24年)死に臨み特旨により男爵を授けられた。
- 植木枝盛
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1857(安政4)〜1892(明治25)土佐生まれ。自由民権運動活動家。藩校致道館で学ぶ。1874(明治7)年、17歳で民会を作る。1875年に上京し、明六社の定期演説会、慶應義塾の三田演説会、キリスト教会に通ったり洋書の翻訳や紹介書を読んだりすることにより、西洋近代思想を独習する。1876年、「猿人政府 ひとをさるにするせいふ」により投獄される。1877年、高知へ戻り、立志社に入り、「立志社建白書」(国会開設要求)を起草する。その後ジャーナリストとして『海南新誌』『土陽新聞』などを編集・発行。板垣退助らとともに、自由党結成・勢力拡大のために尽力する。
1841年に起草した「日本国国憲按」は当時もっとも民主主義に徹底したものであった。(第三編 各州ノ権利及聯邦ト相関スル法、第四編 日本国民及日本人民ノ自由権利)1890年、第1回衆議院議員に当選。1892年、36歳の若さで病没。(毒殺説あり)
- 広瀬武夫
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1868〜1904年。明治時代の海軍軍人。大分県出身。ロシア留学を経て海軍内のロシア通として知られた。日露戦争中の旅順港の閉塞作戦に従事し戦死。国民的英雄として扱われた。
- 乃木旧宅
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乃木希典は1879(明治12)年以来、この地に居を構えていた。現在残されている建物は1902(明治35)年に新築された。馬小屋は1889(明治22)年に建てられた。四つに区画された馬房や馬糧庫などがあり煉瓦作りの立派な建物である。
- 乃木神社
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1912(明治45)年7月30日(本当は29日)、明治天皇は崩御した。大葬は9月13日から三日間行われた。その初日午後8時に一発の号砲とともに御轜車が皇居を発して青山練兵場内の葬場殿に向かった。同時に陸軍大将・伯爵で軍事参議官兼学習院院長であった乃木希典は妻静子とともに自刃した。遺書の内容からすれば妻の静子は当初一緒に殉死する予定ではなかったようである。乃木夫妻の葬儀は18日に行われ20万人が会葬に訪れたという。
夫妻の殉死直後から乃木神社創建の構想は各地でたてられた。時期の早い順から那須(大正4年6月)、伏見桃山(大正4年11月)、函館(大正5年9月)、長府(大正6年12月)、東京赤坂(大正8年5月)、善通寺(昭和10年10月)である。東京赤坂の乃木神社の創建が遅れたのは、明治神宮の創建が決定されたことに対して遠慮したためと言われている。
- 聖徳記念絵画館展示壁画リスト
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日本画画題 |
画家 |
寄贈 |
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洋画画題 |
画家 |
寄贈 |
1 |
御降誕 |
高橋秋華 |
中山輔親 |
  |
41 |
グラント将軍と御対話 |
大久保作次郎 |
渋沢栄一 |
2 |
御深曾木 |
北野恒富 |
鴻池善右衛門 |
  |
42 |
北海道巡行屯田兵御覧 |
高村真夫 |
北海道府
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3 |
立親王宣下 |
橋本永邦 |
三菱合資会社 |
  |
43 |
山形秋田巡行鉱山御覧 |
五味清吉 |
古川虎之助 |
4 |
践疏 |
川崎小虎 |
池田宣政 |
  |
44 |
兌換制度御治定 |
松岡 寿 |
日本銀行 |
5 |
大政奉還 |
邨田丹陵 |
徳川慶光 |
  |
45 |
軍人勅諭下賜 |
寺崎武男 |
山県伊三郎 |
6 |
王政復古 |
島田墨仙 |
松平康荘 |
  |
46 |
条約改正会議 |
上野広一 |
井上勝之助 |
7 |
伏見鳥羽戦 |
松林桂月 |
毛利元昭 |
  |
47 |
岩倉邸行幸 |
北 蓮蔵 |
東京商工会議所 |
8 |
御元服 |
伊東紅雲 |
近衛文麿 |
  |
48 |
華族女学校行啓 |
跡見 泰 |
常盤会 |
9 |
二条城太政官代行幸 |
小堀鞆音 |
三井八郎右衛門 |
  |
49 |
東京慈恵医院行啓 |
満谷国四郎 |
東京慈恵会 |
10 |
大総督熾人親王京都進発 |
高取雅成 |
蜂須賀正韶 |
  |
50 |
枢密院憲法会議 |
五姓田芳柳 |
伊藤博邦 |
11 |
各国公使召見 |
広島晃甫 |
伊達宗彰 |
  |
51 |
憲法発布式 |
和田英作 |
島津忠重 |
12 |
五箇条御誓文 |
乾 南陽 |
山内豊影 |
  |
52 |
憲法発布観兵式行幸啓 |
片多徳郎 |
日本興業銀行 |
13 |
江戸開城談判 |
結城素明 |
西郷吉之助 |
  |
53 |
歌御会始 |
山下長太郎 |
宮内官 |
14 |
大阪行幸諸藩軍艦御覧 |
岡田三郎助 |
鍋島直映 |
  |
54 |
陸海軍大演習御統監 |
長原孝太郎 |
名古屋市 |
15 |
即位礼 |
猪飼嘯谷 |
京都市 |
  |
55 |
教育勅語下賜 |
安宅安五郎 |
茗渓会 |
16 |
農民収穫御覧 |
森村宜稲 |
徳川義親 |
  |
56 |
帝国議会開会式臨御 |
小杉未醒 |
貴族院・衆議院 |
17 |
東京御着輦 |
小堀鞆音 |
東京市 |
  |
57 |
大婚二十五年祝典 |
長谷川 昇 |
華族会館 |
18 |
皇后冊立 |
菅 楯彦 |
大阪市 |
  |
58 |
日清役平壌戦 |
金山平三 |
神戸市 |
19 |
神宮親謁 |
松岡映丘 |
池田仲傳 |
  |
59 |
日清役黄海海戦 |
太田喜二郎 |
大阪商船株式会社 |
20 |
廃藩置県 |
小堀鞆音 |
酒井忠正 |
  |
60 |
広島大本営軍務親裁 |
南 薫造 |
浅野長勳 |
21 |
岩倉大使欧米派遣 |
山口蓬春 |
横浜市 |
  |
61 |
広島予備病院行啓 |
石井柏亭 |
日本学舎日本師会 |
22 |
大嘗祭 |
前田青邨 |
亀井慈常 |
  |
62 |
下関講和談判 |
永地秀太 |
下関市 |
23 |
中国西国巡行長崎御入港 |
山本森之助 |
長崎市 |
  |
63 |
台湾鎮定 |
石川寅治 |
台湾総督府 |
24 |
中国西国巡行鹿児島着御 |
山内多門 |
鹿児島市 |
  |
64 |
靖国神社行幸 |
清水良雄 |
第一銀行 |
25 |
京浜鉄道開業式行幸 |
小村大雲 |
鉄道省 |
  |
65 |
振天府 |
川村清雄 |
徳川家達 |
26 |
球藩設置 |
山田真山 |
首里市 |
  |
66 |
日英同盟 |
山本 鼎 |
朝鮮銀行 |
27 |
習志野之原演習行幸 |
小山栄達 |
西郷従徳 |
  |
67 |
赤十字社総会行啓 |
湯浅一郎 |
日本赤十字社 |
28 |
富岡製糸場行幸 |
荒井寛方 |
大日本蚕糸会 |
  |
68 |
対露宣戦布告御前会議 |
吉田 苞 |
松方 巌 |
29 |
御練兵 |
町田曲江 |
十五銀行 |
  |
69 |
日露役旅順開城 |
荒井陸男 |
関東府 |
30 |
侍講進講 |
堂本印象 |
台湾銀行 |
  |
70 |
日露役奉天戦 |
鹿子木孟郎 |
南満州鉄道会社 |
31 |
徳川邸行幸 |
木村武山 |
徳川圀順 |
  |
71 |
日露役日本海海戦 |
中村不折 |
日本郵船会社 |
32 |
皇后宮田植御覧 |
近藤樵仙 |
一條実孝 |
  |
72 |
ポーツマス講和談判 |
白滝幾之郎 |
横浜正金銀行 |
33 |
地方官会議臨御 |
磯田長秋 |
木戸孝一 |
  |
73 |
凱旋観艦式 |
東城鉦太郎 |
海軍省 |
34 |
女子師範学校行啓 |
矢沢弦月 |
櫻蔭会 |
  |
74 |
凱旋観兵式 |
小林万吾 |
陸軍省 |
35 |
奥羽巡行馬匹御覧 |
根上富治 |
日本勧業銀行 |
  |
75 |
樺太国境確定 |
安田 稔 |
日本石油会社社 |
36 |
畝傍陵親謁 |
吉田秋光 |
住友吉左衛門 |
  |
76 |
観菊会 |
中沢弘光 |
徳川頼貞 |
37 |
西南役熊本籠城 |
近藤樵仙 |
細川譲立 |
  |
77 |
日韓合邦 |
辻 永 |
朝鮮各題 |
38 |
内国勧業博覧会行幸啓 |
結城素明 |
大久保利和 |
  |
78 |
東京帝国大学行幸 |
藤島武二 |
前田利為 |
39 |
能楽御覧 |
木島桜谷 |
藤田平太郎 |
  |
79 |
不豫 |
田辺 至 |
東京府 |
40 |
初雁の御歌 |
鏑木清方 |
明治神宮奉賛会 |
  |
80 |
大葬 |
和田三造 |
明治神宮奉賛会 |