京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2009年春
信仰と遊山の島−江ノ島を訪ねて−

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説
4.参考情報


1.実施要綱

【日時】 4月12日(日)(雨天順延 4月19日<日>)
 *実施の問い合わせは当日午前6〜7時までに事務局へ
【集合】 小田急線片瀬江ノ島駅改札口 午前10時
【コース】 片瀬江ノ島駅<集合>
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江の島弁天橋
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モース記念碑
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オリンピック記念噴水池
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青銅鳥居
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岩本楼
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児玉神社
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江島神社
 辺津宮奉安殿
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金亀楼跡
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中津宮
   表忠碑
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江の島サムエル・コッキング苑 <昼食>
  江の島展望灯台
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群猿奉賽像庚申塔
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奥津宮
 石鳥居山田検校顕彰碑龍宮
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龍野ヶ丘自然の森
 曾禰荒助の碑 <解散>
【参加費】 1500円(資料代・コッキング苑入場料込み)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後2時30分頃江ノ島内で解散予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後2時30分頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

 そもそも源頼朝によって勧請されたとされる江島神社は、武運長久を願う弁才天信仰の中心地であった。しかし身近な観光地として定着し始めると、弁才天は「弁財天」と呼ばれ、技芸や遊興の神として信仰されるようになった。
 近世の江の島は、まさに全島が神社であり「金亀山(江島山)与願寺」と呼ばれる寺院でもあった。そこでは辺津宮(へつのみや)、中津宮(なかつみや)、奥津宮(おくつみや)という3つの神社があり、さらに一番奥の岩屋が「本宮」と呼ばれていた。またあわせて寺+宿坊としての性格をもつ岩本院、上ツ坊、下ノ坊がおかれていた。
 江戸時代後期の天保期になると、江戸の町人たちも経済的に豊かになり、庶民の娯楽として「遊山」(現在でいう観光旅行)が流行するようになった。
 江戸から2泊3日程度でまわれる観光ルートとして、大山参拝→江島参拝→金沢八景見学というルートは江戸庶民の人気の「定番」観光コースであった。そのため江の島は、「遊山」の島として、庶民の身近な行楽の対象となったのである。
 明治時代になると、廃仏毀釈・神仏分離の嵐のなかで、信仰の島としての江の島はすたれてしまうことになる。江島神社こそ県社として残ったものの、三重塔をはじめとする多くの塔頭が壊され、宿坊も岩本院以外はすたれてしまった。
 しかし、江の島の歴史はここで終わってしまったわけではない。特に明治20年頃になると、江の島は再び観光地として賑わいをみせるようになる。それは、この時期に大磯などと並んで片瀬・鵠沼周辺が元勲や財界人たちの避暑地・避寒地とされてきたこと、江の島に流されにくい橋が造られたことなどがあるようだ。
 江の島は、外国人との縁の深い場所である。大森貝塚の発見と日本考古学の先駆として有名なエドワード・S・モースが来日したのは腕足類の採取のためでその場所として江の島が選ばれた。貿易商のコッキングがアジア最初の本格的植物園を建設したことは、まだあまり知られていない。
 また江の島には日露戦争の英雄・児玉源太郎を祀る児玉神社、東郷平八郎揮毫の碑、韓国統監などを歴任した曾根荒助の巨大な石碑などがある。
 あまりに身近な観光地である江の島には、まだまだ知られざる歴史が埋もれているのである。

3.見学ポイントの解説

江の島弁天橋
 この橋が架けられたのは、1949(昭和24)年のことである。ちょうど日本は戦後の財政難のまっただ中で、外貨獲得のため進駐軍の観光用として建設されたということである。なお車道の橋(江の島大橋)は、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催及び江の島でのヨット競技開催にあわせて埋め立てが行われ、江の島湘南港築港と共に架けられた。
 江の島への架橋は、明治10年代の頃からあったことがモースの日記からもわかる。しかし、この時の橋は、現在のものとは違って流されてもすぐに架け直せる「桟橋」と呼ばれる橋で、以後もたびたび流され再建された。渡橋料を取るこの橋は、当時の川口村財政収入の約半分を占めていた。しかし1920(大正9)年に、この橋は県道に指定され県営の橋となった。
エドワード・S・モース
 1838年6月アメリカのメーン州ポートランドに生まれる。少年時代は問題児でハイスクールも中退。ほとんど独学で生物学、動物学、博物学を修得した。
 1877年6月、カンブリア紀の生き残りの珍しい貝類である腕足類の研究最終を目的に来日。だが思いがけず東京大学の初代動物生理学教授に招聘され、大学で進化論を講義することとなった。また大森の貝塚の発見も有名である。
 来日した年の7月後半から8月末までの6週間江ノ島で漁師の網小屋を借り、それを臨界実験所にした。モースの日記から見ると小屋の広さは6坪ほどと思われる、そこでシャミセンガイの採集・研究に没頭した。
 2年間の契約期間を終えてアメリカに帰国後も日本に対する関心を持ち続け、日本に関する書物(「日本その日その日」、「日本の住まい」)を出版。日本の陶器や民具等の収集に持つと目、それは現在でも世界有数のコレクションと言われている。
オリンピック記念噴水池
 1964年の東京オリンピックで江ノ島がヨット会場になったのを記念して作られた噴水池。噴水に設置された5体のブロンズ像は日本芸術院会員で藤沢市在住であった故加藤顕清氏(1894〜1966)が製作したもの。噴水中央に弁財天、そのまわりを西洋・東洋の女性が並んでいる。
 1998年のかながわ・ゆめ国体を機に今の形になり、場所も以前より北に20m程度移動した。
青銅鳥居
江の島弁財天の正面ある青銅鳥居が創建されたのは1747(延亨4)年7)のことである。現在のものは1821(文政4)年に再建されたもので、約 200年の間、潮風をうけながらその姿をとどめている。正面に向かって右側の柱には「願主下之坊恭眞」、左側の柱には「江之嶋屋利助・同佐兵衛・神田川伊勢屋庄五郎」のとあり、また寄進者の名前が世話人を筆頭にして記されている。浅草新鳥越町や新吉原の町名が記されており、江戸下町の人々の深い信仰を示している。なお、藤沢市指定重要文化財となっている。
岩本楼
 当初江ノ島明神の別当は鶴ヶ丘八幡宮が兼務していた。しかし、のち岩本院が岩屋本宮、上之坊が上之宮、下之坊が下之宮を管轄した。徳川幕府が寺社統制として本末制度を導入したため、岩本院・上之坊・下之坊がその地位をめぐって17世紀中に争そったが、結局岩本院が地位を確立した。これによって、岩本院は旅宿営業の独占的地位を確立し、上之坊の御師(おし)(御祷師の略)の札配り等の権利を剥奪し、すべて岩本院の意向のもとにおかれた。現在ある岩本楼は本来は岩本院の宿坊であり、維新後、神仏分離に際しては、いち早く還俗(げんぞく)し、宿坊は旅館として営業するようになった。
 1891(明治24)年、この岩本楼に埼玉県入間郡上野村(現越生町、八高線越生駅下車徒歩20分)から10名からなる女講が宿泊した記録が現越生町上野に残されている。この講元は石井和三郎と謂う人で、安政期に既に養蚕の改良を手がけ、この地域の養蚕・生糸製造のパイオニア的存在であった。彼女たちは上野村から拝島に出て、多摩川を越えて、まず高尾山を訪ね、次いで大山を参拝し、それから江ノ島向かっている。江ノ島岩本楼での宿泊で大変なご馳走をたべている。そして金沢八景、横浜、東京、川越を経由して帰村している。彼女たちが、江ノ島を遊覧する旅に出かけられたのは、まさに養蚕・製糸が当地において重要な地位を占めており、当地の女性の社会的地位を表現していると言えよう。
児玉神社
 この神社に祀られている児玉源太郎(1852〜1906)は、明治時代の軍人・政治家である。児玉の生涯は、軍と戦争とともにあった。彼は、徳山藩士の子として生まれた。最初に参加した戦争は戊辰戦争であり、当時児玉は17歳であった。その後、兵学寮をへて将校となり、西南戦争では熊本鎮台参謀副長として熊本城に籠城した。戦後、東京鎮台歩兵第二連隊長・参謀本部第一局長などを歴任した。また陸軍大学校の創設・運営の中心となり、来日したドイツの参謀少佐であるメッケルの兵学を導入した。その後、陸軍大学校校長となった。
 日清戦争では、陸軍次官兼軍務局長となり、陸軍大臣大山巌が出征中は、事実上の陸軍大臣として活動した。戦争後、臨時陸軍検疫部長となった児玉は、凱旋兵に対して検疫消毒を実施したが、その時の実務責任者が事務官長が後藤新平であった。この後、児玉は第4代台湾総督になるが、民政の実務責任者である民政局長に後藤を任命している。1833年には陸軍大臣を兼任、翌年には内務大臣になった。日露戦争直前に内務大臣をやめ参謀本部次長となった。戦争開始後は満州軍総参謀長となり、作戦上の要職を担った。戦後、参謀総長となったが3ヶ月後に没した。55歳。
 児玉神社の前身は明治45年(1912年)に杉山茂丸が東京都墨田区向島の私邸内に建てた社であると伝えられる。1918(大正7)年に造営され、本殿は大正10年に完成した。神社内には台湾・満州との関係を伺わせる碑(後藤新平碑、満州国外交部総長謝介石による碑、203高地の石など)が多い。児玉神社の社殿や神楽殿は台湾の阿里山檜で造られ、神楽殿の前にある狛犬も台北の観音山から切り出した観音石を用いたもので、1930(昭和5)年に第13代台湾総督の石塚栄蔵が奉献した。また2006年に李登輝台湾前総統が「児玉神社」と揮毫した扁額もある。
 またかつて対岸の片瀬海岸には児玉と共に旅順で戦った乃木希典の銅像があった(1937年建設)。しかし敗戦直後、突然銅像は消えその理由はわかっていない。巨大な台座だけが、公園内駐車場の一角にあったが2004年3月に公園の整備計画に伴って、国道134号寄りに20メートルほど移動された。(記事参照)
江島神社
 手前から辺津宮(へつのみや)(祭神田寸津比売命(たぎつひめのみこと))・中津宮(なかつのみや)(祭神市寸島比売命(いちきしまひめのみこと))・奥津宮(おくつのみや)(祭神多(た)紀理比売命(ごりひめのみこと))、そして岩屋(祭神天照皇大神(あまてらすおおみかみ)・須佐之男命(すさのおのみこと))から成る。江戸時代まで神仏混淆(こんこう)であったが、明治元(1868)年に神仏分離令が出され、現在の形になった。
田寸津比売命(湍津(たぎつ)姫神)・市寸島比売命(市杵(いちき)島姫神)・多紀理比売命(田心(たごり)姫神)は宗像(むなかた)三女神と称され、古代、海上交通の要所に祀(まつ)られた。天照皇大神と須佐之男命(素戔嗚尊)との誓約(うけい)によって産まれたという。
 『江之島縁起』によると、その昔、五頭竜(ごずりゆう)(五つの頭を持つ悪竜)が人々を苦しめていた。ある時(欽明天皇13年=552年)、突如として大地が揺れ、天の暗雲の中からは天女、海中からは島が出現した。天女はその美しさに魅せられ求婚する竜の望みをかなえる代わりに、竜をおとなしくさせた。これが弁財天(弁才天)として、江之島明神になったという。岩屋本宮・上之宮(現中津宮)・下之宮(現辺津宮)の三宮とも弁財天を本尊とし、弁天社と称せられた。ちなみに「日本三弁天」とは厳島・竹生島・江ノ島の三弁天をいう。
 江ノ島明神は金亀山与願寺(古義真言宗)と称され、鎌倉時代、その別当は鶴岡八幡宮寺の南千院が兼務。次第に鶴岡の勢力が衰退すると、三宮の別当、中之坊・上之坊・下之坊が台頭し、三宮を管理した。中之坊は慶安2(1649)年、真言宗御室派の総本山仁和寺の末寺となり院号が許されて岩本院となった。江戸時代には全島がこの三坊の朱印地となり、数度の本末論争を経て、岩本院が一島一山の総別当となった。
 明治政府の神仏分離政策により、別当等は復飾して神主となり、全島から仏教色が一掃された。明治7(1874)年、岩本院は宿坊の経験を生かして旅館経営に乗り出した。現在の岩本楼がそれである。
辺津宮
もと下之宮(しものみや)。田寸津比売命(たぎつひめのみこと)を祀る。権現造り。鎌倉時代の建永元(1206)年、鶴岡八幡宮寺供僧(ぐそう)良真が3代将軍源実朝に申請して創建したという。ただし現在の社殿は、昭和51(1976)年に改築されたもの。
奉安殿
 1970(昭和45)年、法隆寺の夢殿を模して造られた。裸弁財天妙音天、鎌倉時代?)、八譬弁財天(源頼朝寄進?)などを祀る。『吾妻鏡』養和二(1182)年四月五日に、  
 
 「武衛、腰越辺江島に出でしめ給ふ、…是高雄文覚上人、武衛の御願を祈らんが為、大弁才天を此島に勧請奉り、供養法を始め行ふの間、故(ことさら)に以て監臨せしめ給ふ、密議(儀)なり、此事鎮守府将軍藤原秀衡を調伏の為なりと云々、今日即ち鳥居を立てられ、其後還らしめ給ふ」(『吾妻鏡(一)』岩波文庫版より)
 
 とある。
金亀楼跡
 中津宮(もと上之宮)の別当であった上之坊の跡地。旅館「金亀楼」があった。
 明治45(1912)年に刊行された大橋左狂良平の『現在の鎌倉』には「岩本楼前を僅かに進めば、正面に石段がある。茲処よりは江の島神社の神境で、右を男坂と称して、参詣の順路である。左り道は女坂と云ひ登り詰むれば、金亀楼の前を経て奥津宮に至るのである」と記されている。
中津宮
 江ノ島神社の三つの宮の一つ。旧上之宮。市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)を祀る。仁寿3(853)年、円仁(慈覚大師)の創建。現在の社殿は、元禄2(1689)年の再建、1996(平成8)年大改造。円仁は入唐して顕密を修め、帰国後比叡山延暦寺第三世座主として天台宗の基礎を確立した人物である。
 参道には江戸の町人や中村座・市村座などの寄進した石灯籠などが並び、当時の江ノ島詣での様子が偲ばれる。
表忠碑
 明治44(1911)年2月建立。陸軍大将乃木希典(まれすけ)の揮毫(きごう)。江ノ島の在郷軍人らが、日露戦争で戦死した陸軍工兵二等卒井上春吉(江ノ島出身者であろう)のために建てたもの。
江の島サムエル・コッキング苑
 この場所は、もともと江島神社の供御菜園だった。明治時代になり廃仏毀釈政策のために混乱したなか、1882(明治15)年横浜在住のイギリス人貿易商だったサミュエル=コッキング(1845〜1914)が敷地を買収した。この庭園はイギリス造園法に東洋風を加えて設計され、「コキン植物園」と呼ばれた。総面積は1万uを超え、園路、築山、池、花壇のほか温室もあった。
 コッキングは1868年(69年の説もある)に来日しコッキング商会を設立し、美術骨董品の販売、雑貨貿易などを行った。日本人の宮田リキと結婚し、横浜の埋め立て地である平沼に石けん工場を建設、電灯事業などにも手をだした。日清戦争で財をなしたが、日露戦争時に取り引き先の銀行が倒産し経営は傾いたという。
 その後、土地はコッキングの手を離れ転々としたが、949(昭和24)年に「藤沢市立江ノ島植物園」が開設、一時、江ノ島鎌倉観光株式会社(現在の江ノ島電鉄)が経営したが、1964(昭和39)年に再び藤沢市の運営となった。2003(平成15)年4月に「江の島サムエル・コッキング苑」としてオープンした。
 展望灯台はやはり2003年にリニューアルされた。避雷針まで入れた高さは59.8m(海抜119.6m)あり、高さ41.75m(海抜101.56m)のところガラス張りの展望フロア、さらにその上には屋外展望台がある。
群猿奉賽像庚申塔
 藤沢市重要文化財。おなじみの「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿をはじめ、36匹の猿が四面に彫り出されている。
 庚申塔は道教の庚申信仰に由来する。60日に一度の庚申の夜に眠ると命が縮まり、眠らずに身を慎めば災難が除かれるとされ、その禁忌が守庚申と言われた。
奥津宮
 もと本宮(ほんぐう)。多紀理比売命(たごりひめのみこと)を祀る。「御旅所(おたびしよ)」とも呼び、本来の本宮であった岩屋の本尊の夏季避暑地であったという。
 入母屋造り。神門の天井に描かれているのは江戸時代の絵師酒井抱一(1761〜1828)による「八方睨(にら)みの亀」。実物は彩色の剥落が激しく、宝蔵に保管されているという。現在のものは片岡華陽が描いた復元画。
石鳥居
 文政10(1827)年の鳥居修築の記念碑によると、養和2(1182)年4月に源頼朝が建てたとされる。しかし同碑文中に、京都高尾の文覚(頼朝に挙兵を促した僧)に藤原秀衡(ひでひら)調伏を祈請させ、その功なってのち、この鳥居を献じたとも見られる。奥州藤原氏を滅ぼしたのが、文治5(1189)年なので、実際に鳥居が建てられたのは、その後のことかも知れない。
 文政6年8月、台風が激しく、17日に大樹が倒れ、上側の大梁を折ってしまった。江戸の蝋燭(ろうそく)問屋らが発起人となって改修し、文政10年4月に落成したとある。
山田検校顕彰碑・銅像
 山田検校(宝暦7(1757).4.28〜文化14(1817).4.10)は、江戸生まれ。本名三田斗養一(とよいち)。父は名古屋藩宝生流能楽師三田了任。母は山田氏。幼少時に失明し、山田松黒より箏を学ぶ。21歳のとき、処女作「江ノ島曲」を作る。従来の楽器を改良、丸爪を考案し、独自の流派を開く。楽器を中心とする生田流が西日本中心に広まったのに対し、歌を重視する山田流は江戸を中心に普及した。
 顕彰碑・銅像は、山田検校百回忌(1017(大正6)年)に建立された。撰文は幸田露伴、書は小野鵞堂による。当時の像は第二次世界大戦時に供出され、その後台座のみ残されたままになっていた。しかし幸い神社に石膏の型が保存されており、山田流筝曲協会が中心となって復元され、2004(平成16)年4月1日にもとの台座に設置された。
龍宮(わだつみのみや)
 1993年9月完成。岩屋洞窟の作り物の龍がいるあたりの真上という。
曾禰荒助の碑
 曾禰荒助(1849〜1910)は山口県の出身。明治維新後にフランスに留学。帰国後、法制局参事・内閣記録局長などを歴任。1890年、帝国議会開設とともに初代衆議院書記官長となった。1892年の第2回総選挙に立候補して当選、中立系官僚として活躍し、衆議院副議長になった。その後、第3次伊藤博文内閣の法務大臣、第2次山県有朋内閣の農商務大臣、第1次桂太郎内閣の大蔵大臣をつとめた。1907年に伊藤博文韓国統監のもとで副統監となり、1909年に統監になったが病気のため翌年辞任した。
 碑は「西湖曾禰君碑」と書かれた立派な碑で1911(明治44)年に陸軍大将桂太郎の篆額による。

4.参考情報

 
消えた銅像 消えない謎  藤沢・片瀬海岸の乃木大将像  2004(平成16)年2月28日 神奈川新聞、(服部 宏)より
 
 ことしは、日露戦争終結から百年─。日露戦争の陸軍司令官として国民的敬愛を集めた乃木希典大将の銅像が、かつて藤沢市片瀬海岸に立っていた。が、太平洋戦争の敗戦直後、銅像はこつぜんと消えて≠オまう。誰が、なぜ、いつ、どこへ運び去ったのか。多くの謎を秘めたまま、巨大な台座だけが、今も公園内駐車場の一角で風雨にさらされている。その台座が公園の整備計画に伴って、3月17、18日の2日間で移設されることになった。

 銅像の完成は日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)。建設趣意書によると、建設主体は乃木将軍銅像建設会(会長・東郷吉太郎海軍中将)。乃木大将が学習院院長時代に毎年、江の島で生徒らの水泳訓練をした縁から、片瀬西浜海岸が建設地に選ばれた。
 像の高さ1丈2尺(約3.6m)。郷土史研究家・安藤恒男さん=同市片瀬山=の調べでは、台座の主たる石は真鶴石で、日露戦争で乃木大将麾下の第3軍が多くの戦死者を出した激戦地、二百三高地の石塊も使われている。
 その銅像がある日突然、消えた。敗戦直後のこととみられるが、取り壊したり運び去る現場を見た人がなく、藤沢市文書館の資料専門員も消失≠フ時期を特定できていない。
 著書 「湘南再発見」で乃木銅像に触れた吉田克彦さんによると、米兵が像の前で撮った写真があり、撮影日が「Mrch 46」、1946年3月と書かれているという。また、同市片瀬海岸で写真店を営む熊谷守美さんは同年6月ごろ、母親から 「銅像がなくなった」と聞いたことを記憶している。となると、像は敗戦の翌年の3月から6月ごろの間に消えたことになるが、いずれも推測の域を出ない。
 なぜ、についても 「軍人の銅像が占領軍を刺激したから」「敗戦を機に進歩的勢力が『軍国主義的』として破壊したのでは」など諸説紛々。気になる行き先だが、吉田さんは 「遠くへ運んだとは考えにくい。それを誰も見ていないのも不思議。近くの砂浜に埋められているかもしれません」
 銅像があった一帯は県立湘南海岸公園になっており、台座が残るのは公園内駐車場の一角。県の整備計画に従って、台座は国道134号寄りに20mほど移されることになった。移設は2日間にわたって行われるが、県湘南なぎさ事務所によると台座の周囲は約28mあり、総重量は50dを超すだろうという。完成から68年。乃木銅像にまた転機が来た。
 
弁財天・弁才天・妙音天
 音楽神として妙音天、智慧の神として弁才天、福徳神として弁財天。インドの女神、Sarasvatiの訳語。聖河(ガンジス川)の化身、川の神とされる。のちに仏教に入って財・福・智慧・延寿・戦勝などをもたらし、災厄を除くという。日本では七福神の一として、水辺に祀られることが多い。吉祥天と混同され、宇賀神(穀物の神)と習合される。また、蛇は弁天の使いといわれる。
 八臂弁財天像は左手に弓・刀・斧・羂索(五色の糸を縒り合わせ、一端に金剛杵の半形、他端に鐶をつけたもの)、右手に箭・三鈷戟・独鈷杵・輪を持つ。二臂の場合は琵琶を奏でる。
 金剛杵(こんごうしょ)
 古代インドの武器。密教では、煩悩を打破する菩提心の表象。手に握れるほどの大きさで、形は杵に似ている。両端の分かれていないのを独鈷(とっこ)、分かれたものはその数により、三鈷、五鈷と称する。