京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2008年秋
矢口の渡しから池上本門寺へ

トップページ歴史を歩く会

目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 11月16日(日)(雨天順延 11月23日(日))
 *実施の問い合わせは当日午前6〜7時までに事務局へ
【集合】 東急多摩川線矢口渡駅改札前 午前10時
【コース】 矢口渡駅<集合>
 ↓
矢口の渡し跡
  古多摩川・古矢口渡
 ↓
工場のアパート
 ↓
桂川精螺製作所
 ↓
十寄神社
 ↓
新田神社
  新田義興
 ↓
妙蓮塚三体地蔵尊
 ↓
白洋舎
 ↓
キヤノン本社
 ↓
ガス橋緑地<昼食>
 ↓
六所神社
 ↓
蓮光院
 ↓
天祖神社
 ↓
東急池上線千鳥町駅
 ↓
 ↓<電車>120円
 ↓
東急池上線池上駅
 ↓
六郷用水
 ↓
本門寺
  総門石段日蓮像梵鐘日樹聖人五輪塔加藤清正供養塔中村八大墓、 大堂経堂
  星亨墓、 日蓮廟所、 紀伊徳川家墓所力道山墓、 大野伴睦墓、 松本幸四郎(白鴎)墓、
  河上彦斎の碑、 幸田家墓所五重塔市川雷蔵墓、
 ↓
東急池上線池上駅<解散>
【参加費】 1000円(資料代)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

 かつて多摩川は「あばれ川」といわれ氾濫を繰り返していた。そのため、川の流れはたびたび変わり、右岸と左岸で地形が入れ替わることが多く、そのため同じ地名があることも多い(例、等々力、二子など)。
 その両岸をつないでいたのが渡し船であった。特に江戸時代は軍事上の問題から多摩川には橋は架けられなかったため、いくつもの渡し場が置かれた。この矢口の渡しもそのひとつで、1949(昭和24)年に多摩川大橋が架けられるまで渡し場があった。
 ちなみに「矢口の渡し」は歌舞伎『神霊矢口渡』で有名であった。作者は福内鬼外(ふくうちきがい)こと平賀源内(1729〜1779)で、最初は人形浄瑠璃として上演されたが後に歌舞伎にもなって人気を博した。恋のため我が身を犠牲にする娘の物語である。
 江戸時代初期には、やはり両岸で用水路が造られた。代官小泉次太夫が指揮を執り、世田谷領から大森領まで流れる用水路を「六郷用水」、川崎側を流れる用水路を「二ヶ領用水」という。両方の用水とも農業用水としての役割を終えると荒廃したが、二ヶ領用水は都市型の親水公園として何とか存続をした。しかし、六郷用水はほとんどが埋め立てられてしまった。都市のなかの用水に対する考え方としては、どちらが適切なのであろうか?
 一方、池上本門寺は鎌倉時代に創建され、日蓮の終焉の地であることで知られてきた。特に江戸時代には徳川将軍家の厚い庇護を受けたことで栄え、人々の信仰を集めてきた。
 明治末期まで、現大田区内の特産は、江戸時代からの歴史をもつ海苔養殖業と麦稈(ばつかん)真田(麦わらを材料にして編んだ真田紐)だった。特に大森の麻真田は1916(大正5)年には全国一の生産額を誇った。
 大正時代になると多くの工場が進出し、昭和前期には戦争激化に伴い工場数が増え、1944(昭和19)年には「兵器廠的地位タルノ威観ヲ呈」したという。しかしそれも幾たびかの空襲でほぼ壊滅してしまった。本門寺も1945年4月15日の空襲で多くの堂宇が焼かれてしまった。
 戦後、高度成長期を経ると再び大田区には多くの工場、特に機械工場が進出し京浜工業地帯の中核を占めるようになった。
 今回は、意識しないと歩かないであろう土地を訪ねてみる。何気ない土地に新しい発見をしてみましょう。

3.見学ポイントの解説

矢口の渡し跡
やぐちのわたし  1949(昭和24)年、多摩川大橋が完成するまで渡船場として利用されていた。この付近は、かつては梅の名所で、「渡を渡れば【小向梅林】渡を渡らずに東へ行けば【原村梅林】共に近郊での梅の名所。」(大島九羊編『関東遊覧その日かへり』文誠堂書店、1927)と当時の観光ガイドブックに記されている。
古多摩川・古矢口渡
 矢口渡の位置は、多摩川の流れにより変わっている。新田義興の頃の多摩川は、現在より川幅が広く、流れも東京寄りであった。東急多摩川線、JR南武線のあたりは河川敷であったと考えられる。当時の矢口渡は東急多摩川線武蔵新田駅付近と三体地蔵尊を結ぶあたりであったといわれている。
工場のアパート
こうじょうのあぱーと  大田区には5000以上の工場が立ち並んでいる。その構成は機械金属工業の分野に特化している。なかでも一般機械器具製造業の生産高は東京都全体の30%近くを占めている。企業の規模は小零細企業が圧倒的で従業員3名以下の家族的経営形態の企業が区内工業数の約50%、9人以下の企業を含めると約82%になる。そのため工場と住居が密接に結びついている「住工近接」が特徴である。こうした特徴を生かすために、「工場アパート」という工場集合化事業や「住工調和環境整備事業」が大田区などが主体になってすすめられている。
 大田区のなかでも多摩川沿いの矢口・下丸子・多摩川流域は比較的精密系の工場が多く集まっている。「東急アーバンテック矢口」もこうした工場アパートのひとつであるが、最近では移転・廃業による工場の跡地に集合住宅(マンション等)の建設がすすみ工場操業をめぐる紛争が起きることもある。
桂川精螺(せいら)製作所
かつらがわせいら  工場の上の鉄塔が印象的な製作所。1938(昭和13)年に初代社長石井義昌が、蒲田(現大田区)矢口に設立し、ねじの冷間圧造(塑性加工)の先駆をなした。戦後、1951(昭和26)年に現在地に移転。現在も一貫して塑性加工技術による自動車、家具・家電、建築関係の部品を製造・販売している。特に、自動車関係の製品が売上高の8割前後を占めている。
十寄神社
じゅっきじんじゃ  矢口渡で討死した義興の従者10人の霊を祀っている。
新田神社
にったじんじゃ  府社、祭神 贈従三位左兵衛佐源朝臣新田義興(よしおき)公、創祀正平13(1358)年。矢口渡で謀殺された義興は、その後怨霊となって仇に祟りを及ぼしたり「光り物」となって附近の住民を悩ませたりした。そこでその御霊を鎮めるため、墳墓を築き、社を建立し、「新田大明神」として祀った。
御塚 義興の遺体を沈められた舟で造った棺に納めて葬ったという。
御神木
(樹齢700年の欅、上部に宿木が寄生)
触れると「健康長寿」「病気平癒」の御利益がある。
矢守 御塚後部に生えている篠竹は、雷が鳴ると割れてしまったという。平賀源内はこの篠竹を使って厄除開運・邪気退散の「矢守」を作って売り出した。これが破魔矢の始まりといわれている。
矢口新田神君之碑 延享3(1745)年、水戸徳川家支流の松平頼寛の建立。文は服部南郭、書は松下烏石。義興の事跡と神社の由緒を記す。
狛犬 義興を謀殺した者の一族・血縁者・末裔が来ると雨が降り、狛犬がうなったという言い伝えがある。戦災のため、一体のみ現存。
新田義興(よしおき)
 新田義貞の次男(1331〜1358)。兄義顕・叔父脇屋義助が足利尊氏らに攻められ、越前で敗れた後、尊氏を討つ機会を狙っていた。1358(北朝 延文3、南朝 正平13)年、従者十数人と密かに鎌倉に向かうため沼部の密蔵院付近に本陣を敷いた。しかし鎌倉に向かう途中、尊氏の四男で鎌倉公方の基氏の家来、江戸遠江守と竹沢右京亮の謀略により、矢口渡で穴を仕掛けられた舟に乗せられ、そこを攻撃され自刃した。*参考:松原武志『武蔵新田縁起 −新田義興をめぐる時代背景』今日の話題社、2003
妙蓮塚三体地蔵尊
みょうれんずかさんたいじぞうそん  矢口渡で討死した義興の従者3人の霊を祀っている。尼僧妙蓮が木陰で仮眠していると3人の霊が夢枕に立ち、供養を懇願したという。なお、新田神社に参拝する前に、十寄神社と妙蓮塚三体地蔵尊にお参りするとよいといわれている。
白洋舎
 1906(明治39)年、五十嵐健治が日本橋にて洗濯店「白洋舍」を創業。また翌年にはドライクリーニングに日本で初めて成功する。五十嵐の関係から三越との関係が深い。1907(明治40)年、東京大井に日本最初のドライクリーニング工場を開設。1932(昭和7)年に多摩川工場が設置される(現・東京支店所在地)。しかし太平洋戦争において戦災にあってしまう。1982(昭和57)年、「五十嵐健治記念洗濯資料館」が東京支店内に設けられる。
キヤノン本社
 1933(昭和8)年、高級小型写真機の研究を目的とする精機光学研究所が設立。創立者の吉田五郎は、観音菩薩を熱心に信仰していたことから、同年発売予定の精密小型カメラを「KWANON(カンノン)」と命名した。1935年に「キヤノン」「Canon」を商標登録。Canon(キヤノン)とは「聖典」「規範」「標準」という意味を持ち、正確を基本とする精密工業の商標にふさわしいこと、KWANONに発音が似ていることから採用したという。1937年、精機光学工業株式会社として創業した。1947年、商号をキヤノンカメラ株式会社に変更。1951年に下丸子に本社、工場を集結させた。1969年にキヤノン株式会社に変更。現在は、事務用品(オフィスイメージング機器、ビジネス情報機器、コンピューター周辺機器など)、カメラ、光学機器などを扱っている。
ガス橋緑地
 1931(昭和6)年9月に「瓦斯人道橋」として開通、1960(昭和35)年に現在のガス橋が完成した。名前のとおり橋の下にガス管が通っている。ここから上流930m、下流680mの多摩川河川敷をガス橋緑地という。野球場が9面、少年野球場1面、サッカー場1面、小球技場1面、テニスコート5面、ゲートボール場などがある。
六所神社
 六所明神社ともいい、村の中央に位置する鎮守社である。下丸子は江戸時代、関東郡代伊奈半十郎忠治(1592〜1653)の預所から、1733(享保18)年に神尾(かんお)若狭守春央(はるひで)(1687〜1753、のち勘定吟味役から勘定奉行)の所領となり、1792(寛政4)年からは天領として代官大貫次右衛門支配所となっていた。蓮光院持ちで、除地4畝20歩が与えられていた。
 境内に「明治二拾七八年 三拾七八年 戦没従軍紀念碑」がある。1906(明治39)年5月に下丸子義勇奉公会が建立したもので、裏面には日清戦争で亡くなった7名、日露戦争で亡くなった17名の名前が刻まれている。
蓮光院
れんこういん  新義真言宗。村の東側に位置し、橘樹郡小杉村西明寺の末寺で寿福山円満寺と称す。開山不詳というが、良範律師の名前が残る。法流開基は伝燈阿闍梨海尊と伝えられるが、これも年代は不明。中興開山の源清僧都が1574(天正2)年3月8日寂という。
 入口の武家屋敷門は、備前池田家の表門であったと伝えられる。江戸時代末期のものと推定されるが、遺存例が少ない1〜5万石の小大名家の門としては、格調高い様式という。解説には「一重、入母屋造、桟瓦葺、片番所出格子附、片潜門」とある。東京都指定有形文化財。
天祖神社
てんそじんじゃ  蓮光院持ちで、六所明神社の末社、神明社に相当すると思われる。村の北に位置し、除地6畝20歩が与えられていた。「天租」とは天照皇大神のことである。
 昭和初期の耕地整理を記念した碑があり、整理前と整理後の地図もあるので、両者を対照して見ることができる。
池上線
 1922(大正11)年、池上電気鉄道により蒲田ー池上間が開業した。当初は池上本門寺の参詣客を運ぶための電車であった。その後、距離を伸ばし1928(昭和3)年に五反田まで全通した。1934(昭和9)年に目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄の前身)に吸収合併された。1998(平成10)年からはワンマン運転が行われている。
六郷用水(北堀の用水跡)
 徳川家康の命により、代官小泉次太夫が慶長年間(1596〜1615)に開削した用水。全長約30km。取水口は和泉村(現狛江市)。世田谷領から沼部・嶺・下丸子を通り、矢口の「南北引分」で池上・新井宿(現大森山王)方面に流れる「北堀」、蒲田・糀谷・六郷方面に流れる「南堀」に分岐する。戦後、農地の消滅とともに暗渠となる。現在、用水跡の一部は緑道として利用され、あるいは水路が復元整備され、住民の散策路となっている。
本門寺
いけがみほんもんじ  1276(建治2)年、武蔵国池上郷の池上宗仲(むねなか)の館の背後の山上に建立された寺院を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名した。1282(弘安5)年、日蓮は身延山を出て常陸へ湯治へ向かい池上の館に到着。同年10月13日に日蓮が同所で没する。池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪を寺領として寄進し、以後「池上本門寺」と呼ばれる。その後、弟子日朗が本門寺を継承した。鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも徳川家や諸侯の祈願寺となり栄えた。第二次世界大戦の空襲によって多くの建物を焼失したが、戦後に復興した。
総門
いけがみほんもんじ  元禄年間のものと伝えられる。総高6・5メートル、素木の総欅造。1945(昭和20)年4月15日の戦災(B29爆撃機202機が主として大森・荏原方面を空襲、死者841人、焼失6万8400戸)を免れた数少ない古建築。扁額「本門寺」は門より古く、1627(寛永4)年本阿弥光悦の筆という。オリジナルは宝物館にある。
石段
いけがみほんもんじ  加藤清正(1562〜1611)の寄進により造営された。96段であるのは、清正が信仰した「法華経」宝塔品(ぼん)の偈文(げぶん)96字に由来するという。別称「此経難持坂(しきようなんじざか)」という。右手の「おんな坂」は2002(平成14)年4月1日に開通したものである。清正は1606(慶長11)年に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、その頃の造営と考えられるという。元禄期(1688〜1703)に改修された。
日蓮像
いけがみほんもんじ  1983(昭和58)年、富山県の会社から奉納された。像のモデルは北村西望が作製した。台座は星亨の銅像のものであったが、第二次大戦時の金属供出で撤去されたという。
梵鐘
いけがみほんもんじ  清正の娘で紀州藩主徳川頼信の正室となった瑤林院(1601〜66)が1647(正保4)年に寄進した。1714(正徳4)年、紀州粉河の鋳物師(いもじ)木村将監藤原安成が改鋳しているが、16世日遠による銘文は当初のままで、縦帯のそれは筆順に随う籠(かご)字筋(すじ)彫りという珍しいものらしい。戦災で一部に亀裂と歪みが生じ、のち現在の状態で保存されることになった。
日樹聖人五輪塔
いけがみほんもんじ  山内最大の五輪塔。総高約4メートル。上から3段目の火輪、斜面に日樹の花押(署名)が刻まれている。
 日樹(1574〜1631)は備中の生まれ。比企谷(ひきがやつ)妙本寺(鎌倉)・池上本門寺両山の16世。1630(寛永7)年、日蓮宗不受不施(ふじゆふせ)派が異端とされ、日樹は信州飯田へ配流(脇坂安元預け)、歴代からも除かれた。それ以前の、日樹の信者たちと考えられる奉加者の名前が地輪など全面に刻まれている。
 日蓮の『立正安国論』に「謗法の人を禁じ、正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下太平ならん」とあり、この考え方から不受不施の法理が生ずる。すなわち法華経の教えを信じない者からは経済的支援(布施)を受けない、他宗他教を信ずる者へは供養の施物を行わない、というものであった。日蓮宗は室町時代、京都にも進出して町衆と結び教線を拡大したが、折伏による弘通と不受不施は統一権力により忌避され、弾圧されることとなる。豊臣秀吉の時代には1595(文禄4)年の方広寺千僧供養への出仕可否をめぐって、不受不施派の日奥(1565〜1630、京都妙覚寺)に対し、摂受を説く日重(1549〜1623、京都本満寺)は権力者からの布施は天恩国恩として受けることも可として分裂した。その後、徳川家康は1599(慶長4)年に日奥と日乾(1560〜1635、日重の弟子、1603年に身延久遠寺21世)らを大坂城に呼んで法論を闘わせ、日奥を対馬に流罪とした。さらに徳川秀忠が1626(寛永3)年に芝増上寺で催した正室崇源院(於江与の方)の中陰(四十九日)供養でも同様の問題が起き、1630年に池上派=不受派と身延派=受派を江戸城に呼び出して対論させた(身池対論)。その結果、日樹ら不受不施派は流罪となり、既に亡くなっていた日奥も死後流罪とされた。幕府は1669(寛文9)年、不受不施を遵守する寺院の寺請けを禁止し、これ以後、不受不施派は隠れキリシタンと同様に潜行することとなった。
加藤清正供養塔
 瑤林院が1649(慶安2)年の父清正の38年目の忌日に遙拝のために造立したという。本門寺内最大の宝篋印塔という。正面に「遠行浄池殿日乗台霊」、側面に「慶長十六年辛酉六月四日没」とある。瑤林院も父の影響で熱心な日蓮宗徒であった。
中村八大墓
 中村八大(1931(昭和6)〜1992(平成4))。中国青島生れ。作曲家、ジャズピアニスト。早稲田大学在学中から音楽家として米軍キャンプなどで活動。永六輔、坂本九とともに「六八九」と呼ばれる。代表作『上を向いて歩こう』『遠くへ行きたい』『こんにちは赤ちゃん』『黒い花びら』『世界の国からこんにちは』『笑点のテーマ』など。
大堂(だいどう)
いけがみほんもんじ  旧大堂は慶長11(1606)年、加藤清正が母の七回忌追善供養のために建立した。間口25間、清正が兜をかぶったまま縁の下を通ることができたと伝えられる。江戸の人々は、池上本門寺の大堂、上野寛永寺の中堂、芝増上寺の小堂と呼んだという。しかし、この建物は宝永(1717)年に焼失した。享保8(1723)年、徳川吉宗の用材寄進により再建されたが、倹約令により間口13間に縮小された。この建物も太平洋戦争で焼失した。現在の建物は昭和39(1964)年に建立されたものである。(鉄筋コンクリート、間口15間、奥行16間、棟高27.27m)
◆大堂の未完の天井画
 川端龍子(1885〜1966)が描いた「龍の図」。製作中に龍子が病に倒れ、未完に終わったが、奥村土牛が眼を点じ開眼供養となった。
経蔵
いけがみほんもんじ  1784(天明4)年の建築。空襲の被害を免れた貴重な建築物。江戸中期の経蔵としては大型。堂内の輪蔵(心柱を軸にした書架)には、天海版一切経が架蔵されていた。
星亨墓
星(ほし) 亨(とおる)(嘉永3〈1850〉〜明治34〈1901〉
嘉永3年(1850)江戸新橋八官町に生まれる。幼名浜吉、父左官職佃屋徳兵衛、母マツ。母マツは徳兵衛出奔後、医師で占い師の星泰順と一緒になる。星は10歳ころまで両親と三浦郡大津で暮らす。星、神奈川奉行付洋医渡辺貞庵に弟子入り(文久元年〈1861〉)。慶応2年御家人小泉家の養子となり、名前を亨と改める。幕府散兵隊に編入。慶応3年(1867)春より開成所に通学、同校英語世話役となる。明治4年(1871)横浜へ移る。明治6年(1873)9月大蔵省租税寮7等出仕、明治6年(1873)星(24歳)畳職棟梁伊阿弥一長女津奈子(17歳)と結婚。明治7年(1874)1月英国留学を拝命、翌年1月ミドル・テンプル法学院に入学、日本人初の英国法廷弁護士資格を取得。15年自由党へ入党。翌16年4月自由党常議員・自由新聞幹事となる。17年3月自由党大会で総理顧問となる。20年(1887)2月大阪事件特別弁護人となる。10から11月三大建白運動推進。22年(1889)2月憲法発布大赦で出獄。4月独仏伊三国歴訪に出発、23年10月帰国、立憲自由党へ入党、党幹事となる。24年自由党を一般党員主導の党から板垣総理・代議士中心の党へと改組を主導。26年(1893)2から3月三多摩分離法案をめぐって激しい反対運動を展開する最中、改進党攻撃を強め、民党連合による藩閥政府との対決基軸を藩閥との提携方向への組織的土台を築く。29年(1896)駐米公使に任命(〜31)。31年10月、旧自由党系による新憲政党創立、党総務員となる。11月憲政党と第二次山県内閣との提携を主導。32年11月東京市参事会員。8月立憲政友会創立委員。翌年10月第四次伊藤内閣逓信大臣。11月東京市会疑獄で非難を受け、逓信大臣辞任、翌34年(1901)1月東京市会議長に就任。6月東京市庁参事会室で伊庭想太郎により刺殺(51歳)。
紀伊徳川家墓所
いけがみほんもんじ  徳川家康側室養珠院(お万の方、1579〜1653)や瑤林院ら紀州藩の江戸藩邸で亡くなった藩公の内室らを埋葬している。養珠院は家康の10男紀州大納言頼宣(紀州藩初代藩主)・11男水戸中納言頼房の生母。頼信は母の影響で日蓮宗に帰依、同じく法華経を信奉していた加藤清正の娘あま姫(瑤林院)を正室に迎えた。家康は生涯に二人の正妻と15人を超える側室を持った。お万の方は上総国勝浦城主正木左近大夫邦時と北条左衛門尉氏尭の娘との間に生れ、伊豆にいた時、狩猟にやってきた家康に見初められた。近隣にその美貌が知れ渡っており、当時、14歳であった。
力道山
いけがみほんもんじ  日本プロレス界の礎を築いたプロレスラー。出身は、日本併合下の朝鮮半島、後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。本名は金 信洛(キム・シルラク)。戸籍名は百田 光浩。二所ノ関部屋に入門し、1940年5月場所初土俵、1946年11月場所に入幕し、1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。その後プロレス転向を決意し渡米、帰国して日本プロレス協会を設立する。シャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを空手チョップでばったばったとなぎ倒す痛快さで、1953年にテレビ放送が開始された事も重なり日本中のヒーローとなる。1963年5月24日東京体育館で行われたWWA世界選手権の対ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64%を記録した。1963年12月8日、赤坂のキャバレー「ニューラテンクォーター」で、暴力団構成員と口論になり、登山ナイフで腹部を刺された。その傷が元で12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。戒名は大光院力道日源居士。葬儀は、池上本門寺で行われたが、1万2000名が参列したという。葬儀委員長は、当時自民党副総裁の大野伴睦。ただし、訪韓中だったため児玉誉士夫が代行した。
大野伴睦(おおの ばんぼく)墓
いけがみほんもんじ  大野 伴睦(明治23年〈1890〉〜昭和39年〈1964〉)は岐阜県山県郡美山町(現・山県市)出身、明治大学政治経済学部中退。立憲政友会の院外団に入り東京市会議員を経て中央政界に入った典型的な党人政治家。衆議院議員選挙に通算13回当選して、北海道開発庁長官、衆議院議長や自由民主党副総裁を歴任した。1930年 第17回衆議院議員総選挙に岐阜1区から出馬して初当選。政友会鳩山派に属す。1939年 政友会の分裂に際し、鳩山一郎とともに正統派(久原房之助派)に所属。
1941年 同交会の結成に参加。
1942年 非推薦で翼賛選挙に立候補するが落選。
1945年 日本自由党の結成に参加。
1946年 第22回衆議院議員総選挙に自由党公認で立候補し当選し国政復帰。総裁の鳩山、幹事長の河野一郎が公職追放されたのを受け、党人側から吉田茂のお目付け役として後任の幹事長に就任する。
1948年 昭電事件に連座し起訴される。
1951年 昭電事件の裁判で無罪判決。
1952年 衆議院議長に就任。
1953年 第5次吉田内閣に国務大臣・北海道開発庁長官として入閣、次いで自由党総務会長に就任。
1954年 三木武吉と和解し、保守合同を進める。
1955年 自由民主党結成で総裁代行委員に就任。
1957年 初代自民党副総裁に就任。
1960年 岸信介首相退陣後の総裁選出馬を表明したが直前で断念、党人連合を組み石井光次郎を支持したが池田勇人に敗れる。
1961年 池田に接近し再び自民党副総裁に就任。
1964年5月 心筋梗塞により73歳にて永眠。
 
松本幸四郎(白鴎)
 1910年7月7日生まれ。東京市日本橋区出身。本名藤間順次郎。7世松本幸四郎の次男で、兄が11世市川団十郎。弟が2世尾上松緑。49年父が亡くなり、8世幸四郎を襲名。新しいものに挑戦して、50年代には歌舞伎の新作「明智光秀」や翻訳劇「オセロ」などに名演技を見せた。テレビにも積極的に出演し、とくに69年に出演した「鬼平犯科帳」は、原作者の池波正太郎が幸四郎をイメージして鬼平を書いたと言われていてまさに当たり役であった。ちなみに現在は次男の中村吉右衛門が演じている。75年には無形文化財(人間国宝)に認定された。晩年に初代「松本白鴎」と改名し、9世幸四郎は長男が襲名した。1982年1月11日死去。
河上彦斎の碑
肥後熊本藩士(1834〜71)。1862(文久2)年、公子長岡護美の上京に際し、その護衛として上洛し、盛んに辻斬りを行い「人斬り彦斎」と恐れられた。1864(元治元)年7月11日、京都三条木屋町で佐久間象山を暗殺した刺客の一人であった。維新後は新政に対する不平士族として斬罪に処せられた。近くに「熊本県人会之碑」、肥後熊本藩細川家5代宣紀の生母高正院の墓がある。上杉家4代綱紀室円光院は紀州徳川光貞の娘である。
幸田家墓所
いけがみほんもんじ
幸田露伴
(成行・しげゆき)
(1867(慶応3)〜1947(昭和22))
 江戸下谷生まれ。東京英学校(青山学院)卒。電信技手、小説家、随筆家。代表作「五重塔」、「風流仏」、「露団々」など。明治20年代は尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる。
幸田文 1904(明治36)〜1990(平成2))
随筆家・小説家。東京生まれ。女子学院卒。露伴の次女。「流れる」「おとうと」「みそつかす」など。小説家青木玉は娘。エッセイスト青木奈緒は孫。
郡司成忠
(しげただ)
(1860(万延元)〜1024(大正13))
海軍軍人。江戸生まれ。海軍兵学寮卒。露伴の次兄。千島の探検・開発の先駆者。『北の墓標』(夏堀正元)のモデル。
幸田延 (1870(明治3)〜1946(昭和21))
音楽家、ピアニスト。東京生まれ。露伴の妹。音楽取調所全科(東京芸術大学)を卒業し、アメリカ、オーストリアに留学。帰国後、東京音楽学校教授。
幸田成友
(しげとも)
(1873(明治6)〜1954(昭和29))
東京生まれ。歴史家。帝国大学卒。大阪市史編纂。慶應義塾大学、東京商科大学(一橋大学)などで教鞭をとる。
幸田成延・猷夫妻 成延(今西家より)は元幕府表坊主役、大蔵省官員。猷は和歌、書や和楽の名手。
長男成常(実業家、相模紡績社長)、次男成忠、三男(夭折)、四男露伴、長女延、五男成友、次女幸(安藤幸(こう)、バイオリニスト・音楽家)、六男修造(チェロを学ぶが夭折)を育て上げる。
茂忠長男郡司智麿は外交官。幸の長男高木卓(安藤煕)はドイツ文学者・小説家。その娘の高木あきこは児童文学者。
五重塔
いけがみほんもんじ  旧国宝、重要文化財。関東に現存する近世以前に建立された4基の五重塔のうちもっとも古いもの。(法華寺<下総中山、1622>、旧寛永寺<上野公園、1639>、日光東照宮<1818>)
 徳川秀忠の乳母正心院(加藤清正室)が秀忠の疱瘡平癒の御礼と武運長久を祈り、慶長12(1607)年に建立。大堂の手前、鐘楼と対の位置にあったが、慶長19年の大地震で傾いたため、元禄15(1701)年、現在地に移築された。
 【参考】国宝・旧国宝・重要文化財
 戦前はすべて国宝で、これを「旧国宝」という。1950(昭和25)年の文化財保護法制定により、旧国宝を重要文化財に指定。「重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」を国宝に指定。
市川雷蔵
 1931年8月29日に京都市に商社員と商家出身の母との間に生まれたが、諸事情があり生後6ヶ月で父の親類筋であった歌舞伎俳優の市川九団次に引き取られて養子となった。さらに1951年関西歌舞伎界の長老市川寿海に望まれて養子となり、8代目市川雷蔵を襲名した。しかし血縁や名跡が重視される梨園の世界での活躍は難しく、1954年大映に入社して映画界に身を置くことになり、結果的に歌舞伎界に戻ることはなかった。
 大映では約15年間に158本の映画に出演した。さまざまなジャンルの映画に挑戦し、文芸作品では三島由紀夫の「金閣寺」が原作の「炎上」(58年)や島崎藤村原作の「破戒」(62年)などが知られている。だがなんといっても12本にわたる「眠狂四郎」シリーズが一般の人にはなじみがあるし、彼の代表シリーズといってよい。映画俳優として脂が乗り切り、また長年の念願だった歌舞伎復帰も検討された矢先の1969年肝臓がんのため37歳の若さでなくなった。死後も時代を超えて人々に愛され続け、京都では毎年夏に映画イベント「市川雷蔵映画祭」が開催されている。