京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2008年春
川崎宿から川崎大師へ

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 4月20日(日)(雨天順延 4月27日(日)<日>)
 *実施の問い合わせは当日午前6〜7時までに事務局へ
【集合】 京浜急行川崎駅改札前 午前10時
【コース】 京浜急行川崎駅(集合)
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宗三寺
 飯盛女供養塔
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一行寺
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田中本陣跡
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川崎市役所本庁舎
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稲毛公園
 稲毛神社小土呂橋石橋遺構旧六郷橋親柱平和の塔
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妙遠寺
 泉田二君功徳碑、  小泉次太夫吉次
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川崎競馬場(富士瓦斯紡績川崎工場跡)
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医王寺
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日本コロムビア工場
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川崎河港水門
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大師鉄道発祥の碑
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平間寺(川崎大師)<解散>
 海苔養殖記功之碑橘樹郡出身征清陣亡軍人招魂碑
【参加費】 1000円(資料代)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

 現在の川崎市は、東京都と横浜市に挟まれ多摩川に沿うかたちで南北に長い街を形成しています。そのなかで今回は、川崎市南部を歩くことにしました。
 川崎市南部の中心は、江戸時代に設置された川崎宿です。川崎宿は、1623年に成立しましたが、加重な伝馬役の負担や度重なる自然災害によって寂れていきました。その川崎宿を立て直したのが、川崎宿の名主を継いだ田中休愚(丘隅)でした。休愚は、多摩川に沿って造られていた二ヶ領用水の改修を行い、灌漑によって田畑の面積を増やしていきました。その後、川崎宿の経営は安定し、江戸時代の末期には川崎大師信仰の広まりにより庶民や武士が江戸やその近郊から多く訪れるようになりました。
 また川崎の海岸部では江戸初期から新田開発が行われ稲荷新田や池上新田、小島新田などの地名にその名残がうかがわれます。特に大師河原村を中心に寛文年間から始まったといわれる製塩は、下総の行徳と並んで有名でした。
 徳川幕府が崩壊して明治時代になると川崎宿は急速に衰え、街の規模も縮小するようになりました。そのなかで川崎町長(後に市長)となった石井泰助などに代表される地域の有力者たちは、工場誘致に積極的に動いていきます。川崎は大消費地である東京と物資輸送の要である横浜港の中間という有利な場所でした。有力者達は道路の新設と整備、さらに耕地整理事業によって工業用地を確保していきました。また鉄道(東海道)の開通と川崎駅の設置も重要な条件でした。
 その結果、1906(明治39)年に南河原(現幸区)に横浜精糖(のちの明治精糖)が進出してきたのをはじめとして、東京電機(東芝)、日米蓄音機製造(日本コロムビア)、富士瓦斯紡績、鈴木商店(味の素)などが工場を設置し、操業を開始しました。また沿岸部では浅野総一郎らによる川崎・鶴見地区の埋め立て、1914年の日本鋼管川崎製鉄所の完成によっていわゆる京浜工業地帯が形成され、急速に工業都市化が進行しました。工場労働者を中心に人口も急増していきます。
 そして、その事は同時に川崎に公害問題をもちこむことになりました。例えば、鈴木商店は味の素製造のために塩酸ガスが発生して工場周辺に多大の被害を与えていました。そのためもともと工場があった神奈川県の逗子町から追い立てられてきたのでした。また、浅野セメントは1917年に田島村で操業を開始すると「降灰問題」を引きおこしました。浅野セメントも東京の深川で同様の問題をすでに起こしていました。この二つの事例は企業側が積極的に対策をとらず住民との和解までに長期間を要しました。
 川崎の臨海部は工業化に先駆けるように明治時代前半から農業化も進行していきました。京浜市場をめあてとした果実栽培も盛んになり、桃・梨・杏などが広く栽培されていました。特に多摩川梨は、大師河原村の農家当麻辰次郎が開発した「長十郎」梨が有名でした。また江戸時代の封建特権(大森村が独占していた)が廃止されたことで海苔養殖が明治期以降盛んになっていった。
 しかし川崎市の工業都市推進政策は、そうした都市農業や漁業をおしつぶすように進められていきました。急速に増加した労働者人口に対応した都市計画も充分に実施されませんでした。
 昭和期に入ると、川崎市内には多くの軍需関連産業の工場が建設されました。主なものとしては、日本鋼管、昭和電線電纜、池貝自動車、東京自動車(いすゞ自動車)、昭和肥料などでした。
 日中戦争、アジア太平洋戦争が開始されると工場は大規模な操業を展開していきましたが、戦局が悪化すると工場の疎開が始まりました。しかし、1945年4月15日に川崎南部を中心とする大規模な空襲が行われ、多くの工場と市街が一晩で焼失しました。その後の空襲も含めて、市内総人口の44パーセントが罹災し死者は1万6000名にのぼりました。この空襲によって少しは残っていた川崎宿の江戸時代の景観は、すっかり姿を消してしまいました。
 戦後、川崎市は戦前と同じように「工都」として復興を遂げます。しかし、同時に戦前と同様に公害が繰り返され、都市計画も不十分なものでありました。こうしてみると明治から大正期にかけての歴史の中に、戦後川崎の原点といえるものが多く見えることがわかります。
 最近、川崎駅周辺の景観が大きく変わってきました。かつては川崎を代表する大工場であった明治精糖(明治製菓)や東芝の跡地に、ラソーナなどの大商業地が建てられ、毎日多くの人で賑わっています。工業都市としての川崎の姿がすぐに変わっていくわけではありませんが、川崎という街の大きな変化を感じさせるものです。あまりにも身近なので気がつかないものを今日一日探ってみて下さい。
 

3.見学ポイントの解説

宗三寺
 曹洞宗。室町時代に開創されたといわれている。戦国時代に後北条氏の家臣であった間宮信盛が中興し彼の戒名から宗三寺となづけられた。川崎宿でもっとも古い寺のひとつ。
飯盛女供養塔
 大正初期、川崎貸座敷組合建立のものと、昭和63年川崎今昔会建立のものと2基ある。
 近世の宿場には平旅籠と飯盛旅籠があり、後者には飯盛女(食売女)という幕府黙認の娼婦(食事の世話のみの場合もあった)が働いていた。1615(元和元)年、公娼制が成立後は取り締まりの対象となったが、揚代の一部が宿場の財政に寄与しているため、旅籠1軒につき2人まで黙認した。年季奉公として売られ、多くは体を壊し亡くなっても打ち捨てられた。
 1872(明治5)年、マリア・ルス号事件(中国人苦力解放問題)の際、欧米より日本の人身売買を指摘された結果として芸娼妓解放令が出されたが、翌年「遊女渡世規則」や「貸座敷渡世規則」が定められ、解放令は有名無実となった。1882年、群馬県議会の廃娼案を皮切りに、植木枝盛やキリスト教系団体による廃娼運動が盛んになり、1900年以降自由廃業が盛になった。表面上は女たちの「自由意志」という形ではあったが、公娼制度は存続し、売春の完全禁止は1956(昭和31)年制定の売春防止法まで待たなければならなかった。
一行寺
 京都知恩院の末寺。巨大な閻魔像を持つ寺として有名である。境内には、川崎最古の寺子屋といわれる玉淵堂(ぎょくえんどう)の創立者である浅井忠良の墓がある。
田中本陣跡
 江戸幕府は1601(慶長6)年、東海道筋に宿駅制を設けた。川崎宿はそれに遅れて1623(元和9)年に設置されている。品川宿と神奈川宿の間で公用人馬の継ぎ立てを担当することとなる。
 参勤交代の大名などが宿泊する本陣は三軒あった。江戸よりのしんしゆく新宿町にあった下本陣がこの(田中)兵庫本陣である。砂子町には上本陣として(佐藤)惣左衛門本陣があり、詩人佐藤惣之助の生家となる。両者の間で、やはり砂子町に中本陣として惣兵衛本陣もあったが、三者共立は難しかった様で、享和年間(1801〜04)以前に廃業した模様である。
 宿駅は公用人馬100人100匹を負担させられたが、川崎宿ではそれを常時配備するだけの財力はなく、不足分は近隣諸村の助郷負担に頼らざるを得なかった。1704(宝永元)年に兵庫本陣を継いだ田中休愚(43歳)により、六郷川(多摩川)の渡船業を川崎宿の請負にすることが願い出され、1709年3月にこれが許可された。休愚は1707年、幕府によって更迭された宿役人らに代わって、名主・問屋両役兼帯を命じられている。
 田中休愚よしひさ喜古は1662(寛文2)年、武蔵国多摩郡平沢村(東京都あきるの市)の農家の次男に生まれた。絹を商って江戸へ出たり、道中商いをする際に川崎にも逗留し、兵庫本陣の先代に気に入られたという。また、橘樹郡小向村(川崎市幸区小向)の田中源左衛門宅に出入りしていた縁で、その姻戚の兵庫家と養子縁組をすることになったともいう。
 川崎宿の復興に尽力した休愚は、1721(享保6)年に地方書『民間省要』を著した(60歳)。宿駅の経営や飢饉・恐慌対策も含めた農村対策、定免法の採用などが述べられた本書は、翌年、師の成島道筑を通じて8代将軍吉宗に献上された。1723年には代官井沢弥惣兵衛の配下として、荒川および多摩川、その両岸の二ヶ領用水・六郷用水の川除御普請御用を命ぜられ、10人扶持を支給された。その後、酒匂川の治水工事を成功させ、1729(享保14)年には支配勘定格(代官)となり町奉行大岡忠相に属した。しかし、その年の12月22日、68歳で亡くなっている。
川崎市役所本庁舎
 本庁舎は1938年2月に完工。昭和初期の特徴だった威厳や装飾、左右対称の建築様式などを一切排除し、これが逆に専門家から「斬新な建物と評された」という。正門正面の本館は当時、地上3階地下1階建て、向かって右側の東館は地上2階建てだった。その後東館が50年に3階建てに、本館は59年に4階建てにそれぞれ改築され、今の姿になった。設計に携わったのは建築家で教会の建築設計に名を残す元田稔である。
 本庁舎はオランダのヒルベルスム市庁舎を模したとされるが、この建物のシンボルは地上約39メートルの時計塔である。内部は3メートル四方の空洞で、螺旋階段最上部の格子の窓から街を一望できる。戦時には時計塔に迷彩色が施され、空襲の監視塔の役も兼ねた。
 以前、本庁舎の立替の話しも持ち上がったが、『歴史ある貴重な建物』と、当時の伊藤三郎市長の意向もあって、話は流れたという。近年は建物の重厚な雰囲気から映画やテレビドラマのロケでも使用される機会が増えている。
稲毛神社
 『新編武蔵風土記稿』によると、近世期には、この神社は山王権現社といわれ、堀之内村、川崎宿、渡田村、大島村、川中島村、稲荷新田村などの鎮守であった。祭神は武甕槌神(たけみかつちのかみ)。創建は諸説あるが、平安時代後期(12世紀)の荘園開発と密接に関係している。この地を開発したのは、板東平氏の流れをくむ秩父氏からでた河崎冠者(かわさきかじゃ)といわれた基家・重家である。その館がこの地にあったと推定され、堀之内の地名もここから来ている。また、この神社が山王権現社を冠していたのは、山王権現が平氏の氏神だからである。
 山王権現の称号は、天台宗系の神仏習合思想「山王一実神道」によっている。ところが、慶応4年、東征軍が当神社で休憩、その際、参謀有栖川宮熾仁(たるひと)親王は社名が新政府の神仏分離の方針に相応しくないと批判し、武蔵国稲毛庄の名を取って「川崎大神稲毛神社」と改称した。そして、明治中期頃より「稲毛神社」と公称するようになった。
 旧社殿は江戸中期の宝永年間(宝永川崎宿本陣当主田中丘愚の世話によって造営された荘厳優雅な建物であったが、昭和20年の空襲により灰燼に帰した。現在の社殿は昭和38年に新築されたものである。
小土呂橋遺構
 小土呂(こどろ)は現在の小川町(現在地の南)で、この橋は東海道が新川堀(今の新川通)に架設されていた。新川堀は慶安3年(1650)関東郡代伊奈半十郎忠治が普請奉行となり開削された。ここに架橋された小土呂橋に関する記録は、@正徳元年(1711)代官伊奈半左衛門による板橋設置、A享保11年(1726)田中丘隅による石橋による改橋、B寛保3年(1743)幕府御普請役水谷郷右衛門による再興などがあり、これが現在残っている遺構で、昭和7年(1932)新川が埋設されるまで200年間利用された。
旧六郷橋親柱
 近世初頭、六郷川に最初に橋を架けたのは徳川家康で、関ヶ原の戦いが起こる前の慶長5年(1600)7月に全長200メートルの橋を完成させている。しかし、貞享5年(1688)の洪水で流失し、幕府は再建を断念、以後明治初期まで渡船による川越えとなった。明治7年(1874)木造の橋(左内橋)が架けられたが4年後には洪水で流失、その後架設と流失が繰り返された。大正14年(1925)京浜国道建設にともないアーチ型の本格的な架橋が行われた。それが旧六郷橋であり、昭和59年(1984)撤去されるまで第1京浜のlandmarkとして活躍した。平成14年(2002)この地に再現整備された。
平和の塔
 もともとは1928(昭和3)年11月に在郷軍人川崎分会が昭和天皇の御大典記念に建設した忠魂碑だった。日清・日露戦争で戦病死した川崎町出身の7名を慰霊するためのもので、塔の高さ6メートル、頭部には青銅製の金鵄が飾れられ題字は東郷平八郎が書いた立派なものだった。戦後は「」平和の塔」として鳩が舞う姿が飾られている。
妙遠寺泉田二君碑
 「水恩の碑」とも呼ばれる泉田二君碑は1889(明治22)年に建立された。旧幕臣で宮内省に勤めた池田忠政が隠居して川崎に移り住んだ。いさご砂子町にあった妙遠寺を訪ねると、開基小泉次太夫や開山日純の墓塔さえ倒壊したままの荒廃した状況だった。1885年、池田が中心となり、住職正木日常、平川平五郎(小間物商)、田中光弼(休愚の子孫、初代町長)、岩田道之助(砂子の商人、県会議員)、添田知義(田島村村長、県議、衆議院議員)らを発起人として水恩講社が設立され、開山・開基の墓所の再興と次太夫・休愚の功績の顕彰のための募金を開始した。篆額の書は内閣総理大臣黒田清隆による。建碑式は13年後の1902年に行われている様である。
小泉次太夫吉次
 小泉次太夫吉次(1539〜1623)は駿河の今川氏に仕えたが、その没落後、徳川家康に登用され、多摩川下流両岸に二ヶ領・六郷用水を造成した。1597(慶長2)年の建言時、既に59歳であった。代官と用水奉行を兼ね、小杉御殿に隣接する小杉陣屋を拠点に開削を進めた。二ヶ領用水の二ヶ領とは稲毛・川崎領のことで、中野島村と宿河原村に取水口をもち、約60ヶ村の農業と日常生活の根幹となった。陣屋近くに安房から日純を招き、妙泉寺を創建。1612年に隠居し、砂子に移住。妙泉寺を移した妙遠寺に夫婦の逆修塔が残る。次太夫の木造座像のレプリカも見られる。
川崎競馬場(富士瓦斯紡績川崎工場跡)
 明治時代は競馬場があり、そのメインスタンドの建築は東洋一といわれたが、1908 (明治41)年、政府が馬券の売買を禁止するとともに廃止になった。
 富士瓦斯紡績は、1896(明治29)年に富士紡績として設立され、その後の合併により、1906年、富士瓦斯紡績となる。川崎町長であった石井泰助の誘致により、競馬場跡地に工場を設置し、1915 (大正4)年に創業開始した。従業員の多くは、地方出身の若い女性で、砂糖の暴落などで不況にあえぐ沖縄出身の者も多かった。1923年の関東大震災で多くの女工が圧死した。また、1930(昭和5)年9月、減給が発表されると一部の従業員が11月1日にストライキに突入。工員が45mの煙突の頂上に130時間30分座り込んだ。このことは寺田寅彦の随筆『時事雑談』の「煙突男」に「ある紡績会社の労働争議に、若い肺病の男が工場の大煙突の頂上に登って赤旗を翻し演説をしたのみならず、頂上に百何十時間居すわってなんと言ってもおりなかった。だんだん見物人が多くなって、わざわざ遠方から汽車で見物に来る人さえできたので、おしまいにはそれを相手の屋台店が出たりした。…その後ある大学の運動会では余興の作りものの中にやはりこの煙突男のおどけた人形が喝采を博した。こうしてこの肺病の一労働青年は日本じゅうの人気男となり、その波動はまたおそらく世界じゅうの新聞に伝わったのであろう。」と記されている。この争議は11月21日に解決した。
 第二次大戦で工場は焼失し、その後再び競馬場となった。
医王寺
 創建は805(延暦24)年と伝えられる天台宗の寺。本堂右手にある梵鐘は溝口水騒動の際に大師河原村の村民が抗議にために集まるために使われた言われている。寺内には昔話として「塩溶け地蔵」「蟹の恩返し」などが伝えられ説明版が設置されている。
日本コロムビア工場
 現在はコロムビアデジタルメディア(かつての日本コロムビア)工場である。同社の社史によると、1910年に(株)日本蓄音機商会として発足し、レコード製造ばかりでなく、国産初の蓄音機「ニッポノホン」を製造・販売し、日本の音楽産業の先がけとなった。川崎工場は1928年に完成し、レコード全盛の時代には同工場でヒット曲がプレスされ、全国に出荷された。1931年には音符印のネオンサインができ、多摩川を渡る車窓からの名物となった。
 戦後社名を日本コロムビアに変更、1971年にはDENONブランドの製品の発売が開始されソフトとハードを併せ持つ総合的な音響メーカーとしての地位を築き上げた。
 しかし、2001年にはAV機器製造部門をデノンとして分社化し、譲渡することとなった。2002年に川崎工場のDVD・CDの製造部門をコロムビアデジタルメディア(株)として分社化し、2005年にアメリカの投資会社に売却された日本コロムビアは社名をコロムビアミュージックエンタテインメントに変更した。現在は音楽をはじめとするソフトの製造会社になっている。
 コロムビアデジタルメディアが工場を移転したため、現在、川崎工場は操業しておらず、大規模マンション建設などの再開発が予定されている。
川崎河港水門
 大正期の川崎市は工業用地の拡大のため新たな運河・港湾計画を建て、現在の川崎区を横切る幅33〜40メートルの大運河を建設することにした。その水門として川崎河港水門が建てられた。設計は金森誠之(内務省技師、多摩川改修事務局長)で、1926(大正15)年着工、1928(昭和3)年に完成した。タワーの頭部には当時の川崎の名産品であったブドウ・梨・桃等をあしらった装飾がある。しかし、戦局の悪化等があり大運河建設は中止され、河港水門のみが残されることになった。現在は国の登録有形文化財として保護されている。
大師鉄道発祥地碑
 京浜急行の前身となる大師電気鉄道は1898(明治31)年2月25日に開業し、翌年1月21日の初大師の朝、六郷橋のたもとから大師駅の間2キロを東日本で最初の電車が走った。京都・名古屋電気鉄道に次ぐ、日本で三番目のものだった。日本初の広軌レールが採用され、発動車三両に連結車二両での走行。最高時速は13キロとゆっくりとしたもので、乗車賃も高かったが、遊覧電車として珍しがられたという。
 川崎大師への参詣客を当て込んだ開業だったために、当時、川崎駅から人力車160台を擁して客を大師に運んでいた「だるま組」の猛反対があり、当初、川崎停車場からの軌道を六郷橋たもとに移さなければならなかったともいう。「だるま組」の元締め小川松五郎は、1890(明治23)年の第1回衆議院総選挙から帝国議会開催期にかけて、堀ノ内の自宅を盛んに政談演説会の会場に提供している。(因みに1916〈大正5〉年、鶴見の佐久間権蔵に「川崎ノダルマコト小川松次郎」が駅前の空き地30坪の借用を申し出ている。)4月には京浜電気鉄道と改称され、のちに参詣客だけでなく、京浜臨海工業地帯への通勤客を運ぶこととなる。
 初代社長となった立川勇次郎(1862〜1925)は美濃大垣藩の出身で、小学校教員から代言人(弁護士)となったが、24歳で東京に出て、東京電燈の藤岡市助と知り合い、実業家の道を歩むこととなった。東京では電鉄事業設立の請願が多く、川崎に目を付けて1896年に川崎電気鉄道敷設の請願をした。別に横浜電車鉄道の請願と競合することとなり、内務省や神奈川県の行政指導を受け、合同して新たな請願となる。地元から唯一の発起人として田中亀之助(旅館会津屋主人、町長、衆議院議員)に加わってもらっている。
平間寺
 一般には川崎大師(厄除け大師)として知られている。縁起によると1127(大治2)年漁夫の平間兼乗が夢の中でのお告げにより海中より弘法大師像を拾いあげ、これを安置する堂を建立したのがはじまりという。この時兼乗が42歳の厄年であったので本尊は厄除け大師と呼ばれたという。
 平間寺は、江戸時代以降厄除け大師信仰の霊場として繁栄した。その繁栄は庶民信仰の拡大と結びついており、江戸下町の庶民、なかでも江戸の火消し衆や芝魚河岸筋の厄除け信仰を集めた。また、江戸からの物見遊山をかねて日帰りできる距離にあったことかもその繁栄の一因であった。幕末になると庶民の他にも武士や将軍の参詣もあって名声が高まった。明治時代になっても横浜への出開帳の実施、大師新道の建設(明治22年完成、費用は全て平間寺が負担)、大師鉄道の開通、遊園地を兼ねた大師公園の設置などによって庶民信仰を拡大させ今日に至っている。
海苔養殖記功之碑
 川崎大師の近く、大師河原村を中心としてかつては海苔養殖が盛んに行われていた。この碑は海苔養殖創業50周年を記念して1920(大正9)年に建てられた。本文は当時の神奈川県内務部長大島直道。碑の裏面には、創業者として4ヶ村(大師河原、川中島、六稲荷新田、七稲荷新田)の代表者の名前、創業功労者として添田知通の名前が記されている。建碑の頃の海苔場面積は17万4000坪とされている。
橘樹郡出身征清陣亡軍人招魂碑
 日清戦争時の軍人に対する招魂碑。1896(明治29)年1月の建立。青銅製で全高5メートルの立派なものである。塔の外観は円柱状の部分が青銅製で頭部に装飾がほどこされている。基礎台は正面の区画に錨と銃の交差した紋様がある。青銅部に陣亡者(34名)と従軍者(陸軍318名、海軍15名)があり、八角の鋳鉄部には造立有志(町村長、議会代表、郡選出衆議院議員、県会議員)の名前がある。建碑予算として1597円50銭を費やしており橘樹郡あげての招魂碑建立であったと推測される。