京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2007年春
深川を歩く−芭蕉からのらくろまで−

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 4月15日(日)(雨天順延 4月22日<日>)
 *実施の問い合わせは当日午前6〜7時までに事務局へ
【集合】 東京メトロ東西線門前仲町駅「富岡八幡宮口」改札 午前10時
【コース】 門前仲町駅(集合)
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富岡八幡宮
 伊能忠敬碑大関碑横綱力士の碑
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歌仙桜の碑(深川公園)
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深川不動堂
 石造灯明台富岡八幡宮別当永代寺跡日清・日露忠魂碑
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小津安二郎出生地
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採荼庵(さいとあん)跡
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滝沢馬琴誕生地(碑)
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浄心寺
 洲崎遊郭追善墓関東大震災供養塔洲崎弁天町町会東京大空襲慰霊碑
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成等院
 紀伊国屋文左衛門墓所(碑)平和観音像
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霊厳寺
 松平定信墓銅像地蔵菩薩座像
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清澄庭園(昼食)
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セメント工業発祥地碑
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平賀源内エレキテル実験地碑
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清洲橋
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万年橋
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小名木川
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芭蕉庵史跡展望公園
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芭蕉記念館
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田川水泡のらくろ館
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地下鉄森下駅(大江戸線、新宿線)(解散)
【参加費】 1000円(資料代)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

 深川は、もともとは隅田川河口の湿地帯であり、下総国に属していた。この土地の開拓が始まったのは、徳川家康の江戸入府以後のことであった。徳川氏は近世都市江戸を計画的に造営していく。深川近辺は深川八郎右衛門などの開拓(天正年間とされる)が行われていくが当初は江戸の郊外という位置づけであった。隅田川をわたった一帯には富岡八幡宮周辺の街と小名木川に沿って武家屋敷と農地が続く近郊農村の風景が広がっていた。
 明暦の大火(1657年)で江戸の中心部が焼失して以後、幕府は江戸の周辺の都市再開発に着手する。隅田川河口にあたる深川周辺は流通の拠点とすることが構想された。大都市江戸が整備されるなかで隅田川対岸の日本橋・京橋に荷受問屋が集中し、その倉庫機能をもった地域が必要となったからである。日本橋から深川への永代橋が架橋され(1698年)、運河や流路が拡張され、1701(元禄14)年に10万坪という広大な深川木場が造られ多くの材木が貯木されるようになった。また、両国橋(武蔵・下総両国をつないだので名付けられた)も本所深川再開発事業の一環で架けられた。江戸の港に入ってきた船は、神田・日本橋・京橋・深川などの河岸や物揚場に上方の物資等を運び倉庫に収める(現在の佐賀町周辺)。そこから艀船などに移し替えて江戸中に物資が運ばれていった。つまり深川は大都市江戸を支える流通の要衝だったと言える。この頃から本所や深川は都市江戸に組み込まれていった。
 また現在の白河・三好・平野・清澄・深川あたりには多くの寺院が集中したため、深川寺町と呼ばれるようになった。深川の都市計画が進行するなかでもともと寺院が多かった地域に、明暦の大火後、幕府の政策によって寺院の多くが都市周縁部に移動させられていき、そのためさらに寺院が集中するようになったのである。
 元禄年間(1688ー1703)になると、江戸から日帰りの出来る観光名所として深川は有名になり、富岡八幡宮、永代寺、三十三間堂、深川寺町などが「江戸名所」として脚光を浴びるようになった。
 深川が最も賑わったのが宝暦から天明の時期(1781ー1788)の頃で、江戸東郊の行楽地として注目され富岡八幡宮では勧進相撲や見せ物が行われ、その客を相手とする料理店や花街ができあがり、粋で気風の良い辰巳芸者などが生まれていった。
 この18世紀後半あたりから、江戸の人口は100万を超え大消費都市としての江戸が成立し政治・経済・文化の面でそれまでの先進地帯であった大坂と対抗できるようになった。「いき」や「通」といった美意識をもった「江戸っ子」文化が生まれてくるのもこの頃である。
 しかし、明治時代になると江戸の面積の約60%を占めていた武家屋敷が荒廃し、江戸の人口も武士の引き揚げによって一時期激減した。深川にも屋敷跡地を利用してセメントの官営工場や窯業(陶器・レンガなど)の民間工場などが造られるようになった。
 それでも深川周辺には江戸の原風景がかろうじて残っていた。それにとどめをさしたのが関東大震災の被害であった。本所・深川をはじめとする下町地帯は壊滅的な被害を受け、焼け野原となってしまった。
 そこから昭和初期にかけて復興した街をふたたび東京大空襲という悲劇が襲うことになる。
 現在の深川に江戸情緒を探すことは困難である。江戸時代の深川の痕跡を探すこともほんの少ししかできない。それどころか80年前の大震災と60年前の空襲さえ多くの想像力を動員しないと脳裏に描くことは出来ない。それほど東京の変化は、大規模でありかつ速い。
 みなさんは、今日の行程からどのような感想を持つでしょうか?

3.見学ポイントの解説

富岡八幡宮
 社伝によれば、1624(寛永元)年に僧侶長盛が京都から八幡の神像を江戸に移し、当時永代島と呼ばれた小島(隅田川河口の砂州)に建立したと言われている。この島の周りを埋め立てこれが後に深川富岡町・深川門前町・深川公園などになった。明治元年の神仏分離令により永代寺が廃止になり神社のみとなった。当初から永代八幡宮と呼ばれたが、富岡八幡宮と称するようになったかは諸説があり定かではない。1698(元禄11)年永代橋の完成によって参詣人が増加した。祭礼は江戸三大祭のひとつとされ、8月中旬の土・日曜(大祭は3年に1度)に行われる。社殿はたびたび災害によって焼失し、現在のは昭和20年の戦災で焼失したのち、1957(昭和32)年に落成した鉄筋コンクリート造りである。
伊能忠敬碑
 伊能忠敬(1745ー1818)は上総国出身。伊能家の養子となり、酒造り等の家業に精を出した。51歳の時に長男に家業を譲り、深川黒江町(現・門前仲町1−18−3)に住み、天文方暦局の高橋至時に天文学や数学を学んだ。1800(寛政12)年4月、56歳の忠敬は富岡八幡宮にお参りをした後に第一次測量の旅に出かけた。その後、第十次まで測量を行い、「大日本沿海輿地全図」を完成させた。
 伊能忠敬の銅像は、2001年10月20日に建てられた。銅像の隣には国土地理院によって新地球座標系の国家基準点(三等三角点)が設置されている。
大関碑
 1684(貞享元)年に勧進相撲(寺社や橋の修理のための資金集めのための興行)の免許が交付され、初めて富岡八幡宮境内で相撲興行が行われた。それ以来、深川において毎年大相撲が興行されるようになった。1791(寛政3)年から両国回向院境内において勧進相撲は行われるようになったが、明治時代まで富岡八幡宮境内でも毎年相撲が行われた。
 歴代大関力士碑は、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した2個の仙台石に大関の四股名が刻まれたものである。中央の碑は、1983(昭和58)年5月に建立された。
 巨人力士身長碑は高さ9尺2寸(2.79メートル)の円筒形の青葉御影石に12人の巨人力士の四股名とその身長が刻まれている。
横綱力士の碑
 第12代横綱陣幕久五郎が発起人となり、1900(明治33)年に完成した。縦3メートル50センチ、厚さ1メートル、重さ約20トンの白御影石である。碑の裏面には初代横綱明石志賀之助以降の横綱の四股名が刻まれている。しかし第45代若乃花幹士(初代、昭和33年)までで一杯となったため、氏子有志の吉田久蔵氏が高さ2.4メートル、幅1.37メートル、重量約7トンの御影石二基を新横綱碑として奉納した。正面には1857(安政4)年正月の回向院大相撲2日目の取り組みを行った陣幕と不知火の土俵姿が彫られている。現在でも日本相撲協会の協力により刻銘式が行われている。
 超五十連勝力士碑は、1988(昭和63)年9月に地元有志武藤庄一氏により奉納された。50連勝以上を記録した5名の力士(谷風梶之助63連勝、梅ヶ谷藤太郎58連勝、太刀峰右衛門56連勝、双葉山定次69連勝、千代の富士貢53連勝)が刻まれている。
歌仙桜の碑
 1931(昭和6)年4月に建てられたもので、題字は渋沢栄一の揮毫である。歌仙桜とは、芭蕉の門下に入った園女(1664〜1726)が芭蕉死後、大坂から江戸に出て富岡八幡宮の門前に住み、桜を愛好し、36本の桜を奉納したことから来ている。その後、桜は植え足しされたのであるが、だんだん枯れて少なくなったため、1915(大正4)年植え継ぎした。しかし震災で焼失したため、あらためて有志が36種類の桜を植えてこのような碑を建てたのである。
深川不動堂
 深川不動堂は、千葉県成田市の成田山新勝寺の出張所である。江戸時代は元禄16(1703)年に富岡八幡宮別当永代寺へ出開帳して以来、毎年のように行われた。明治11(1878)年に成田山から不動像を移して、同14(1881)年に不動堂の上棟式が行われた。昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で焼失するが、同26(1951)年に再建された。
石造燈明台
 この燈明台は、明治31(1898)年に不動を信仰する人々(燈明講)が奉納したもので、石垣の四面には約400件にのぼる奉納者の名が刻まれている。なかでも市川団十郎(九世)、尾上菊五郎(五世)、市川左団次(初世)など明治の歌舞伎界を担った名優が名を連ねている。
富岡八幡宮別当永代寺跡
 江戸時代に富岡八幡宮の別当であった真言宗永代寺は、今の深川不動堂境内から東側深川公園あたりの広大な地域を占めていた。永代寺の庭園は江戸でも庭園のひとつで、園地には松をはじめ柳や楓などの木々や牡丹など多くの草花が植栽されていた。しかし、明治に入り、神仏分離令により永代寺は廃寺となり、公立公園として整備された。
日清・日露戦争忠魂碑
 この碑は「追悼征清戦死者の碑」(日清戦争)と「明治三十七八年役戦死者忠魂碑」(日露戦争)の二基から成る。前者は深川区の有志が、後者は深川区報公会が建てている。いずれも深川から出征して戦死した多くの人の名が刻まれている。
小津安二郎出生地
 日本を代表する映画監督である小津は1903(明治36)年、ここ東京深川の下町に次男として生まれた。父は三重松坂の豪商の分家であって、海産問屋を経営していたが、本家と分家の家督争いの為、松坂に移った。そのため彼は10歳からほぼ10年間三重暮らしをするが、1年間の代用教員時代を経て東京に戻り、親類のつてで松竹蒲田撮影所に入社した。その後1936(昭和11)年まで深川で暮らし、蒲田の撮影所まで毎日通う生活を続けた。深川での生活は合計すると約24年に及んだ。この深川での生活体験が、その後の人間形成や、その作品に強い影響を与えていることは十分考えられることである。
採荼庵(さいとあん)跡
 芭蕉の門人でパトロンでもあった幕府御用の魚問屋杉山市兵衛(杉風)の別荘があったところだというのであるが、正確な位置はわかっていない。芭蕉はこの採茶庵から舟に乗り、千住で上陸して奥の細道に旅立った。
滝沢馬琴誕生地碑
 戯作者として有名な滝沢馬琴は、1767(明和4)年深川浄心寺門前の旗本松平信成邸内で生まれた。父は信成の家臣で、その五男としての誕生であった。13年後松平邸を去った馬琴は、当時戯作者・浮世絵師として有名であった山東京伝に師事し、因果応報による勧善懲悪を内容とする読本を20代半ばごろから続々と発表した。代表作には『南総里見八犬伝』がある。
浄心寺洲崎遊廓追善墓
 1884(明治17)年、根津遊廓に移転が決定され、深川洲崎弁天町(現江東区東陽町1丁目)に新たな遊廓がつくられた。この洲崎遊廓は、昭和33年まで存続した。遊女は大正年間には二千人以上いたと言われている。また海岸線につくられたためにたびたび水害・火災・地震の被害を受けてきた。遊女達の遺体は洲崎遊廓合葬墓に埋葬されてきた。墓の横にある観世音像は「洲崎カフェー組合」(戦後、廓はバラダイスと改められカフェー店名義になった)の名前で昭和29年に建てられた。また昭和33年の売春防止法実施後に無縁となっていたのに対して、平野町の有志が「元洲崎遊廓無縁精霊之供養塔」を建てた。
浄心寺・関東大震災供養塔
 1923年(大正12)9月1日11時58分マグニチュード7.9の地震が発生東京・神奈川など首都圏に多大な被害をもたらした。ここ深川は本所・浅草と並んで震度7という激震に遭遇したのである。そしてこの地区が最も大きな人的被害が発生した。

 東京の収容された遺体 6万198体 内焼死5万2178体、溺死5358体、圧死727体
地区別遺体確認死者数
神田区、日本橋区・京橋区 1448名
浅草区 2244名
深川区 2831名
本所区 4万8493名
 隅田川東岸の本所・深川地区で死者の8割以上が生じた。
                  →本所区の被服廠跡4万4030名

 本所区・深川区は一日夜までに本所被服廠跡を含む管内全域をほぼ焼失した、担当した第6消防署(図参照)は所属のポンプ自動車5台及びオー トバイポンプ1台のうち3台と署長を含む2名の署員を失った。深川区の 清澄公園も被服廠跡と同様の危機に瀕していた。
 深川区の西南部では火災が迫るまでやや時間的余裕があった。そこで青年団福島分団は、在郷軍人会第13班と連合して消防隊を組織し、越中 島の陸軍糧秣本廠から消防手1名が付き添った2台のガソリンポンプ車 を借り受け、仲町青年分団は商船学校から腕用ポンプを借り受け、相呼応して門前仲町で東側からの延焼を防いだ。これは午後5時から6時の間のことで、この地域は3時間後に隅田川を渡っての飛び火による西方からの延焼で焼けてしまうが、この防御活動がなければ、避難民の多く集まっていた清澄公園は午後7時頃起こった西、北、東からの延焼と同時に南からの延焼にもさらされ、被服廠跡と同様に四方を火に囲まれた可能性が高かった。この一時的な防御の成功のため、清澄公園に火が迫った時点で辛うじて南方への退路が確保されており、西平野警察署員一同をはじめかなりの避難民が南に向かい、また、公園内への延焼という最悪の事態も免れた。
洲崎弁天町町会東京大空襲慰霊碑
 昭和20年3月10日、午前零時8分、米国空軍戦略爆撃機300機による東京大空襲の第一弾がここ深川区(現江東区)に投下された。空襲警報は同15分、7分も遅れて発令された。2分後の零時10分火災は隣接する城東区(現江東区)に発生、さらに2分後に本所区(現墨田区)が被災、そして同20分隅田川を挟んだ浅草区(現江東区)の各所に火の手が噴出した。周辺地区も相次いで被弾、折からの強風に煽られて下町地区全域に広がった。爆撃は2時間余で終了したが、火勢はさらに荒れ狂い明け方の8時過ぎまで東部一帯をなめ尽くした。警視庁記録では、焼失家屋26万717戸、罹災者100万8005人、負傷者4万918人、死者8万8793人となっているが、死者の数は10万人と推定されている。東京の下町は関東大震災で体験した惨劇を再び経験することになってしまった。
紀伊国屋文左衛門墓所(碑)
 紀伊国屋文左衛門(1669?−1734?)は生い立ちや生涯について不明なことが多い人物である。青年の時に、江戸に出て材木商を営むが、老中柳沢吉保や勘定奉行荻原重秀と結び上野寛永寺の根本中堂の建築材の調達で莫大な利益をあげたといわれる。故郷有田のみかんを江戸に出荷して大もうけをしたという故事は確かなことかどうかはわからない。京橋の本宅の他に、深川木場に貯木場と別宅があったとされる。しかし新井白石の弾劾によって柳沢と荻原が失脚すると紀伊国屋も衰えた。深川八幡(成田不動)の一の鳥居付近(門前仲町1丁目)付近に最後は住んだという。生活はそれなりのものだったといわれている。
平和観音像(東京大空襲供養)
 紀伊国屋文左衛門の墓所の入り口近くにある。三好1丁目は東京大空襲で100名近くの犠牲者を出した。その供養ために町内会によって建てられた。
霊厳寺
 1624(寛永元)年、現在の中央区の霊岸島に建立されたが、明暦の大火(1657年)で消失し、翌1658年、現在地に移転した。
松平定信墓
 松平定信(1758〜1829<宝暦8〜文政12>)。号は白河楽翁。陸奥白河藩主。田安宗武の子、徳川吉宗の孫。天明の飢饉(1783〜7)の際、領内から一人も餓死者を出さなかったといわれた。彼は享保時代に理想を求め、老中に就任後寛政改革を断行し、田沼時代の幕政の建て直しを図ったが失敗に終わった。著書「花月草紙」「宇下人言」など。
銅像地蔵菩薩座像
 六道において衆生を救う六体の地蔵。地獄道・餓鬼道・畜生道・阿修羅道・人間道・天道の六道を守るとされる。墓地の入口、村の入口など、境界に建てられた。京の六地蔵が有名。

*江戸六地蔵
 一番、品川寺(東海道、品川、笠なし)
 二番、太宗寺(甲州街道、新宿)
 三番、真性寺(中仙道、巣鴨 ※とげぬき地蔵ではない)
 四番、東禅寺(奥州街道、浅草)
 五番、霊巌寺(水戸街道、白河)
 六番、永代寺(千葉街道、富岡、廃寺、廃仏毀釈で破壊)
 新六番、浄名院(上野)
清澄庭園
 元は豪商、紀伊国屋文左衛門の屋敷地と伝えられる。後、大名屋敷となり、享保期(1716〜36)に下総国関宿城主久世大和守(重之)の下屋敷となり庭園の基礎が築かれたらしい。明治維新後、荒廃していたこの地一帯(約10万平方メートル)を岩崎弥太郎が1878(明治11)年に買収し、社員の慰安や貴賓を招待する場所として整備し、1880年に「深川親睦園」として開園した。その後も弟の弥之助が造修に務め、隅田川の水を引いた大泉水を始め、築山・枯山水などを備えた「回遊式林泉庭園」が完成した。
 1923(大正12)年9月1日の関東大震災で被害を受けた後、久弥が損壊の少なかった東側半分を翌年、東京市に寄付した。市は公園として整備し、1932(昭和7)年7月から一般に公開している。市はこれを記念して園内自由広場の入口に「清澄園記」という庭園の来歴を記した大きな石碑を建立している。震災時や1945年3月10日の東京大空襲の際には避難所となり、多くの人命が救われたという。
 池に張り出して建てられた数寄屋造りの「涼亭」は、1909(明治42)年に来日したイギリスのキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が造営した。1985年に全面改修工事が行われた。
 自由広場の隅、深川区立図書館の建物を背にして「古池や かはつ飛こむ 水の音」の句を刻んだ大きな芭蕉句碑がある。1934年10月の建立で、芭蕉の門人、宝井其角の門流其角堂9代目晋永湖の筆跡を刻んでいる。元は隅田川沿いの芭蕉庵跡にあったものだが、護岸工事の改修に当たり旧跡が手狭なため、こちらに移されたという。
 庭園入口左手にある大正記念館は、最初、大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したものであった。戦災で焼失した後、1953年に貞明皇后の葬場殿の木材を使って再建された。現在の建物は1989(平成元)年4月の全面改築という。 
戦後、庭園は荒廃したが、復旧工事がなされ、1979(昭和54)年、東京都の名勝第1号に指定された。
 西側の清澄公園は残っていた敷地を、1977年に公開公園として追加開園されたものである。
セメント工業発祥地碑
明治政府は殖産興業政策の一環として1872(明治5)年、仙台蔵屋敷跡(清澄1丁目)に大蔵省セメント(摂綿篤)製造所を設立。のち、内務省管轄を経て、工部省工作局の「深川製作寮出張所」と改称。1875(明治8)年5月に日本初のセメント製造に成功した。
 この官営深川セメント製造所を1883(明治16)年4月からの官有民営としての貸し下げ期間を経て、1884(明治17)年7月に土地建物設備一式、61,741円という好条件でに払い下げられたのが「九転十起の男」浅野総一郎であった。1848(嘉永元)年、越中国氷見郡藪田村(富山県氷見市)の医師浅野泰順の次男に生まれたが、幼少期には養子に出されるなど苦難を乗り越え、1871(明治4)年、24歳の時、大望を抱いて上京。御茶ノ水での「水売り」から始まり、幾多の失敗を経て、日本を代表する起業家・実業家として成長した。その成功の第一歩が当セメント工場買収であり、「明治のセメント王」とも呼ばれた。のちに京浜工業地帯の中心ともなる鶴見臨海部の埋め立てを始めたのは1913(大正2)年のことである。
 戦後、浅野セメント(株)は日本セメント(株)から太平洋セメント(株)と社名を変え、現在も創業地で操業している。
平賀源内(元内)
 1729〜79(享保14〜安永8)。讃岐高松藩出身。名は国倫、字は子彝(しい)、号は鳩渓(主に学問上で用いる)、風来山人、福内鬼外、天竺浪人、桑津貧楽など。長崎に留学し、本草学を学ぶ。27歳のとき妹の婿に家督を譲る。江戸で物産会を開き有名になると博物好きな藩主松平頼恭に一方的に召抱えられるが、再び辞職を願い出、他藩への仕官禁止を条件に許可される。エレキテルのほか、火浣布、寒暖計などを作成する。土用の丑の日にうなぎを食べる習慣も彼が始めたという説がある。安永8年11月21日、殺人事件を起こし入牢、12月18日獄中で病死。「物類品隲」(ひんしつ)、「放屁論」、「神霊矢口渡」などの著書のほか、油絵、源内焼などの美術工芸品も残されている。
エレキテル実験の地
 明和年間、平賀源内は長崎で壊れた舶来の摩擦起電機を手に入れた。これを江戸に持ち帰り、修理復元し、清澄の自宅でしばしば公開実験した。現在彼の作成と伝えられているエレキテルが2台現存しており、1台は東京の逓信博物館、1台は香川県さぬき市志度の平賀源内先生遺品館にある。
清洲橋
 関東大震災後の復興計画の一環として1928(昭和3)年に架橋された(設計:鈴木精一)。「帝都東京の門」と言われた永代橋と対をなすその優美さは「震災復興の華」と謳われたという。モデルはドイツのケルン市を流れるライン川に架かる大吊り橋。長さ186.22メートル、幅22メートル。名前の由来は、建設当時の深川区清住町(江東区清澄1丁目)と日本橋区中洲町(中央区日本橋中州町)を結んだことから。2000(平成12)年、永代橋と共に「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。
江戸時代、この地には「中州の渡し」という渡船場があった。
万年橋
 小名木川の隅田川口に架かる橋で、創建年代は分からないが、この辺りでは最も古い橋の一つという。1671(寛文11)年の江戸図には載せられている。
 葛飾北斎の「富嶽三十六景」では橋脚の高い反り橋として描かれ、橋の下に遠く富士山が描かれている。安藤広重の「江戸名所百景」では橋の全貌は描かれず、吊された亀から「万年橋」と読み取らせる判じ物のような趣向となっている。やはりこれにも富士山は描かれている。現在のものは1930(昭和5)年に架けられた鉄橋という。
小名木川
 豊臣秀吉による小田原征伐後、関東8ヶ国を領有することとなった徳川家康は江戸を居城と定め、城下町の整備を始めた。1590(天正18)年のことであった。急増する人口の生活必需品をはじめとする膨大な物資の輸送にと、慶長年間(1596〜1614)に家康の命を受けた小名木四郎兵衛によって、江戸と利根・鬼怒川両水系の「奧川筋」とを結ぶ水路として隅田川と中川の間に開削された。約4640メートルの長さという。 豊臣秀吉による小田原征伐後、関東8ヶ国を領有することとなった徳川家康は江戸を居城と定め、城下町の整備を始めた。1590(天正18)年のことであった。急増する人口の生活必需品をはじめとする膨大な物資の輸送にと、慶長年間(1596〜1614)に家康の命を受けた小名木四郎兵衛によって、江戸と利根・鬼怒川両水系の「奧川筋」とを結ぶ水路として隅田川と中川の間に開削された。約4640メートルの長さという。
 1647(正保4)年、隅田川口の万年橋袂あたりに深川番所が設けられたが、1661(寛文元)年に小名木川東端の中川口に移された。
芭蕉庵史跡展望公園
 松尾芭蕉は、松尾与左衛門の次男として、1644(寛永21)年、伊賀国、現在の三重県伊賀市に生まれた。通称忠衛門、俳号を芭蕉、桃青などといい、1672(寛文12)年、江戸で生活を始めた。
 1680(延宝8)年深川芭蕉庵に移り、1694(元禄7)年10月50歳で没するまで、この地を根拠地として、全国の旅に出た。
 芭蕉庵は弟子の杉山杉風(さんぷう)の土地で、生簀(いけす)があり、その番小屋に芭蕉を住まわせたものといわれている。当時は広さ600坪ほどあったという。芭蕉没後、この一帯は武家屋敷となり、芭蕉庵は古跡として大切に保存されたようである。しかしながら明治以後はこの一帯が民有地となって、芭蕉庵も消失し、その正確な位置もわからなくなってしまっていたが、1917(大正6)年の大津波の後「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が、出土し、地元の人たちによって芭蕉稲荷が祭られ、このあたり一帯が、芭蕉庵の跡地ということになったのである。
 現在はここ一帯に芭蕉記念館と分館として史跡展望公園がつくられている。館内には、芭蕉の書簡や書画等貴重な資料が展示されている。
田川水泡・のらくろ館
 漫画家田川水泡(1899ー1989)は、東京市本所区林町(現・墨田区堅川)に生まれた。本名高見澤仲太郎。当初は前衛美術グループに所属し抽象画を描いていた。雑誌『少年倶楽部』に1931〜41年まで連載した「のらくろ」シリーズが有名である。戦後、「のらくろ」を再開し1980年の「のらくろ喫茶店」まで続いた。弟子に長谷川町子、滝田ゆうなどがいる。1998(平成10)年に遺族より作品等が江東区に寄贈され、翌年に「田川水泡・のらくろ館」が江東区森下文化センター内に開館した。