京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2006年秋
秋の金沢八景を歩く−金沢文庫と憲法草創の地を訪ねて−

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 11月12日(日)(雨天順延 11月19日<日>)
 *実施の問い合わせは当日午前6〜7時までに事務局へ
【集合】 京浜急行金沢文庫駅改札口 午前10時
【コース】 金沢文庫駅改札口(集合)
 ↓
鏑木清方別荘跡
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称名寺
 赤門
 称名寺貝塚
 塔頭光明表門
 仁王門
 金沢文庫古址碑
 忠魂碑
 庭園(阿字ヶ池)
 金沢顕時供養塔
 金沢貞顕供養塔
 青葉の楓
 鐘楼
 金堂
 釈迦堂
 称名寺裏山(金沢三山:金沢山・稲荷山・日向山)の緑の保存運動
 金沢実時供養塔
(昼食)
 金沢文庫(自由見学)
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龍華寺
 泥亀新田
 金沢の塩業
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金沢八景
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明治憲法草創の碑
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野島
 伊藤博文別荘
 飛行機格納庫跡
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金沢シーサイドライン野島公園駅(解散)
【参加費】 1000円(資料代)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

 本日見学する地域を「金沢」といいます。由来は不明ですが、関靖『かねさわ物語』によると、この地に秩父の金沢村から鍛冶匠が移住してきてその時に地名がつけられたという説があります。
 金沢の地は、内海である東京湾の中で、平潟湾を中心とした内海をもつ二重構造の地形になっています。さらに遠浅の海の先に野島・夏島の小島が突出したすぐれた景観を持っており、それ故に古くから景勝の地として有名でした。
 中世からこの地は江戸湾の海上交通の要所として開け、六浦荘という荘園にもなっていました。そして鎌倉幕府が開かれると金沢の重要性はさらに増していきました。鎌倉は和賀江島という港を備えていましたが、同時に房総半島→金沢→六浦→朝比奈→鎌倉というルートで多くの物資を輸送しており、金沢は幕府の重要な港湾地域でした。
 この鎌倉の外港という貿易・防衛上の要衝を長く治めていたのが金沢氏です。鎌倉幕府2代執権北条義時の孫・実時の時代に称名寺と金沢文庫が創建され、以後、鎌倉幕府滅亡まで金沢氏の支配が続きます。
 江戸時代になりますと、金沢は江戸近郊の手ごろな観光地として脚光をあびるようになります。東海道を通って藤沢→江ノ島→鎌倉→金沢という一泊二日のルートが一般的だったようで、「金沢八景」といういわば観光キャッチフレーズがつくられたのもこの時代でした。また塩田と新田開発が行われ中世以来の景観も変化していきました。
 明治時代になりますと、地形的に外部との交通が不便であったこともあり近代化は遅れがちでした。そのためか富岡・野島近辺は三条実美など政治家たちの別荘地として開けていきました。特に夏島には伊藤博文の別荘があり、大日本帝国憲法の草案がつくられたことで有名です。また現在も行われている海苔(のり)の養殖も明治時代から始まっています。
 また近代の金沢は海軍との関わりの深い地域です。金沢一帯は1899(明治32)年公布の要塞地帯法によって東京湾要塞の要塞地に指定されました。夏島は1910年以後埋めたてられ、横須賀海軍航空隊(1916年)、海軍航空廠(1932年)が建設されました。1930(昭和5)年、湘南電鉄(現在の京浜急行)が開通(黄金町ー浦賀間)し交通の便が開けますと、金沢には航空関連産業が進出しました。1941年には、海軍航空技術廠支廠が設立されました。また同時にそれらの施設に働く労働者の住宅地が造られ人口が急増していきました。
 戦後、多くの軍需工場が民需へと転換されました。主な転換例は以下のとおりになります。
 海軍航空技術廠支廠 → 横浜市立大学、市立金沢高校、東急車輌
 海軍航空技術廠工員養成所 → 関東学院、県立希望ヶ丘高校
 海軍航空技術廠発着部 → 横浜商工高校(現・横浜創学館高校)
 海軍工員寮 → 済生会神奈川県病院仮病院(移転後は若草病院に)
 しかし、金沢が急速に住宅地していくのは戦後です。多くの山が切り崩され急速に金沢八景と称された景観は失われていきました。特に称名寺の裏山の開発計画が明らかになりますと、貴重な文化遺産である裏山を救えという住民の開発反対運動が起こり計画は中止になりました。この反対運動はその後の全国の景観保存運動の先駆けとなるものでした。
 しかし、昭和50年代以降、横浜市の都市計画によって富岡・金沢の埋め立てが「緑を崩して海を埋め立てる」という批判もありながら実施され、巨大な工業地帯とアミューズメントパーク(八景島シーパラダイス)、新交通システムがつくられました。
 中世・近世と近代が同居する金沢が、今後、どのように変化していくのでしょうか。短い時間ですが、横浜有数の歴史を持つ地をじっくり歩いてみましょう。

3.見学ポイントの解説

鏑木清方別荘跡
 現在の金沢文庫駅から称名寺に至る道路の近くに、かつて日本画家鏑木(かぶらき)清方の別荘「游心庵」があった。鏑木清方(1877〜1972)は、1920(大正9)年から約20年間にわたり休養の地としてしばしば訪れた。この場所は、金沢の景色を一望できる高台にあり創作活動の拠点としていた。
 石段で上る丘の地所は二段になって、小高い方、稲荷を仰ぐあたりに六畳敷の四阿がある。ここからの展望が勝れ、元の八景のあらかたを居ながらにして見晴らす。…瀬戸の継橋のこなた、入江の跡の青田は漣の寄せるが如く丘に迫り、裏の山にも、庭の崖にも、季節は過ぎたが茅に交って山百合の花の咲いているのも都会人には珍しかった。
 
随筆「遊心庵」(『続こしかたの記』)
金沢山称名寺
称名寺は、鎌倉幕府の執権北条氏の一族北条実時(1224〜1276)が所領六浦庄に営んだ居館内に設けた念仏堂(持仏堂)に始まるという。父実泰と5年前に亡くなった母のために、1259(正元元)年頃の創建と考えられる。母の兄であった乗台(天野景村)らを別当とし、不断念仏衆が置かれていた。
 実時は律宗の叡尊・忍性を称名寺に招こうとしたが、叡尊は奈良に戻り、忍性は極楽寺を本拠に選んだ。そこで実時は律宗の要となる人材の推薦を忍性に求め、下野薬師寺(栃木県)の妙性房審海に白羽の矢が立ったのである。1267(文永4)年頃、鎌倉の多宝寺へ経典受け取りに訪れた審海を実時が口説き落とし、称名寺の開山とし、真言律宗に改めている。
 1323(元亨3)年の「称名寺絵図並結界記」に描かれた七堂伽藍を備えた境内の模様が、称名寺の最盛期を偲ばせてくれる。鎌倉幕府滅亡後は、金沢北条氏と縁戚関係のあった足利氏によって寺領が安堵された。尊氏・直義らにとって北条貞顕が義理の伯父に当たる。住職は2代劔阿・3代湛睿と優秀な学僧が続き、幕府の滅亡から南北朝の動乱という危機の時代を乗り切ることができた。
赤門
 称名寺の総門で、江戸時代、1771(明和8)年の再建。 控柱 が本柱の前後に二本ずつで計四本になる四脚門(または四足門)である。切妻造、本瓦葺。
 左手に「金沢文庫旧跡」と刻んだ石柱があり、その左側に「是よりしよふみやうじ かまくらすく道」、裏に「天明三年癸卯二月日」(1783年)と刻まれている。右手の「百番観世音霊場」の石柱は、昭和10年の北条実時660年忌にあたり、大橋新太郎が供養のために寄進したものという。
称名寺貝塚
 称名寺貝塚は縄文後期初頭の称名寺式土器の標準遺跡として有名であり、また関東地方では最も多数の鹿角製漁労具を出土した貝塚としても知られる。
 9ヶ所の小貝塚が確認されており、赤門を中心に直径約百数十メートルの外周に、環状に7つの貝塚が点在する。形成された時期は約4000年前からで、継続的にできているようだ。貝塚が取り巻く内部に集落があったと考えられる。人骨が埋葬された貝塚もあった。南方に離れて確認された2つの貝塚は中世と近世のものである。
塔頭光明表門
 光明院は称名寺の塔頭(子院)の一つで、『新編武蔵国風土記稿』に「光明院、仁王門に向かって左にあり、五院第一臈なり」とあり、江戸時代後期には5つの塔頭の1位を占めていた。表門は小規模な四脚門であるが、和様を基調に禅宗様を加味した意匠になっており、解体修理で見つかった墨書銘から1665(寛文5)年という造営年代が判明する、横浜市内最古の建造物である(三渓園の他県からの移設建造物は除く)。切妻造、茅葺。市の指定文化財。
仁王門
 1818(文政元)年の再建。両脇の木造仁王像(金剛力士蔵)は1323(元亨3)年の造立で、1557(弘治3)年、1626(寛永3)年、1669(寛文9)年の3回にわたって修造されたという。桧材による寄木造り。像高4メートル近い、関東でも有数の大きさの像という。1970(昭和45)年に解体修理が行われ、体内銘から制作年代や大仏師院興の作であることなどが判明した。県重文。
金沢文庫古址碑
 1794(寛永6)年2月、金沢安貞の撰文により建てられた。
 金沢北条氏は執権北条得宗家滅亡と共に滅び、子孫の消息は諸説あって定かではない。自称金沢氏は代々江戸幕府に仕え、火消与力や印旛沼干拓事業の監督、佐渡奉行、長崎奉行などに任じた。安貞とその子千秋は金沢氏の業績の顕彰や史跡の整備に努めたが、この碑もその一つである。
忠魂碑
 この忠魂碑は、1936(昭和11)年4月、金沢町野島の陸軍上等兵黒川梅吉が満州事変において戦死、その町葬を契機として建てられた。帝国在郷軍人会金沢分会が基金を募集し、日清・日露戦争以降の金沢町戦没者を祀った。碑銘には金沢町出身の戦死殉職者7名が刻まれている。内訳は、日清戦争1名、日露戦争4名、大正6年軍艦筑波爆沈遭難者1名、満州事変1名である。標額の揮毫は侍従武官長本庄繁。
阿字ヶ池(庭園苑地)
 称名寺の庭園苑地は、金沢貞顕による称名寺再造営(1317〜23年)の際、現在復元されているような浄土式庭園として造園された。1978(昭和53)年から1987年までの保存整備事業で美麗な庭園として復元されたのだが、20年も経つとこのように老朽化して、橋も渡れなくなってしまった。行政は文化財を保存・維持する費用も出せないのだろうか。
 浄土式庭園とは、仏教の浄土思想の影響により、平安時代中頃から鎌倉時代にかけて、京都・奈良・奥州平泉などで盛んに造られた。浄土の雰囲気を表すことを意図しており、宇治平等院や浄瑠璃寺の庭園は代表的なものである。
 称名寺では、金堂と南の大門(仁王門)との間に大池を設け、池の中央に配した中島に反り橋と平橋を架け、堂と門とを直線的に結んで参道としている。こうした池庭の構成は、京都の法勝寺や平泉の毛越寺と同様であり、浄土世界を描いた浄土曼陀羅の構図に最も近いものとされている。
 池の西側に「美女石」と呼ばれている先のとがった石が顔を出している。昔、散歩中の北条の姫があやまって池に落ちたのを、付き添いの乳母が助けようとしたが、二人とも溺死し、石となったという。1987年にほぼ完了した苑地の復元整備事業で、「美女石」の近くに泥に埋もれて沈んでいるのではと考えられた「姥石」は発見されなかった。
金沢顕時供養塔
 金沢顕時の供養塔とされる五輪塔。五輪塔は密教の卒塔婆で、宇宙の万物を構成するもととなる五要素、下から方形=地・球形=水・三角形=火・半球形=風・団計=空の五つを表し、通常その表面に梵字を刻む。後には供養塔・墓碑として建てられた。
 顕時は実時の子。評定衆として幕政に参画。1326(弘安8)年の霜月騒動(妻の父で幕府御家人安達泰盛の一族が謀反の嫌疑で滅ぼされた事件)に連座し一時謹慎させられたがのちに復活した。父同様、学問を好んだ。
金沢貞顕供養塔
 金沢貞顕供養塔とされる五輪塔。
 貞顕は顕時の子。六波羅探題や連署(副執権)を歴任し、1326(嘉暦元)年、執権となるが、北条泰家らの反対により出家した。1333(元弘3)年、鎌倉幕府滅亡の際、一門とともに自刃した。父祖同様に学問を好み、多くの書籍を書写・収集した。
青葉の楓
 かつて金堂のそばに金沢八名木の一つ、謡曲「六浦」にうたわれた青葉の楓の古木があったという。既に枯れてしまい、現在のものは1998年の薪能上演を記念して植樹されたものという。
 伝説では、かつて中納言冷泉為相(母親は『十六夜日記』の作者阿仏尼)が称名寺を訪れた時、周囲の山々がまだ青葉なのに、この木だけがみごとに紅葉しており、これに感じて「いかにして この一本にしぐれけん 山に先立つ 庭のもみじ葉」と詠んだという。木の方では、高貴な人に褒めてもらったのを、身に余る光栄、功なり名を遂げた今、もはや身を退くのが天の道と、それ以後、紅葉するのをやめたというのである。
鐘楼
 金沢八景の一つ、「称名の晩鐘」。国指定重要文化財。総高128.5cm。
 北条実時が1269(文永6)年に亡父実泰の七回忌に寄進し、その子顕時が1301(正安3)年に改鋳したもの。鋳造者は当時、関東一円で活躍した鋳物師の棟梁、物部国光と子の依光。国光は鎌倉円覚寺の洪鐘(国宝)、杉田東漸寺の永仁の鐘(重文)をほぼ同時期に造っているという。
 元亨3年の「称名寺絵図」では、仁王門を入ったところに鐘楼が描かれている。場所が違っているのは、1799(寛政11)年に江戸の米問屋石橋弥兵衛と女講中が鐘楼を寄進した際、本堂側に移されたものであろう。関東大震災で倒壊した3年後、大橋須磨子(新太郎夫人)により再建された。
金堂
 1681(天和元)年の再建。禅宗様、入母屋造、銅板葺。初めは茅葺きだったという。 本尊は木造弥勒菩薩立像、重文。金沢文庫の展示室に、金堂の内部を模造したコーナーがある。
釈迦堂
 1862(文久2)年建立。禅宗様、宝形造、茅葺。
 本尊は木造釈迦如来立像、重文。六波羅探題として上洛中の北条貞顕が、祖父実時の三十三回忌の追善供養として、京都嵯峨の清涼寺の釈迦如来像を模して造らせ、講堂に納められたものという。像内銘文から徳治3(1308)年の作と判明。
称名寺裏山の緑の保存運動
 新港埠頭の入り口に位置する橋で1904(明治37)年に弓形トラス鉄橋として造られた。1940(昭和15)年に鉄筋コンクリート・アーチ橋に改築された。現在の橋は1965年に拡幅され、さらに最近整備された。
金沢実時供養塔
 金沢実時の供養塔とされる宝篋印塔。宝篋印塔は、本来内部に宝篋印陀羅尼の経文を納めた。これを唱えると地獄から極楽に移れるという。後には供養塔・墓碑として建てられた。方形の基礎の上に、方形の塔身をおき、上に段形になった笠石があり、相輪を立てる。笠石の四隅に隅飾りの突起があるのが特色。
 金沢実時は北条義時の孫で、評定衆として幕政の中枢にあった。また、学問を好み、和漢の書籍を書写・収集し、金沢文庫のもとをつくった。
金沢文庫
 金沢実時は、小侍所別当・引付衆・評定衆などを歴任した後、職を辞し金沢の地に別邸を築き引退した。実時は読書を好み多年にわたり和漢の書物を収集し、自らも書写・校合に励んだ。実時の死後も、顕時・貞顕・貞将と引き継がれ蔵書は増加し、歴代称名寺住職にも利用された。特に貞顕は「徒然草」の作者吉田兼好とも交わる文化人だった。
 文庫の創建年代は、実時の晩年か死後の1277(建治3)年前後とする説と、多くの寺領を寄進した顕時を記念して1302(乾元元)年前後に設けられたのではないかとする説がある。また称名寺との関係ははっきりせず、伝来の刊本・写本に「金沢文庫」「称名寺」と別々の印を持つ二種類がある。いずれにせよ、金沢文庫は図書館としてのみではなく、武州金沢元学校などとも呼ばれ、教育機関としても機能していた。1333(元弘3)年の鎌倉幕府滅亡とともに文庫の蔵書は称名寺の管理下に置かれることになった。文庫の建物も室町初期には失われたようである。その後、蔵書は散逸し、特に1602(慶長7)年に徳川家康が江戸城に富士見亭文庫をつくるときに、一部を持ち出したのは有名である。
 近代になり文庫復興の動きが進められた。1897(明治30)年、伊藤博文は横浜の商人平沼専蔵にすすめて出資をさせ、塔頭大宝院跡に書見所と石倉を建設したが、関東大震災で倒壊した。1930(昭和5)年、出版社博文館の創業者大橋新太郎の寄附5万円を得て、2階建て鉄筋コンクリートの「県立金沢文庫」(旧)が建設された。
龍華寺
 縁起によると文治年間(1185〜1190)に源頼朝と文覚上人が六浦山中に建立した浄願寺を、兵火による焼失を機に1449(明応8)年に現在の洲崎の地に移し龍華寺と号したという。近世には塔頭4院、末寺20余寺を擁する武州の密教教学の中心寺院として栄えた。山門を入って右手の梵鐘(県重文)は、1541(天文10)年に古尾谷重長が寄進したものである。鐘身がほっそりした古様式の鐘で、鎌倉末ごろに鋳造し、そのまま仕上げをせずに置かれ、天文10年に龍華寺の鐘として銘が刻まれたものと推定される。鐘楼東の墓地に、泥亀新田の開拓者永島泥亀の墓がある。
泥亀新田
 近世は全国的に盛んに新田開発が行われた時期であるが、横浜は、低い丘陵と狭い谷戸という地形により内陸部の開発が進まなかったことと長い海岸線の割には開発に適した地が少なかったことが原因で耕地開発が進まなかった。
 そのなかで泥亀新田は海岸線で行われた数少ない新田開発である。泥亀新田は江戸湯島聖堂の儒官であった永島泥亀が、1668(寛文8)年から開発したもので、広さは2町6反4畝25歩あった。
 その後この新田は、1703(元禄16)年11月の大地震によって陥没し荒廃してしまった。これを新たに開拓したのが6代目段右衛門(永島家は代々この名を称した)で、入江新田を開拓し、同時に泥亀新田も復旧した(1786年)。ところがこの新田も完成の年に関東を襲った大洪水によって田畑の大半が流失してしまうことになり、9代目段右衛門(亀巣)によって修復が完成したのは1849(嘉永2)年であった。彼は幕末には久良岐・鎌倉・三浦3郡の大取締役になり、明治になってからは戸長もつとめた。
金沢の塩業
 金沢の塩業は中世以来行われていたが、本格化したのは江戸時代になってからである。当時の製塩は、実際に塩をつくる塩場以外でも燃料(薪)供給などを含む幅広い地域を必要とし金沢周辺の村々は生活のある程度を塩生産に依存していた。塩場は町屋・洲崎のあたりにつくられていた。製法は鉄釜を使った直煮法で濃縮した海水を釜に入れて燃料を焚き塩をつくった。但し、先進地帯である瀬戸内海や阿波の塩に比べると商品価値は低いものだったようである。
金沢八景
 金沢八景の名称は、中国の瀟湘八景(洞庭湖に注ぐ瀟水・湘水の付近にある名勝八ヵ所)に似ているところから命名されたと思われる。1614(慶長19)年ごろの「名所和歌物語」にはすでに「金沢八景」の名が見え、また、慶長年間に狩野之信が江戸城内金沢の間にこの地の八景を描いたとされる。しかし、いわゆる「洲崎の晴嵐」「瀬戸の秋月」「小泉の夜雨」「乙艫の帰帆」「称名の晩鐘」「平潟の落雁」「野島の夕照」「内川の暮雪」の八景が定着したのは、1684(元禄7)年頃、徳川光圀に招かれこの地を旅した明の僧心越禅師の賦した漢詩がきっかけとされている。
 八景の眺望は、称名寺の西北にあった能見堂からのものが随一とされ、そこは平安の昔に絵師巨勢金岡が当時の風景を描こうとしたが、絶景に感嘆するのみで筆を捨てたという伝説の地である。近世に多くの文人墨客がここを訪れ、八景を詠んだ詩歌も数多く残されている。
明治憲法草創の碑
 この地で伊藤博文等によって明治憲法(大日本帝国憲法)の原案が作られた。この原案に先立って、1887年(明治20)4月から5月にかけて井上毅が2つの案を作成、ドイツ人顧問ヘルマン・ロェスレルとアルベルト・モッセの両人との質疑と外国憲法参照を添付して伊藤に提出された。さらに同じ時期に、ロェスレルはドイツ文の「日本帝国憲法草案」を起草し伊藤に提出した。
 6月1日伊藤は武州金沢へ出発するに先立って、内大臣三条実美宛書翰の中で、憲法起草が国家100年の基礎を固くし、皇室を泰山の安きに置くことを目指すものであるとその決心のほどを語っている。霖雨のなか、伊藤は秘書官伊東巳代治・金子堅太郎の両秘書官を引き連れ武州金沢の東屋という旅館に赴き、憲法草案の作成に着手した。これと前後して夏島に伊藤の別荘が落成したため伊藤だけ別荘に行き、会議を東屋で行った。8月6日の夜、盗賊が東屋に侵入、伊東巳代治が保管していた憲法草案が入った鞄を盗むという事件が起きた。しかし、その鞄は付近の畑に捨ててあるのが発見され、草案は無事であった。この事件で草案の漏洩を防ぐために、金子と伊東は東屋を引き払い、伊藤の別荘で宿泊し、そこで会議が開かれた。8月には療養中であった井上毅も金沢の野島館に宿泊し、会議に参加し、同月20日頃草案ができあがった。この草案を、夏島草案と通称している。
野島
 野島は名前のとおり元々は島であったが、北から砂州が延びて縄文時代の終わり頃、陸続きになった。しかし1945(昭和20)年に海軍が野島運河を開削し再び島になった。標高53メートルの山頂付近に縄文時代早期の野島貝塚が発見されており古くから人々が住み着いていたことがわかる。江戸時代には網元の鈴木吉兵衛が代々将軍家に鯛を献上する役目を果たしていた。また「野島百軒」と呼ばれ、戸数百軒を超えると必ず災いを招くという言い伝えある。大正期の野島の漁法は、延縄と一本釣りの「船釣り」で、本牧沖から横須賀沖・富津沖までの広い範囲に出漁していた。現在でも観光釣り、海苔養殖、アナゴ漁などで盛んに行われている。野島一帯は太平洋戦争末期、全戸建物疎開の対象となり1945年6月までに殆どの家は取り壊されてしまった。また野島山頂には10センチ連装高角砲2基と機銃11基等が建設された。
伊藤博文別荘
 伊藤の別荘は当初、夏島にあった。しかし夏島に陸軍の夏島砲台を建設されることになり、小田原に移した(別荘は滄浪閣と名づけられ、後に大磯に移築)。伊藤はその後、金沢に愛着を示し金沢文庫の再興後、1898(明治31)年に野島に別荘を建てた。約9000坪の広大な別荘で洲崎の大工山口新三郎の手になる木造平屋茅葺きの建物が現存している。この建物は、今年11月1日に、横浜市の指定文化財になった。
野島の飛行機格納庫跡
 横須賀海軍航空隊の飛行機格納庫で、野島山の東端から野球場南の公園までほぼ東西に掘られ、長さ約260メートルの巨大な格納庫である。夏島でも同時期に格納庫の開削が行われていた。工事開始時期は1944年末か45年1月頃で45年8月14日に完成した。幅約20メートル、高さ7メートルの主隧道の他に複雑な地下施設が造られた。格納庫を建設した第三〇〇設営隊(他にも横浜市の日吉台地下壕などを建設)の隊長によれば「日本一の大型隧道」というもので、零戦20機・銀河(双発の陸上爆撃機)20機を格納できたという。