京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2006年春
みなとみらいに明治を訪ねる

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説
4.参考情報


1.実施要綱

【日時】 4月16日(日)(雨天順延 4月23日<日>)
 *実施の問い合わせは当日午前6〜7時までに事務局へ
【集合】 JR桜木町駅改札口 午前10時
【コース】 JR桜木町駅改札口(集合)
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日本鉄道発祥の地碑
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長谷川伸文学碑
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旧横浜船渠
 エアーコンプレッサー
 第2号ドック(ドックヤードガーデン)
 第1号ドック日本丸マリタイムミュージアム(日本丸メモリアルパーク)
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横浜ランドマークタワー
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汽車道
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新港埠頭
 ララ物資記念碑
 ドイツ船爆破事件
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横浜港ポートトレインホーム
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旧税関事務所遺構
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赤レンガ倉庫(赤レンガパーク)(昼食)
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万国橋
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旧生糸検査所(横浜第2合同庁舎)
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日本郵船ビル
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旧横浜銀行本店
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旧安田銀行横浜支店
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馬車道
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旧横浜正金銀行本店
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旧第百銀行横浜支店
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横浜銀行協会
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横浜税関
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横浜市開港記念会館
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神奈川県庁、神奈川運上所跡
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横浜開港資料館
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日米和親条約締結の碑(開港広場)
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象の鼻
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大桟橋
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英一番館
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山下公園
 インド水塔
 赤い靴の少女像
 氷川丸
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(解散)
【参加費】 1000円(資料代)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

 江戸時代、一寒村にすぎなかった横浜村が、国際的な開港場に転身をとげたのは約150年前のことであった。
 港都横浜は、日米修好通商条約の締結によって誕生した。この条約には、開港地として「神奈川」が、開港日も1859(安政6)年6月2日と決められ、幕府はその責任上、その日に間に合うように開港場を完成させなければならなかった。
 しかし開港場の場所をめぐっては、日米間に意見の相違があった。アメリカは東海道の宿場・神奈川宿を主張したのに対し、幕府は横浜を主張し互いに譲歩しなかった。幕府は、横浜を主張した理由として、錨地として優れ、舟運の便がよいこと、人煙希薄であることをあげている。その前提には、三方を山に囲まれた横浜村に新規に町を新造した方が外国人の取り締まりがしやすいという考えがあった。結局、幕府は独断で横浜港建設にとりかかった。
 横浜港の建設は、波止場、貿易事務を取り扱う運上所の建設と、東側に外国人居留地、西側に日本人居住地を分けること、さらに旧村民を元町へ強制移住させ堀川によって隔てた。横浜の町は四方を水で囲まれることとなり、吉田橋や前田橋のたもとには関門が設置された。そこでその内側を「関内」と呼ぶようになった。
 1859年に開港以来、横浜は日本最大の貿易地となっていった。明治時代になり、貿易量や船舶の出入りが増加すると港としての各種施設の整備の必要がでてきた。そこで明治政府は、イギリス人技師パーマーの案による横浜港修築第1期工事を計画し、1889(明治22)年9月に着工し、1896年に竣工した。ちなみにこの工事費は「下関賠償金返還金」(幕府が下関事件において払った賠償金をアメリカが1883年に明治政府に返還)の一部である78万5000ドルが投入された。この第1期工事は、@港内に2条の防波堤、A帷子川を港外に導く導水堤、B西波止場前面に幅員12〜17メートル、延長730メートルの鉄桟橋(大桟橋)を架設することが主な内容であった。
 しかし、この工事も日清戦争後の外国貿易の急増などに対応できず、第2期工事(横浜税関設備工事)が着工されることになった。この工事で従来のはしけ作業によらず船舶が接岸荷役ができる岸壁と上屋・倉庫を備えた埠頭として新港埠頭が造られた。陸上設備として上屋・事務所・発電所・道路・鉄道線路などが整備された。新港埠頭は客船と貨物の両方に使用された。この設備の多くが1923(大正12)年の関東大震災で倒壊・焼失してしまった。震災復興の動きのなかで多くの港湾施設が復旧されたが、1945(昭和20)年5月29日の横浜空襲によって大桟橋をはじめ多くの施設が再び焼失してしまった。
 戦後、しばらく米軍に接収されていた横浜港や関内地区が次第に返還され、再び横浜港は活気を取り戻していった。そのなか1960年代後半頃から、市の商業地区である関内・伊勢佐木町地区と交通の要衝である横浜駅周辺地区とを結ぶ臨海部を再整備し、横浜経済を活性化しようという構想が生まれてきた。この計画は、旧三菱重工業横浜船渠と新港埠頭地区を中心にした再開発計画、すなわち「みなとみらい21」計画として実現していく。計画の目的としては(1)横浜の自立性の強化、(2)港湾機能の質的転換、(3)首都圏の業務機能の分担があげられている。計画地は全体で186ヘクタール、横浜駅東地区と中央地区、新港地区に分けられている。
 このように見てみると、少なくとも横浜港を中心とした港湾施設はその時々の国家的な政策に密着して整備されてきたことがわかる。しかし同時にそのことが横浜の経済界が中央=東京に大きく左右されてきたことも理解できよう。

関係年表

西暦 和暦 記事
1853 嘉永6 ペリー、浦賀に来航
1854 安政1 ペリー再来航、日米和親条約調印
1858 安政5    日米修好通商条約を調印
1859 安政6   横浜開港、運上所を設置
1864 元治1   横浜居留地覚え書の調印→居留地の整備・ 拡充、遊歩道の設置
1866 慶応2    横浜の大火( 豚屋火事)、日本人町と居留地の多くを焼失
横浜居留地改造および競馬場墓地等約書の調印→日本大通り等の整備
1870 明治3    『横浜毎日新聞』の創刊
1872 明治5 我が国初のガス燈の点火(馬車道)、新橋横浜間に鉄道開通
1880 明治13 横浜正金銀行の営業開始
1889 明治22 市制施行、横浜正金銀行法の制定、横浜港第1期工事着工
1991 明治24 横浜船渠会社の設立
1894 明治27 大桟橋の完成
1896 明治29 横浜港第1期工事の竣工
1899 明治32 条約改正により居留地撤廃
1904 明治37 横浜正金銀行の建物が完成
1911 明治44 新港埠頭(赤レンガ)倉庫第2号棟の完成、開港50年祭
1913 大正2 新港埠頭完成、赤レンガ倉庫第1倉庫の完成
1920 大正9 横浜港駅開業
1923 大正12 関東大震災
1926 大正15 旧生糸検査所の建物が完成
1930 昭和5 山下公園開園
1935 昭和10 山下公園で復興記念横浜大博覧会
1942 昭和17 新港埠頭でドイツ仮装巡洋艦などが大爆発
1945 昭和20 横浜大空襲、横浜の港湾施設全てが米軍に接収される
1956 昭和31 冷蔵倉庫を除き接収解除
1979 昭和54 横浜市都心臨海部総合計画を発表
1981 昭和56 横浜開港資料館開館
1983 昭和58 みなとみらい21事業着工
1985 昭和60 帆船日本丸の一般公開開始
1989 平成元年 横浜博覧会開催
1993 平成5 横浜ランドマークタワーオープン
1994 平成6 横浜冷蔵倉庫、米軍より返還
1997 平成9 汽車道・クイーンズスクエアオープン
1999 平成11 新港地区街開き
2004 平成16 みなとみらい線開業

3.見学ポイントの解説

日本鉄道発祥の地碑
 1872(明治5)年5月7日、横浜・品川間に最初の鉄道が開通した。現在の桜木町駅付近が初代横浜駅である。この鉄道発祥の地を記念して1967(昭和42)年10月16日に財団法人横浜市観光協会によって建てられ、1988(昭和63)年に広場整備にともなって現在地に移された。碑の裏には、当時の時刻表や乗車料金が刻まれている。
長谷川伸文学碑
 本名、長谷川伸二郎。1884(明治17)年、横浜日の出町生まれ。1863(昭和38)年没。小説家。吉田小学校(伊勢崎町あたり)中退。横浜ドックなどで働きながら苦学し、新聞記者を経て文筆業に入る。代表作に『瞼の母』、『一本刀土俵入』、『沓掛時次郎』、『関の弥太っぺ』、『雪の渡り鳥』などの股旅物、『荒木又右衛門』などの歴史小説がある。研究会「新鷹会(しんようかい)」(長谷川伸賞を主催)を組織。門弟には村上元三、山手樹一郎、山岡荘八、平岩弓枝、池波正太郎らがいる。残念ながら現在入手できる作品(書籍)はほとんどないが、演劇や映画(DVD)で親しまれている。
横浜船渠
 明治20年代の横浜築港工事と並行して京浜間にドックを建設しようという気運が高まった。原善三郎、茂木惣兵衛、平沼専蔵などの横浜商人グループと渋沢栄一、益田孝らの中央の商人たちのグループが合同提携し、1891(明治24)年に横浜船渠株式会社が設立された。同社は日本郵船の船舶の修理を主な業務としていたが、次第に造船部門に進出。当時日本最大の客船秩父丸(17500トン)やシアトル航路に就役した「氷川丸」(11622トン)などを建造した。1935(昭和10)年、三菱重工業に合併吸収され、三菱重工業横浜船渠として操業を続けた。1983(昭和58)年、横浜市との協定により、本牧と金沢地区に移転した。
旧横浜船渠エアーコンプレッサー
 1918(大正7)年、アメリカニューマチック・ツール社製。エアーコンプレッサーとは空気を圧縮し、造船や船の修理に必要な工具や機械を動かすもの。横浜船渠(株)が購入し三菱重工業横浜造船所でも使用された。
旧横浜船渠第2号ドック(ドックヤードガーデン)
 現在、ドックヤードガーデン(多目的広場)になっている場所は、かつて「横浜船渠株式会社」の第2号ドックであった。海軍技師恒川柳作の設計により、1896(明治29)年に竣工。現存する商船用石造りドックの中では日本最古のもの。全長107メートル、上端幅29メートル、深さは10メートル。真鶴や伊豆地方の石で造られ、ブラフ積み(直方体の石を長い面と短い面を交互に見せながら組み上げる方法)の構造がよくわかる。明治・大正・昭和を通じて港町「横浜」の発展と共に活躍してきたが、昭和40年代頃から船の大型化、小型船修繕の中小造船所への移行等により使用頻度が急速に低下。1973(昭和48)年に機能を停止。1993(平成5)年、ランドマークタワーのオープンとともに多目的広場となった。1995年に国重要文化財に指定された。
旧横浜船渠第1号ドック
 横浜船渠の第1号ドックとして海軍技師恒川柳作の設計により1899(明治32)年第2号より約2年遅れて竣工した。大正年間に延長工事が行われ、全長203メートル、上端幅39メートル、深さ11メートル。なお1号・2号ドックとも船を建造するドックではなく修繕用のドライドック(乾船渠)である。海とドックを隔てている扉船(とせん)の様子がよくわかるのもこのドックの特徴。作家の吉川英治は17歳の年齢を20と偽って勤め、1号ドックで作業中に足場ごと落下し人事不省になった。2000年、国指定重要文化財。
日本丸
 昭和の初め、東京・神戸の高等商船学校、各地の公立商船学校の要望により、1930(昭和5)年2艘の大型練習船「日本丸」「海王丸」(海王丸パーク、富山県射水市海王町)が建造された。
 日本丸はポナペ(現ミクロネシア連邦ポンペイ)、ホノルル、サンフランシスコなど主に太平洋で訓練を続けた。第二次世界大戦中は帆装を撤去し灰色に塗り替えられ、国内での訓練の傍ら物資輸送を行ったが、戦争の犠牲になることはまぬがれた。敗戦後は引揚者の輸送や遺骨収集に力を尽くし、1950(昭和25)年、朝鮮戦争が勃発すると「特殊任務」により、韓国難民の輸送を行った。
 その後は「帆船など時代遅れ」といわれながらも、1951年に商船大学の帆船による航海実習が規定され、翌年再び美しい姿を取り戻し、練習帆船として復活した。1984年、引退。横浜市に引き渡され、翌年一般公開された。
マリタイムミュージアム
 港と船をテーマとする博物館。展示のほか海事専門図書室があり、横浜港に関する資料収集も行っている。古写真、図面、港湾で使用された道具など、処分を検討している方はご相談くださいとのことである。
横浜ランドマークタワー
 高さ296メートルの日本一の超高層ビル。1993(平成5)年7月にオープンした。地上70階、地下3階の建物で、1〜48階まではオフィス、49〜70階までは横浜ロイヤルパークホテルになっている。最上階には展望フロアがあり、天気が良い日には関東一円が展望できる。料金は少々高め(1000円)。
汽車道
 かつて新港埠頭に敷かれていた鉄道路線を利用して造られた散歩道。鉄道は1911(明治44)年に輸出入貨物の輸送強化のために敷設されたが、1986(昭和61)年トラック輸送に押されて廃止された。ここには3つのトラス橋(三角形の構造で構成された橋)が架かっている。日本丸側の2つ(港一号橋梁、二号橋梁)は1907年にアメリカで製作されたもの。共に1909(明治42)年に架設。新港埠頭地区側(港三号橋梁)のものは、イギリス式のトラス橋であり、北海道の夕張橋梁であったが横浜の中心部を流れる大岡川に架かる大岡橋梁に転用しさらに移設・保存された(1997年移設)。
ララ物資記念碑
 ララとは第二次世界大戦後、物資不足に苦しむ日本に対して救援物資を送ってくれたアメリカの支援団体「アジア救援公認団体」(Licensed Aqencies for Relief in Asia、通称ララ)のことである。いわゆるララ物資は、1946(昭和21)年11月30日にハワード・スタンズベリー号が新港埠頭に接岸しミルクや衣類、医薬品、石けんなどを荷揚げしたことから始まる。記念碑は、2001(平成13)年4月5日にララの功績を残す会によって建てられた。碑文には香淳皇后の歌二首が横浜市長高秀秀信の筆で刻まれている。
ドイツ船爆破事件
 1942(昭和17)年11月30日午後1時40分、新港埠頭8号岸壁に接岸していたドイツ輸送艦ウッケマルク号(10698トン)が爆発。その横に停泊していたトオル号(ドイツ仮装巡洋艦第十号)(3862トン)に誘爆、さらに7号岸壁の第三雲海丸(日本海軍の徴用船、3082トン)、6号岸壁のロイテン号(ドイツ汽船、7131トン)に引火・炎上。死者・行方不明102名(ドイツ61名、中国人36名、日本人5名)を出す大惨事になった。しかし戦時下であったため事故は秘密とされほとんど報道されなかった。帰国できなくなったドイツ船員は箱根芦之湯の松坂屋旅館に幽閉された。山手と根岸の外国人墓地に追悼碑が建てられている。
横浜港ボートトレインホーム
 新港埠頭には1911(明治44)年、横浜税関構内の荷扱所としてつくられ、1920(大正9)年7月「横浜港駅」となった。1927(昭和2)年に4号上屋が建設され翌年から海外航路の発着場となり、東京駅から横浜港まで汽船連絡列車(ボートトレイン)が運行された。ボートトレインは、日本郵船のサンフランシスコ航路の汽船が出帆する日に限って、不定期列車として出されていた。戦後も氷川丸がシアトルに渡る際に列車は運行されたが、1960(昭和35)年8月27日を最後に廃止された。現在のホームは実際のものより短くなっている。
旧税関事務所遺構
 正確には横浜税関新港埠頭右突堤中央事務所。新港埠頭の港湾施設の管理・運営の窓口として1914(大正3)5月に建設された。レンガ造り、3階建て、軒高18メートルの立派な建物であったが、関東大震災によって焼失した。公園整備の過程で発掘され、整備・保存された。
赤レンガ倉庫
 通称「赤レンガ倉庫」として親しまれている。新港埠頭の付属施設として建設された。1907(明治40)年起工、1911年完成の第二号棟はレンガ造り3階建て、長さ149メートル、幅21メートルある。同規模の第一号棟も1913(大正2)年に完成したが、関東大震災で三分の一が焼失し、現在はほぼ当時の半分の大きさ。設計は大蔵省臨時建築部と妻木頼黄(よりなか)が行った。赤レンガ倉庫が生まれた頃は、日清戦争の好景気のなかであり、港は飛躍的に伸びる貿易量に活気づいていた。それだけに政府も倉庫建設に大きな熱意をもっていた。当時の倉庫建築は、耐火性を強めるためレンガ倉庫から鉄筋コンクリート造りへの移行期にあたっていた。赤レンガ倉庫は、レンガ積みの要所に鉄を大量に使って補強してあるが、簡単なリフトやスロープを設けるなど、当時としては最新鋭の倉庫だった。戦前は主に葉タバコ、羊毛、光学機器など防湿が必要な貨物や洋酒類の保管に使われていたが、戦時中は軍需品の補給基地となり、戦後は米軍が接収した。1956(昭和31)年に接収解除となったが、倉庫としての機能は新型のコンテナに奪われ、時代の波からは取り残されたのであった。2002年に内部の改装が終わり、各種のテナントが入ったショッピング街に生まれ変わった。
万国橋
 新港埠頭の入り口に位置する橋で1904(明治37)年に弓形トラス鉄橋として造られた。1940(昭和15)年に鉄筋コンクリート・アーチ橋に改築された。現在の橋は1965年に拡幅され、さらに最近整備された。
旧生糸検査所
 かつて「キーケン」の愛称で親しまれた生糸検査所の建物。関東大震災によって焼失した横浜生糸検査所の新庁舎として1925(大正15)年に大林組によって建設された。遠藤於菟の設計による鉄筋コンクリート地下1階地上4階建ての建物であった。高層建築の横浜第二合同庁舎の建築のために解体されたが、歴史的建造物としての保存が決まり、以前の外観が復元・保存されている。正面の蚕をかたどったレリーフがユニーク。なお、裏には同時期の建築物である帝蚕倉庫事務所があり貴重。
日本郵船ビル
1936(昭和11)年に建てられた。この建物の特徴はファサード(建築物の正面の外観のことで、道路側から見たときの建物の外観のことをいい、その建物のもっとも見せ場となる「顔」ともいえる部分で、建築デザインの面ではとても重要な要素)は16本の高い円柱が1,2階を通して立っているところにあり、古典主義建築様式の特徴を備えている。この柱列のことを建築用語でコロネードと呼んでいる。コロネードは偶数で、よく知られているギリシャのパルテノン神殿は八柱式。郵船ビルの円柱にはその頭部に装飾が施されている。これは アカンサスの葉(和名はハアザミ)を形どったもので、柱頭にこのような装飾のあるものをコリント式と呼んでいる。
旧横浜銀行本店
 旧第一銀行横浜支店であり、1929(昭和4)年に西村好時(第一銀行建築課長)の設計で建設されたが、その後日本債券信用銀行を経て横浜銀行本店となった。三角形の地形をうまく利用してデザインされ、トスカナ式である半円形のコロネード(柱廊)が特徴である。現在目にすることができるのは本店建物のバルコニー部分だけであり、しかも地区再開発のためもともとあったところから120メートルほどみなとみらい寄りに移動されている。
旧安田銀行横浜支店
 1929(昭和4)年に完成した建物で、設計は安田銀行営繕課である。全国的に同じ様式を持つ旧安田銀行系の銀行建築のひとつ。トスカナ式のルスティカ積みの外壁、トスカナ式オーダーの付柱が特徴である。戦後、安田銀行は財閥解体により名称を変更し、「富士銀行」となった。現在は横浜市が所有し、東京藝術大学映像学科大学院が置かれている。
馬車道
 県立歴史博物館の前の通りを馬車道という。この道路は、1866(慶応2)年の大火(別名豚屋火事)の後、諸外国人の要求でフランス公使館(現横浜第2合同庁舎に所在)から吉田橋までの直線道路としてつくられ、関内をとりまく環状道路として計画された。馬車は当初、外国人専用の乗り物とされ1865年にランガン商会が貸馬業を開業し、1866年秋にはサザランド商会が馬車会社を開始、1872(明治2)年にカブ商会と改称し営業を行っている。コブ商会は、横浜と築地間に午前と午後の2回定期便を出し料金は2ドル、所要時間は2時間であった。また広告によると「馬車数十輌」を備え、江ノ島・鎌倉・小田原・箱根・伊豆へも運行したようである。この乗合馬車を日本人として初めて開業されたのが成駒屋であった。この乗合馬車は、吉田橋の脇から発着し、都橋・野毛山・戸部・平沼を経由し日本橋へ、定員6名、料金は3分、所要時間は4時間であった。しかし鉄道の開業、人力車の普及によって乗合馬車は経営不振となり廃業に追い込まれた。
旧横浜正金銀行本店
 現在の県立歴史博物館はかって横浜正金銀行本店であった。建物は、石造、地下1階、地上3階建て、ドイツ・ルネッサンス様式で横浜を代表する洋風建築のひとつである。建物は妻木頼黄(よりなか)の設計であり、1904(明治37)年に完成した。
 大正12年の関東大震災で屋上のドームを焼失したが、建物本体は災害を免れた。変形八角形の屋上のドームは1967(昭和42)年に県立歴史博物館として建物が再出発する際に復元された。
 明治初め頃の貿易は居留地の外国商人に握られ、輸出入は彼らの手をすべて通さなければならなかった。また外国為替の取り扱いも外国の銀行に独占されていた。そこで貿易の主導権を握るため横浜正金銀行は明治12年に国立銀行条例に基づいて設立され、さらに明治20年には「横浜正金銀行条例」が制定され、外国為替銀行となった。まさに横浜正金銀行の設立は、正貨の円滑な供給によって日本商人の貿易の便を図り、貿易・金融の実験を日本の手に移そうという意図から行われた。同銀行は日露戦争に際しては外債の募集に努め、その後満州における中心的な金融機関となった。戦後はGHQの政策に従って普通銀行に改組し、東京銀行となった。
旧第百銀行横浜支店
 1934(昭和9)年に建設された。銀行としては最後に東京三菱銀行に使用され、現在はマンションの一部として再活用されている。横浜で多くの作品を手がけた矢部又吉の設計である。
横浜銀行協会
 1936(昭和11)年完成の建物。建物の前身は、1894(明治27)年創立の「横浜銀行集会所」で、この建物は4代目である。戦後、米軍の将校クラブとなり、8年後銀行の親睦の場「横浜銀行協会」となった。設計は、国会議事堂を建設した大熊義邦と横浜高等工業建築家科の教員であった林豪蔵。横浜にあるアールデコ建築の傑作で、正面の柱や車寄せの斬新さ、テラコッタの野装飾などなどに一見の値があるといわれている。なお4階は昭和40年の増築である。
横浜税関
 横浜税関は1934(昭和9)年に竣工した、県庁の地にかつて置かれた神奈川運上所から数えて5代目となる建物。設計時、47メートルだった塔を、金子隆三税関長が国の建物だから県庁より高くと3メートル高い52メートルにしたという。戦後は1953(昭和28)年まで、GHQの司令部になっていた。
横浜市開港記念会館
 横浜市開港記念館会館は、横浜開港50周年を記念して、1914(大正3)9月に着工し、1917(大正6)年7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」として開館。建物は、市民の寄付金で建てられ、赤煉瓦の高い時計台と共に内部の古典的デザインは長く市民に親しまれている。1923(大正12)年の関東大震災によって一部が焼失したが、1927(昭和2)年と1989(平成元)年に復旧工事が行われ、現在では創建時の姿に復元されている。
神奈川県庁、神奈川運上所跡
 現在の神奈川県庁本庁舎は、4代目の庁舎で鉄筋5階建て・地下1階の建物で、1928(昭和3)年に竣工した。赤坂迎賓館の設計者である片山東熊の手による三代目の庁舎は、関東大震災による火災で倒壊、周囲からの火に飲まれて類焼した。修復という道もあったが、幾多の議論の末に、結局、新庁舎建設の公開設計競技(コンペ)を行って、建て替えることにした。そのコンペの一等に入選したのが、小尾嘉郎の案であり、建物の外観や基本的なプランはここで決まったという。外観は、日本の城の天守閣の様な塔屋を中央に載せているのが特徴で、この様な建物を帝冠様式という。
 神奈川運上所は、幕末の横浜開港に伴い、神奈川奉行に属する関税と外交事務を扱う機関として現在の神奈川県庁敷地内に置かれた。しかし、設置後の1866(慶応2)年に類焼した。そして、翌年に新築し、横浜役所と改称した。その後、1868(明治元)年に新政府に移管され、1872(明治5)年横浜税関になった。
横浜開港資料館
 ここは日米和親条約の締結(安政元年、1854)の場所とされ、中庭にある楠の木が、日米和親条約締結図に描かれた「玉楠の木」だという。ただし日米和親条約の際の「玉楠の木」は関東大震災で幹の部分を焼失し、残った根から新たに芽が出て現在のものだという。
 ここはその後、英国総領事館となった。これは昭和6年(1931)に建てられたもので、1階中央の記念ホールは旧英国総領事館時代の待合室だという。現在は来館者の休憩室として使われている。
 横浜開港資料館は、昭和56年(1981)6月2日の開港記念日に開設された。日本の開国と横浜の開港をめぐる内外の歴史資料を集め、広く展示・公開し、世代間の交流と市民相互のふれあいを高めることを目的としている。
展示は、まず@「横浜開港への道」として、ペリー来航とその前後の世界情勢や日本、そして横浜の様子を紹介し、A「街は語る−開化ヨコハマ−」として、欧米文化が摂取される窓口となった文明開化期の横浜を紹介している。その他、年4回実施される企画展示室がある。
日米和親条約締結の碑
 1853(嘉永6)年7月、ペリーが率いるアメリカ東インド艦隊の4隻の軍艦が三浦半島沖に現れ開国要求の国書を手渡した。翌年2月、ペリーは再び来航した。ぺリーは江戸湾奥まで侵入し、開国に関する会談が久良岐郡横浜村の現神奈川県庁付近で行われた。1854(安政元)年3月31日、日米和親条約が調印された。開港広場にある条約締結の碑は広場の工事によって何度も場所を移動している。
象の鼻
 大桟橋のたもとから伸びている小さな波止場が通称「象の鼻」である。これは1867(慶応3)年3月に湾曲構造の波止場としてイギリス人土木技術者ウィットフィールドとドーソンが設計したと言われる。当時の桟橋は大型船が直接接岸できるようには出来ておらず、沖合から荷物を小舟に積んで陸揚げをしていた。その際、小舟が風波の影響を受けずに陸揚げ出来るように湾曲させたようだ。関東大震災で一部が崩壊したこともあったが、慶応期の波止場の位置を示すものとして貴重である。現在、付近の再開発計画が立てられている。
大桟橋
 安政6年の開港時には、2つの小さな突堤があっただけであったが、内務省は1889(明治22)年、神奈川県庁に横浜築港掛を置き、横浜港修築第1期工事に着手した。イギリス人技師パーマーを設計にあたらせ、1894(明治27)年に460メートルほどの長さの鉄さん橋が完成した。現在の大桟橋の前身である。これにより接岸係船ができ、従来のはしけによる荷の積卸形態を大きく替えた。以後、関東大震災による被害と復興、戦後の米軍による接収などを経ながら、幾たびかの改修を重ねてきた。
 1975(昭和50)年には有名なイギリス客船「クイーン・エリザベス2」が入港、停泊中の三日間に50万人以上の見学者が訪れた。
 その老朽化のため、平成になって新たな桟橋の建築が進められた。2000(平成12)年にターミナル新築工事が始まり、2002(平成14)年6月、現在の客船ターミナルが完成した。デザインは、国際建築コンペで最優秀作品に選ばれたスペインの設計者、アレハンドロ・ザエラ・ポロと、彼の夫人ファルシド・ムサビ(英国在住)のもの。
 なおこれに伴い、大桟橋埠頭は、下に海水が流れる桟橋形式ではなくなっている。
英一番館
 通商条約(日米修好通商条約など安政の五ヶ国条約)によって、横浜は1859年7月1日(安政6年6月2日)に開港した。外国公使らは幕府による「出島化」の意図を疑い、条文通りの神奈川開港を主張。しかし寒村だった横浜が整地され、日本人商人の横浜出店が準備されていくと、外国商人らが率先して用意された外国人居住区に移り住むようになった。
この居留地1番地にはイギリスのジャーデン・マセソン商会の店舗が建てられた。既に中国貿易で莫大な利益を上げており、横浜への進出は日本の安価で良質な生糸を求めてのことだった。設立は1832年、広東でスコットランド人のジャーデンとマセソンによる。アヘン戦争後、拠点を香港に移し、上海やアモイにも支店が置かれた。横浜の責任者には、ウィリアム・ケズウィック(のち香港本店の最高責任者)とJ・S・バーバー(のち独立)の二人が派遣されて活躍した。長州藩の伊藤博文・井上馨らのイギリス密航をグラバー商会に仲介したのが当社であった。
 現在、跡地にはシルクセンターがあり、絹の生産・利用から貿易に関する展示を行うシルク博物館や生糸・乾繭の先物取引を行う横浜商品取引所が入っている。
山下公園
山下公園は1930年3月15日、日本初の本格的な臨海公園として開園した。元は2本の突堤が突き出たフランス波止場と呼ばれた場所。現在の花壇がある付近らしい。その周辺が、1923年9月1日の関東大震災の後、10月に出された横浜市による「焼跡土石処分ニ関スル件」に基づいて、始末に困っていた震災で崩壊した建物などの瓦礫で埋め立てられることとなった。1935年には復興記念横浜大博覧会が開催され、約2ヶ月の期間中、来場者が322万人にも達したという。生きた鯨を生け簀で泳がして展示するというのが目玉だったらしいが、捕らえてきてもすぐに死んでしまったりで、計画倒れだったようだ。
インド水塔
 この「インド水塔」は、昭和14年12月に完工したインド式水飲場です。これは関東大震災で被災した在留インド人が横浜市民から受けた援助に感謝して、当時の横浜インド商組合から横浜市に寄贈されたものです。
1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生した。震災によって横浜にいた多くの外国人が避難のために神戸に移住した。そのまま横浜には帰ってこないのではないかと危ぶまれてもいた。そんな折、日本絹業協会が横浜市から20万円の借款を得て、山下町の焼け跡に1戸約80坪の木造モルタル2階建ての家屋を建造し、インド商社の復帰を促したのである。後に大蔵省からも50万円の助成を受け、1926(昭和元)年までに計24戸を建造した。インド商社にだけ、このような特別な対応をしたのは、欧米商社に比べ、売買手続が簡単で売り込み商にとって、より親しみやすい相手だったためという。
赤い靴の少女像
 童謡「赤い靴」が児童雑誌『小学女生』に発表されたのは1921(大正10)年12月だった。作詞・野口雨情、作曲・本居長世という、「青い目の人形」と同じコンビによる。雨情は茨城県の旧家船問屋の長男に生まれ、東京専門学校高等予科(のち早稲田大学)を1年余で退学。流寓の生活の中で童謡作家としての地歩を固めたという。長世は国学者本居宣長5代の後胤で、東京音楽学校器楽科出身。雨情らの新童謡運動に共鳴し、雨情とのコンビによる名曲を残した。 作品の背景には大正期にピークに達した、アメリカ大陸への移民ブームがあったと考えられるという。1978年に発見された草稿には、5節目が書かれていた。
   生まれた日本が 恋しくば 青い海眺めて ゐるんだらう
   異人さんにたのんで 帰って来
 山下公園内の童謡顕彰像「赤い靴はいてた女の子」の像は1979年11月11日に建立された。1976年夏からの「童謡・赤い靴を愛する市民の会」を中心とした市民運動による。像の制作には藤沢市の彫刻家山本正道が当たった。
氷川丸
 1930(昭和5)年竣工。日本郵船の客船。埼玉県大宮の武蔵一ノ宮、氷川神社より命名。横浜市指定有形文化財。同型の姉妹船として日枝丸・平安丸がある。処女航海はシアトル。優美な船型、豪華な内装、一流のシェフの料理、最高級のもてなしで「北太平洋の女王」と呼ばれた。1932年にはアメリカ航路に喜劇王チャールズ・チャップリンが乗船し、好物の天ぷらを楽しんだという。
 第二次世界大戦が始まると海軍に徴用され病院船とされたが、同じく輸送船とされた日枝丸・平安丸が沈没したのに対し、氷川丸は幸い生き残ることができた。
 敗戦後は一時復員船となり、その後改装工事が行われ、1953年には客船として再デビューした。太平洋航路でフルブライト留学生、宝塚歌劇団などが乗船した。北太平洋横断回数238回。運んだ乗客は延べ25,000人余であった。1960年引退。マリンタワーとともに横浜のシンボルとなる。

4.参考情報

明治時代の横浜港を知るには、以下に挙げる参考文献も参照されたい。