京浜歴史科学研究会 歴史を歩く会 2005年秋
幕末の上野を歩く

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説
4.参考情報


1.実施要綱

【日時】 11月13日(日)(雨天順延 11月20日<日>)
 *実施の問い合わせは当日午前6〜7時までに事務局へ
【集合】 JR上野駅「不忍改札口」前 午前10時
【コース】 JR上野駅「不忍口改札」(集合)
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上野公園
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 忠魂碑
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 西郷隆盛像
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 彰義隊戦死者の墓
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 天海僧正毛髪塔
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 王仁博士碑
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 清水観音堂
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 大仏パゴダ
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 東照宮
  おばけ灯籠、石造明神鳥居、青銅灯籠、唐門、拝殿、旧寛永寺五重塔
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 グラント将軍植樹碑
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 小松宮銅像
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 根本中堂跡
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 ボードウィン博士像(昼食)
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東京国立博物館
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両大師
 青銅灯籠、寛永寺旧本坊表門
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現龍院墓地
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常憲院霊廟
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寛永寺
 本堂、上野戦争碑
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谷中墓地
 渋沢栄一馬場辰猪本居豊穎・長世津田真道重野安繹
 大原重徳徳川慶喜鳩山一郎横山大観小野梓
 田中芳男伊達宗城天王寺五重塔跡
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(解散)
【参加費】 1000円(東照宮拝観料・資料代)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

上野公園関係年表

西暦 和暦 記事
1625年 寛永2年11月 東叡山寛永寺建立
1627年 寛永4年    上野に東照権現を祀る
1631年 寛永8年    清水観音堂・大仏・お化け燈籠の建立
1637年 寛永14年   寛永寺で大蔵経の印刷、1648年完成
1639年 寛永16年   寛永寺五重塔の再建
1647年 正保4年    尊敬法親王が日光山門主として東下
1651年 慶安4年    東照宮の社殿完成
1654年 承応3年    尊敬法親王が寛永寺に移る、輪王寺宮となる
1666年 寛文6     寛永寺に時の鐘が設けられる
1698年 元禄11年9月 寛永寺根本中堂が建立、三日後に焼失
1709年 宝永6年    5代将軍綱吉霊廟の造営、寛永寺大慈院の建立
1868年 慶応4年2月  彰義隊が上野周辺に駐屯
1868年 慶応4年5月  上野戦争、上野・下谷などが焼ける
1873年 明治6年5月  寛永寺などの境内を公園に指定
1867年 明治9年5月  上野公園開園
1877年 明治10年8月 第1回内国勧業博覧会が上野公園で開催
1879年 明治12年   アメリカ大統領グラント、上野公園に来園
1881年 明治14年   帝室博物館ができる
1882年 明治15年3月 動物園ができる
1889年 明治22年2月 東京美術学校ができる
1898年 明治31年   西郷隆盛像の除幕式
1912年 明治45年   小松宮像完成
1920年 大正9年    上野公園で第1回メーデー開催
1923年 大正12年   関東大震災
1967年 昭和42年   大仏パコダ完成
1973年 昭和48年   上野公園開園百年を記念してボードウィン像完成

上野寛永寺

 現在の上野公園はほとんどが江戸時代は寛永寺の寺域であった。徳川家康の意向を受けて寛永寺創建に着手したのが僧天海であった。上野の地は、江戸城の鬼門(東北)にあたり そこに幕府鎮護の寺院を建立することにしたのである。江戸をそれまでの都である京都になぞらえ、京都御所の鬼門にあたる比叡山を上野に見立て、また琵琶湖に不忍池を見立てる。 そのことで天台宗総本山延暦寺と対抗できる関東の天台宗本山寛永寺を造営することを天海は図ったのである。1623(寛永2)年、東叡山寛永寺と命名され、幕府の祈祷寺としての 特権が与えられた。
 寛永寺の寺域は36万坪(約120万平方メートル)といわれ、現在の上野公園の倍近くになる。堂宇の数は最大で32,子院は36坊ほどあった。元禄年間からは庶民にも寺域は開放 され、奈良の吉野山から植林した桜の名所として江戸の人々を楽しませた。
 天海は、比叡山の宮門跡に対抗するため寛永寺にも宮門跡を設けようと考えた。門跡とは元来は法統を継ぐ寺院の主たる僧のことであったが、次第に皇族・公家などが出家して代々 入寺する寺院の寺格を示す称号となった。江戸時代からは親王の居住をする「宮門跡」、摂家の子弟の居住する「摂家門跡」、清華家出身の住職寺院を「准門跡」と呼ぶようになった。 しかし後水尾上皇の反対のため天海の思惑は実現しなかった。その後、1647(正保4)年、後水尾上皇第三皇子の守澄法親王が関東の宮門跡として江戸に下り、日光東照宮と上野 両門主を兼帯した。当時、寛永寺の住職が輪王寺宮であり、東叡山御門主とも呼ばれ、この形態は幕末の第15代公現法親王まで続いた。

上野戦争

 彰義隊は徳川慶喜につかえた渋沢喜作・天野八郎ら旧幕臣が中心となって結成。ちなみに「彰義」とは将軍の腰掛(床几)のことである。当初は浅草本願寺を屯所としたが、のちに謹慎中の慶喜の護衛を名目に上野に移動した。4月11日に江戸開城が行われたが、これ以後関東地方では江戸を脱走した旧幕臣や反政府的な諸藩脱走武士などが反政府的な抵抗戦をくりひろげた。その中で彰義隊は解散命令に服さず、輪王寺宮公現入道親王(1847〜1895、後の北白川宮能久親王)への京都召還命令も拒否し、しばしば政府軍兵士と衝突していた。5月15日、軍務官判事大村益次郎の作戦計画により、薩摩藩は黒門口から、長州藩は本郷団子坂方面から一斉に進撃し、わずか一日で彰義隊は壊滅した。輪王寺宮は上野を脱し、のち奥羽越列藩同盟の盟主となった。
 彰義隊関連年表はこちら。

3.見学ポイントの解説

上野公園
 もともとは寛永寺の境内であったが、上野戦争のために多くの堂塔は焼失し境内への立入は禁止された。1873(明治6)年、寛永寺境内(上野公園)、増上寺(芝公園)、富岡八幡宮(深川公園)、飛鳥山(飛鳥山公園)の5公園を開園した。また内務省の提案で第1回内国勧業博覧会(1877年)が上野公園で開催され、以後、殖産興業政策にそって各種の博覧会・共進会が開催され、それにともなって公園施設も整備されていった。
忠魂碑
 日露戦争における下谷区在住の戦死・戦没者約二百名の名が記された慰霊碑。碑文は乃木希典の筆。
西郷隆盛像
 西郷隆盛(1827〜1877)は、明治維新の時に倒幕の作戦を指揮するなど上野とは因縁の深い人物である。明治時代になり征韓論を契機に岩倉具視や大久保利通と対立し下野。 故郷の鹿児島で西南戦争を起こし敗れて自決した。1889(明治22)年に憲法発布の特赦により賊軍の汚名は免じられた。銅像は皇居前広場に建てる予定もあったが、上野公園に建 てられた。高さは台の高さと同じ3.71メートル。像は高村光雲が、犬は後藤貞行が製作。1898年12月18日に除幕された。この時、招待された隆盛の妻のイトさんは、「うちの人はこ んな野卑な顔ばしていなか」「大勢さまの前で野良着を着て草鞋履きでいるなんて失礼なことは絶対しなかった」と言ったというエピソードがある。
彰義隊戦死者の墓
 上野戦争後、隊士の死体は放置されたままであった。それを見た南千住円通寺の住職仏磨和尚の嘆願と、侠客三河屋幸三郎の働きで、死体を上野山王台で荼毘にし遺骨を円通寺に葬った。
 現在、「戦死者之墓」とある大石は山岡鉄舟の手になるもので、その前の小石が最初に建った碑である。小碑には「慶応戊辰五月十五日彰義隊戦死之墓 発願回向主沙門松国」と ある。松国とは、寛永寺の塔頭寒松院住職の多田孝泉、護国院の清水谷慶順の二名がそれぞれの寺号から一字づつ持ち寄った匿名で、明治政府に気をつかったのであろう。
天海僧正毛髪塔
 天海(1536〜1643)は会津の人。天台宗の僧で南光坊と称した。延暦寺・園城寺・興福寺などで修行し、川越の喜多院に入る。関ヶ原の戦い以後、徳川家康の帰依を受け、延暦寺 の再興などを図った。家康の死に際しては遺体を日光山に改葬し、権現号の勅許を実現した。「黒衣の宰相」と呼ばれ二代秀忠将軍・三代家光まで政治上の影響力をもったという。162 5(寛永2)年に寛永寺を創建、その開山となった。また大蔵経の刊行という文化行事を行い、天海版と呼ばれている。天海の遺体は日光山に埋葬されたが、碑の下に天海の毛髪が納 められているという。この地は寛永寺発祥の地の本覚院跡である。
王仁博士碑
 王仁は応神天皇の時代に朝鮮(百済)より渡来し、『論語』十巻・『千字文』一巻をもたらしたとされ、古くから学問の祖として崇拝された。江戸幕府は1630(寛永7)年、上野忍岡に林 羅山に命じ私塾兼学問所を設けた。これはのちに昌平坂学問所となり幕府官学(朱子学)の教育所となった。そうした学問の地縁により碑は1940(昭和15)年に建てられた。
清水観音堂
 もともとは林羅山の学問所があったが、学問所が湯島に移ったためそれまで摺鉢山にあった観音堂が移築されたと言われている。清水観音堂は天海が京都の清水寺を模して1631 (寛永8)年に建立した。上野に現存する最も古い建造物である。本堂は単層入母屋造、壁面は赤塗りで、正面の舞台からは不忍池が見下ろせる。本尊の千手観音像は、恵心僧都(源 信)(942〜1017)作と伝えられ、京都清水寺から将軍家光に献上されたものである。
大仏パゴダ
 摺鉢山と相対した山の上に巨大な大仏の頭が残されている。1631(寛永8)年、越後村上城主の堀直寄が丈六(約4.8メートル)の粘土製の大仏を造った。その後、地震で首が落ちたが再建され、元禄年間には輪王寺宮公弁法親王によって大仏殿も建てられた。その後も地震などの天災のたびに復興されたが、1923(大正12)年の関東大震災で首が落ち、公園整備のため大仏は取り払われた。しかし大仏復興は地元の人たちの念願であり、大仏の頭だけが壁面に保存されている。1967(昭和42)年に白亜の仏塔パゴダが建立され、内部に明治の神仏分離で取り壊された薬師堂にあった薬師如来像・月光菩薩像・日光菩薩像が安置された。
上野東照宮
 藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を1627(寛永4)年に造営した。これが上野東照宮の創建と言われる。現代の社殿は1651(慶安4) 年に三代将軍家光が大規模に造り替えたもの。社殿の構造は、手前から拝殿、幣殿、本殿からなり、この様式を権現造りという。拝殿正面には「東照宮」と大書した後水尾天皇の勅額 がある。拝殿内天井絵の「唐獅子」は狩野探幽筆。本殿は日本に一つしかない金箔の唐門(唐破風造りの四脚門)で扉は梅の亀甲の透彫り、門柱には左甚五郎作昇龍(右)降龍(左) 高彫。門の側面左右上部に松梅に錦鶏の透彫で実に豪華な造りである。
 参道には280基の石灯篭、50基の銅灯篭が並んでいる。銅燈籠は神事・法会をするときの浄火を目的とするもの。これらの銅燈籠も東照宮社殿とともに、1965年、国の重要文化財 に指定された。
 なお、鳥居から南に少し外れた丘の上には、1631(寛永8)年に佐久間大膳亮勝之によって寄進された高さ6.8mのお化け灯篭がある。これは京都南禅寺、名古屋熱田神宮のそれ と合わせて日本三大灯篭に数えられている。
旧寛永寺五重塔
 現在は上野動物園の中にある。1631(寛永8)年、土井利勝(1573〜1644)によって寛永寺に寄進された。しかし1639年3月に火災によって焼失。同年直ちに再建したものが現 在の塔である。塔は五層で、高さは塔上の九輪まで36.36メートル。初層には四方四仏(東:薬師、西:阿弥陀、北:釈迦、南:弥勒)が安置されている。土井利勝は、秀忠に側近として 仕えその第一人者となる。1633年に古河に移封し、家光にも重用された。
グラント将軍
 Ulysses Simpson Grant, 1822年4月27日 〜1885年7月23日。南北戦争で北軍を最終的な勝利に導く。終戦後の1868年、共和党大統領候補に指名され当選。2期8年 の在任後、1877年5月17日、妻子を伴い世界周遊の旅に出た。
 1879(明治12)年7月3日、横浜に到着。翌4日、アメリカの独立記念日を期して明治天皇に謁見。7日、明治天皇と閲兵式臨場。閲兵の後、芝離宮で明治天皇と歓談した。近代日本 にとっては初の元首級の国賓となった。碑は1929(昭和4)年に渋沢栄一・益田孝などによって建てられた。
小松宮彰仁親王
 彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。1846年1月16日〜1903年2月18日。兄には、香淳皇后の祖父・久邇宮朝彦親王、弟には北白川宮能久親王(日清戦争出征、台湾で戦病 死)、日中戦争期の参謀総長・閑院宮載仁親王がいる。東伏見宮として鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督になり戊辰戦争に従軍。1885(明治 18)年、東伏見宮を小松宮に改称。1891年近衛師団長。1895年から1898年まで参謀総長。また1877年、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されるとその総長に就 任、これが1889年、日本赤十字社と改称、初代総裁となる。
 銅像は1912年3月、除幕式挙行。作者は文展審査員の大熊氏廣。
根本中堂跡
 現在の噴水のあたりが寛永寺の本堂根本中堂が建っていた場所である。5代将軍綱吉の命令で1698(元禄11)年に完成した。材木は豪商紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門が用立てたという。間口153尺8寸(約46メートル)、奥行116尺9寸(約35メートル)、高さ116尺(約34.8メートル)という巨大な建造物である。現在の寛永寺本堂に掲げてある「瑠璃殿」という額は、根本中堂の遺品で霊元上皇の筆である。瑠璃殿は中堂の別称で、本尊の薬師如来を薬師瑠璃光如来ともいったことによる。上野戦争によって根本中堂は焼失した。
 またこのあたりは「竹の台」と言い、内国勧業博覧会の会場や日本最初のメーデー会場(1920年)となった場所である。
ボードウィン博士
 Anthonius Franciscus Bauduin(1822〜1885、在日期間1862−1866,1867,1869−1870)
 オランダ人医師。幕末から明治初期にかけて三度来日し、長崎、大坂、東京で診療や医学教育に携わり、現在の長崎大学・大阪大学・東京大学の医学部の創設に尽力し、多くの日 本人医師を育てる。東京滞在中、病院建設予定地となっていた上野寛永寺跡を公園にするように提言する。その後、明治政府がドイツ式医学を採用したため、オランダ医学は日本から 廃された。
 この像は1973年、上野公園100周年を記念して建てられたものである。また2000年には大坂滞在中住んでいた日蓮宗法性寺に顕彰碑が建てられた。
*「人違い説」
 この像は実はボードウィン本人ではないという説がある。写真をモデルに製作されたのであるが、彼の弟のアルベルト(Albertus Johannes Bauduin、1864長崎領事、1867神 戸領事)と取り違えた可能性が指摘されている。
*年譜
1862(文久2)年
 弟アルベルト・ボードウィンの薦めで来日し、長崎の養生所教頭(長崎大学医学部の前身)となる。
1866(慶応2)年
 大坂で十四代将軍徳川家茂の診察をすることになったが、大坂到着の朝、家茂が死去したため実現しなかった。江戸に赴き、幕府に医学校と理学校建設の提言を行う。
1867年
 再来日。緒方惟準(洪庵次男)と松本鑑太郎(良順の息)を伴って帰国する。
1869年(明治2)年
 再来日。緒方惟準を院長として大阪府仮病院(大阪大学医学部の前身)が発足。医学校教頭ボードウィン講義。
1870年
 大学東校(東京大学医学部の前身)で2ヶ月間講義する。
*明治12年、東京日本橋で出版業者太田信義が官許を得て胃の薬の販売を開始した。太田が大阪滞在中に診療を受けていた緒方拙斉(洪庵の娘婿)の処方を譲り受けたもので、ボ ードウィンの英国処方(原料が英国本土および英国植民地産)によるものであったという。これが「太田胃散」である。
東京国立博物館
 わが国最初の博物館。1872(明治5)年に湯島聖堂の大成殿に文部省博覧会の名称で設けられた。1881年寛永寺本坊跡に、ジョサイア・コンドルの設計によるレンガ造り2階建て の上野博物館が完成し、そこに移された。1900年帝室博物館と改称され、1908年には皇太子(大正天皇)成婚記念として本館の表慶館が完成した。
 1923(大正12)年の関東大震災で本館は失われ、1937(昭和12)年に帝冠様式の現在の本館が完成した。懸賞競技設計による渡辺仁の作品である。現在は本館以外に東洋館、 平成館、表慶館、法隆寺宝物館、資料館からなる。
 正門の西には、旧因州池田屋敷表門(国重文)がある。江戸城内大名小路(千代田区)にあった、鳥取32万石の大名池田家の上屋敷の門で、江戸時代末期の武家屋敷の遺構である。
両大師
 平安中期の天台座主良源(慈恵大師)をまつる慈恵堂を移した現在の本堂と寛永寺の開山天海(慈眼大師)をまつる開山堂があるところから、両大師と呼ばれている。1644(正保元 )年建造の奥の院には、木造天海僧正坐像が安置されている。境内の青銅灯籠と山門横の銅鐘は、ともに大猷院(家光)霊廟に奉納されたものである。両大師堂の東側の黒塗り山門 は、寛永寺旧本坊表門が移建されたもので、かつては東京国立博物館の正門の位置にあり、博物館の表門として使われていたことがある。上野戦争で奇跡的に焼け残ったもので、弾 痕が数多く見られる。
慰霊碑哀しみの東京大空襲
 2005年3月9日、除幕式挙行。1945年3月10日の東京大空襲で体験した悲しみを風化させないようにと、落語家の故林家三平の夫人海老名香葉子さんが建立した。書は稲村雲洞氏 による。房総半島方面から飛来した325機のB29により、午前12時8分から約2時間にわたり、1700トンの高性能焼夷弾が投下され、10万人以上が犠牲となった。遺体はこの上野 の山にも運ばれ、身元不明者も仮埋葬され、2年後、本所横網町の震災記念堂に祀られたという。
現龍院墓地
 現龍院墓地には、1651(慶安4)年に亡くなった家光に殉死した3人の大名、阿部重次(武蔵岩槻)・堀田正盛(下総佐倉)・内田正信(下野鹿沼)と旗本三枝守恵らの墓がある。この 殉死を機に、1663(寛文3)年には保科正之(家光の弟、会津松平家始祖)の献言により殉死が禁止されている。
常憲院霊廟
 5代将軍綱吉の霊廟。1709(宝永6)年造営。8代吉宗(有徳院)、13代家定(温恭院)を合祀。残念ながら惣門から奧へは許可がないと入られない。
 徳川綱吉(1646〜1709)は3代将軍家光の四男。上野国館林に15万石を領したが、4代家綱の養子となり、将軍職を継ぐ。元禄期は側用人柳沢吉保を重用し、生類憐みの令を出 すなど、悪政を行ったとされる。
 徳川家歴代将軍霊廟はこちら。
寛永寺
 天台宗。1625(寛永2)年、徳川幕府によって創建された本坊円頓院に始まる。開山は家康に仕えた南光坊天海。住持職を勤めていた川越の喜多院の山号を移して東叡山と号す。 幕府は1622(元和8)年、この忍岡の地にあった伊勢津城主藤堂高虎、越後村上城主堀直寄、陸奥弘前城主津軽信枚の屋敷と上野村を収公して、天海に寄進している。老中土井利 勝が総奉行に任命され、いわゆる天下普請で竣工された。寛永3年、藤堂高虎による東照宮が建てられて以後、周囲に諸侯らによる諸堂が建立される。芝の増上寺と共に徳川将軍家 の菩提寺となる。
 1647(正保4)年、後水尾天皇の皇子尊敬法親王が日光山門主として東下し、1654(承応3)年に寛永寺に移り、やがて天台座主となり輪王寺宮号を与えられている。以後、輪王寺 宮は東叡山寛永寺と日光山輪王寺を管轄することとなる。
 現在の地には、1709(宝永6)年に大慈院が建立されて、子院36坊が完成した。この大慈院には、鳥羽伏見の戦いで敗れて帰ってきた慶喜が謹慎した「葵の間」が現存する。本堂は、上野戦争でほとんどの伽藍が焼失した跡に、喜多院の本地堂を1879(明治12)年に移建したものという。境内には上野戦争碑などが建つ。
谷中霊園
 谷中霊園は、天王寺霊園、東京都谷中霊園、谷中寛永寺墓地の総称である。天王寺は、もとは日蓮宗の感応寺と称していたが1699(元禄12)年に天台宗に改宗し寛永寺の末寺と なった。享保年間に富くじ興行の許可を得てにぎわいを見せた。上野戦争では彰義隊の分営となり本堂と五重塔を残して他の堂宇は焼失した。1874(明治7)年、寺域のほとんどが東京府の共同墓地となり、1935(昭和10)年に谷中霊園と改められた。
渋沢栄一
 埼玉県の生まれ。1840〜1931年。初め尊攘運動に加わったが、途中で考えを変えて幕府に仕えた。明治維新後は大蔵省に出仕したが、73年辞職し、退官後は実業界を指導。金融、各種産業の確 立に尽力した。彼が名を連ねた会社は500余におよんだという。1916年には実業界を引退、以後広く社会公共事業に尽力した。
馬場辰猪・孤蝶
 辰猪は高知県出身。1850(嘉永3)年〜1880(明治21)年。慶応義塾に学び、1870年イギリスの留学。帰国後、自由党幹部として活躍したが、板垣退助の洋行に反対して離党。「 自由新聞」「朝野新聞」などを通して自由民権思想の紹介・普及などの活動を行う。86年に渡米。アメリカ紙で日本の藩閥政府批判を展開したが、フィラデルフィラで客死した。
 孤蝶は辰猪の弟。1869(明治2)〜1940(昭和15)年。高知県出身。英文学者。明治学院において島崎藤村・北村透谷などと親交。その縁で「文学界」同人となり、詩・小説・評論な どを書いた。トルストイの『戦争と平和』その他を翻訳し、著書としては『明治文壇回顧』『明治文壇の人々』などがある。
本居豊穎・長世
 豊穎は本居宣長の養子・大平の孫。1834(天保5)年4月28日〜1913(大正2)年2月15日。大平は、宣長の子・春庭が若くして失明したことにより養子となり家督を譲られる。豊穎 も紀州藩の江戸古学館教授となり、維新後は明治天皇に仕え東宮侍講、神祇官、教部省などの官職を歴任。さらに東京帝大や国学院の講師を兼ね、国学と和歌の振興に尽力。
 長世は、豊穎の孫。1885(明治18)年4月4日 〜1945(昭和20)年10月14日。作曲家。1907年東京音楽学校本科を首席卒業。同期に山田耕筰がいた。宮城道雄らと新日本音 楽運動を興し、民謡興隆に力を尽くし、また山田耕筰や中山晋平らとともに童謡運動に参加。『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』等。
津田真道
 幕末・明治期の洋学者、官僚。1829(文政12)〜1903(明治36)年。蘭学を学び、1857(安政4)年に蕃書調所教官となる。1862(文久2)年、西周・榎本武揚らとオランダに留学 。維新後は明治政府に仕え、1873(明治6)年に明六社に参加して啓蒙活動を展開する。その後、元老院議官、第1回衆議院副議長などを歴任。日本で最初の法律書『泰西国法論』を 出す。
重野安繹
 歴史家、漢学者。鹿児島生。1827(文政10)年10月6日〜1910(明治43)年12月6日。1864(元治元)年、造士館助教となり、島津久光の命で『皇朝世鑑』の編纂 にあたる。維新後は上京し、修史局、修史館で修史事業に携わる。1879年東京学士会院会員に当選。1881年、編修副長官となり『大日本編年史』の編纂を行う。史料による実証を 重んじ、考証史学を推進した。1886年臨時修史局設置に伴い編修長となる。1889年、史学会を創設し、初代会長。翌年貴族院勅選議員となる。門人岩崎弥之助のために静嘉堂文 庫創設に尽力。
大原重徳
 堂上公家(羽林家)、幕末の宮中政治家。1801(享和元)年11月21日〜1879(明治12)年4月1日。1815(文化12)年12月元服して宮中に昇り、1831(天保2)年9月右近衛権 中将、従三位。孝明天皇即位後重用される。1862(文久2)年島津久光が上京して公武合体の立場から朝廷に建策し、幕府に五大老の設置等三事の幕政改革を迫ることに決すると、 6月その勅使を命ぜられ、島津久光の護衛を受けて江戸に赴き、徳川慶喜・松平慶永の幕政参与を強要した。8月帰京復命し、その功により12月国事御用掛に補された。1867(慶応 3)年12月の王政復古で参与、以後、明治政府の議定、上局議長、集議院長官などを勤め、1870年退官、麝香間祗候を仰せ付けられた。
徳川慶喜
 天保8年9月29日(1837年)10月28日〜大正2年(1913年)11月22日。水戸9代藩主徳川斉昭の七男、36人兄弟の第14子。母は登美宮吉子。
 略歴はこちら。
 家茂没から将軍在職期間にかけて、二つの問題を解決する。
☆第2次長州戦争終結
 慶応2年6月より幕府軍と長州藩の戦闘開始。幕府側戦況不利の中、家茂が病死。名代となった慶喜は8月に朝廷より休戦の沙汰書を得、9月に撤兵。
☆兵庫開港勅許
 兵庫開港は、安政五年日米通商修好条約締結のときからの懸案事項。当初文久2年11月12日(1863/1/1)の予定であったが、五年延期に成功する。しかし、依然として勅許が 得られず、慶応3年を迎える。これ以上引き延ばし不可能と判断した慶喜は、外国公使に兵庫開港を12月7日(1868年1月1日)に確約。5月24日に強引に勅許を取り付ける。
*葬儀の際の評価
 大政奉還・鳥羽伏見の戦い以後の絶対恭順が評価される。王政維新の第一の功労者、明治国家隆盛の基を築いた「歴史中の偉人」。勲四等旭日小綬章、勲一等旭日大綬章、旭日 桐花大綬章
*勝精、明治21年(1888)〜昭和7年(1932)
徳川慶喜十男、勝海舟養子、妻は海舟の孫。
明治32年(1899) 1月21日、勝海舟死去
            1月22日、宮内省爵位局に養子申請の手続き
            1月23日、養子手続きのミスで、勝家の爵位取り消し。
            2月 9日、養子勝精に伯爵を特授
鳩山一郎
 衆議院議長鳩山和夫の長男。1883年〜1959年。1915(大正4)年衆議院議員となり、犬養、斉藤両内閣下では文相となった。敗戦後、45(昭和20)年日本自由党を創立して総裁となったが、翌年GH Qの指令により公職を追放された。51年解除後、吉田茂の自由党主流と抗争、54年日本民主党を作り総裁となり、社会党の支持を得て首相となった。55年保守合同により自由民主 党総裁。56年10月日ソ国交回復を実現して、12月引退した。
横山大観
 水戸藩士の生まれ。1868年〜1958年。1893年東京美術学校第1回卒業。98年岡倉天心の創設した日本美術展に参加。同美術展主催の「院展」に連年精力的に出品、やがて明治、大正、昭和3代に わたる「日本画」画壇の重鎮となった。
小野梓
 明治時代の政治家・政治思想家。1852〜1886年。高知県出身。1871年からアメリカ・イギリスの留学。1874年に馬場辰猪らと共存同衆を組織し自由主義を唱える。大隈重信と 共に立憲改進党の結成に参加。東京専門学校(現早稲田大学)創立等に参加した。
田中芳男
 1838年〜1916年。信濃国伊奈郡榑木山(長野県飯田市)の生まれ。尾張藩医伊藤圭介に本草学を学び、伊藤が蕃書調所に出仕すると、一緒に江戸を出て物産所・小石川薬園で手伝いをする。1867( 慶応3)年のパリ万国博覧会に出品物取扱係として渡り、維新後は、物産会、博覧会事務局、内務省勧農局などに出仕。天産資料を扱う植物園・動物園の設置を志し、1882(明治15) 年3月20日、「博物館」付属の動物園を開園させた。初代館長町田久成に代わり、同年10月から7ヶ月間、二代目館長となっている。
伊達宗城
 1818〜92年。伊予国宇和島藩主。藩政改革を行い、殖産興業・富国強兵に努める。洋式兵学を導入し、長州藩士村田蔵六(大村益次郎)を招き、蒸気軍艦を建造させる。将軍継嗣問題で一橋派に 属し、安政の大獄で隠居。のち、公武合体に尽力、朝議参与を命ぜられた。維新後は議定、外国官知事、民部卿兼大蔵卿などを歴任。1871(明治4)年には日清修好条規を調印した。
赤井景韶
 上越地方を代表する急進的青年民権家。1883(明治16)年の高田事件で唯一実刑判決を受け収監し、その後脱獄、人力車夫殺害で1885(明治18)年7月27日死刑に処せられた 。
加波山事件の墓
 加波山事件は、1884(明治17)年9月に栃木県令三島通庸の圧政に対して県令暗殺を計画したが、失敗し、茨城県加波山で政府打倒を図って蜂起したが鎮圧された事件。碑には5 人の名前が刻まれている。
天王寺五重塔跡
 総欅造り、全長11丈2尺8寸(34.178m)。江戸四塔(寛永寺(重文)・増上寺(戦災で消失)・浅草寺(同))の一基。基本的には和様だが一部唐様を用いる。多宝如来、釈迦如来、 脇侍の文殊菩薩・普賢菩薩が安置されていた。外陣四壁の内側には金箔地に仏画。焼け跡より舎利容器と経筒が発見され、都立武蔵野郷土館に収蔵されている。都立中央図書館に 明治3年4月に実測された縮尺1/20の図面が残っている。
  小史
  寛永11 (1644)年、 感応寺境内に建立
  明和 9 (1772)年、 目黒行人坂の火事で消失
  寛政 3 (1791)年、 近江出身の大工、八田清兵衛ら48名により再建
  天保 4 (1832)年、 感応寺、護国山天王寺に改名
  安政 2 (1855)年、 安政大地震で九輪が落下、修復
  元治 元 (1864)年、 改修工事
  慶応 4 (1868)年、 上野戦争で天王寺、五重塔と庫裏以外は全焼
  明治17 (1884)年、 内務省より保存費50円下附
  明治25 (1892)年、 幸田露伴『五重塔』出版
  明治41 (1908)年、 五重塔、天王寺から東京市に寄付
  大正12 (1923)年、 関東大震災。五重塔残る
  昭和20 (1945)年、 敗戦。五重塔残る
  昭和32 (1957)年、 洋服職人長部辰五郎と針子山口和枝の放火心中により消失
  昭和54 (1979)年、 都旧跡に指定
*幸田露伴(1867年8月20日(慶応3年7月23日)〜1947(昭和22)年7月30日)
 江戸下谷の表坊主の家に生まれる。本名成行。東京英学校(青山学院大学の前身)、電信修技学校卒。電信技士。漢籍・仏書・江戸雑書は独学。尾崎紅葉とともに『紅露時代』を築く 。『擬古典主義』の代表作家。
 「五重塔」は「国会」明治24年11月7日号から翌年3月18日号まで、続いて「五重塔余意」として4月12日号から19日号として連載され、35回で完結した。露伴、数え年25歳から26 歳にかけての作品。露伴は明治24年から2年間、谷中墓地の近くの天王寺町21番地(現、谷中7丁目、旧居跡の表示あり)に住んだが、『五重塔』はここで書かれた。「谷中感応寺五 重塔の造営をめぐるのっそり十兵衛の意地と義理の物語。その塔をゆるがす嵐の夜の描写は日本文学中の名文と謳われる」(岩波文庫の帯より)。岩波文庫(420円、ワイド版840円) 、教育出版「読んでおきたい日本の名作」シリーズ(840円)、小学館「斎藤孝の音読破4」(840円)、青空文庫(電子ブック、無料)

4.参考情報

彰義隊関連年表

日付記事
明治元年
1月 7日
徳川慶喜への追討令下る
1月15日王政復古の布告
2月12日慶喜、寛永寺大慈院に蟄居
2月23日浅草本願寺に130名が集結し、彰義隊が結成される
2月26日彰義隊、市中取り締まりを命ぜられる
3月 2日慶喜、彰義隊に恭順を要請
3月13日芝高輪薩摩藩屋敷で勝海舟・西郷隆盛の会見
3月14日江戸城攻撃中止
4月11日江戸城無血開城、慶喜は水戸へ退去
5月 1日彰義隊、市中取締の役を解くように要請
5月14日大総督府、彰義隊に宣戦布告、脱走者多く千人ほどに減少
5月15日上野戦争、彰義隊壊滅、輪王寺宮落去
7月13日天野八郎、捕らわれる

 

徳川家歴代将軍霊廟

名前法名霊廟場所
 1家康安国院東照宮日光
 2秀忠台徳院増上寺
 3家光大猷院日光
 4家綱厳有院寛永寺
 5綱吉常憲院寛永寺
 6家宣文昭院増上寺
 7家継有章院増上寺
 8吉宗有徳院寛永寺
 9家重惇信院増上寺
10家治浚明院寛永寺
11家斉文恭院寛永寺
12家慶慎徳院増上寺
13家定温恭院寛永寺
14家茂昭徳院増上寺
15慶喜   谷中徳川墓地

 

徳川慶喜略歴

事項
天保8(1837)年江戸生れ 1
弘化4(1847)年一橋家相続。従三位左近衛権中将兼刑部卿11
安政5(1858)年安政大獄で隠居22
文久2(1862)年一橋家再相続。将軍後見職、権中納言26
慶応2(1866)年7月 将軍家茂、大坂城中で没(21歳)。
8月20日発喪。慶喜、徳川宗家家督相続。
9月、第二次長州戦争より撤兵。
12月、将軍に補任される。
29
慶応3年 5月兵庫開港勅許。
10月 大政奉還、討幕の密勅下る。
12月 王政復古。将軍職廃止。
30
慶応4年 1月 鳥羽・伏見の戦い、開陽艦で江戸に向う。
2月12日、上野寛永寺大慈院に入り、謹慎。
4月水戸弘道館至善堂に入り謹慎、7駿河宝台院に入る。
閏4月29日、田安亀之助(家達と改名)が宗家相続。
31
明治2(1869)年9月謹慎解除。
10月静岡の紺屋町の元代官屋敷に移る。
32
明治30年 東京移住(巣鴨1丁目)60
明治33年 麝香間祗候(時々、皇居内麝香の間に祗候し、天皇の相手などをしたこと)63
明治35年 公爵65
明治43年 12月8日隠居、7男慶久家督相続73
大正2(1913)年11月22日、死去。
11月30日午後、上野公園寛永寺に新設された斎場で、神式により執行。
喪主公爵徳川慶久、斎主平田盛胤大教正。
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