歴史を歩く会 2004年秋
秋の鎌倉歴史散歩−名越切り通しを歩く−

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説
4.参考情報


1.実施要綱

【日時】 11月14日(日)(雨天順延 21日)
 *実施の問い合わせは当日6〜7時に事務局へ
【集合】 JR横須賀線逗子駅改札前 午前10時
【コース】 逗子駅(集合)
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法性寺
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切り岸
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名越切り通し(昼食)
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日蓮乞水
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長勝寺
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安国論寺
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安養院
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八雲神社
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妙本寺
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本覚寺
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日蓮辻説法跡
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妙隆寺
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(解散)
【参加費】 1000円(資料代その他)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
トイレの場所は限られていますので、係員の案内に注意してください。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

日蓮と鎌倉

 日蓮は、1222(承応元)年、安房国長狭郡東条郷片海(千葉県安房郡天津小湊町)に生まれる。「海人が子」と自称するが、漁業にもたずさわる荘官クラスの在地有力者の出身ではないかと考えられる。幼名は薬王丸・善日麿などと伝えられる。
 12歳くらいで近くの清澄寺に入り、16歳で出家得度。是聖房蓮長と名乗った。やがて修学に飽き足らなくなり、鎌倉で学び、さらに京都に上る。主に比叡山延暦寺で学び、この遊学中に日蓮と改めたようである。そして「涅槃教」の「法に依れ、人に依らざれ」の教えに触れ、「法華教」こそ依るべき法=教典とする法華至上主義に到達した。「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という他宗派を批判・排撃する言葉を「四箇格言」という。
 1252(建長4)年頃、清澄寺に戻ったが、当時流行していた浄土教を批判したため、寺内や近傍の浄土教信奉者の反発を受け、また地頭東条景信の領地争いにも介入して憎まれ、師道善房から勘当され、清澄寺を追放された。1254年頃のことという。
 名越の「お猿畠」にまつわる伝説は二つ伝えられている。第1は日蓮が名越坂を越えて鎌倉に入るのに先だって、様子を窺うためにこの地の岩屋に潜んでいた時のことである。近在の人々は彼を怪しんで食べ物も与えなかった。そこで山に住む猿たちが気の毒に思ってか食事を用意して供養してくれたので、日蓮は無事に鎌倉に入ることができたのだという。また第2の伝説は、松葉ヶ谷の草庵が襲撃された折り、「お猿畠」の岩屋に隠れていると、3匹の白猿が現れて食事を供養してくれたお陰で助かった、というのである。
 日蓮の鎌倉における法華教弘通(=布教)の拠点は名越の松葉ヶ谷辺りであった。草庵が営まれた跡地は、長勝寺・安国論寺・妙法寺がそれぞれ名乗りを上げており、定かではない。名越は鎌倉の東のはずれに当たり、海の方には和賀江島や商工業者が多く住む材木座があり、繁華街の狭間で何とかその日暮らしの稼ぎができるような下層民が集住する場であったと考えられている。幕府や武士の屋敷が建つ手前の小町大路までが日蓮の布教の場だったようだ。「日蓮辻説法跡」として遺跡が遺されている
 折悪しく、1257(正嘉元)年から60(文応元)年にかけて地震・暴風・疫病などの天災や飢饉が続き、多数の死者が出て、その骸が路傍にうち捨てられる惨憺たる状況が見られたという。日蓮は災厄が続く理由を考え、それは人々が悪法である浄土教を信奉することに起因するとして、幕府が浄土教を排し、正法である法華教に帰依するよう働かなければならないと、1260年に『立正安国論』を著し、得宗北条時頼に献上した。幕府側は無視する姿勢を示すが、浄土教徒の間に法論が戦わされ、先の松葉ヶ谷法難となる。
 1261(弘長元)年、幕府は日蓮を伊豆に流罪とし、2年後に赦している。1264(文永元)年、故郷に戻り弘通するが、東条景信らに襲撃され(小松原法難)、再び鎌倉に入った。1268年、蒙古のフビライ汗から服属か交戦かを問う国書が届く。日蓮は再び『立正安国論』を幕府に献上し、「他国侵逼の難」の予言が適中したことで、自説に対する自信を深めると共に、日蓮への帰依者も増加した。
 1271年の日照りに際し、幕府は極楽寺の真言律僧忍性に祈雨の修法を命じた。これを日蓮が激しく非難すると、逆に訴えられ、佐渡に流されることになる。同時期、西国に所領を持つ御家人に蒙古襲来に備えての所領への下向と悪党鎮圧が命じられていることから、日蓮の言動を反幕的な悪党らの動きと関連したものと見た弾圧とも考えられる(文永8年の法難)。佐渡へ連行される前、鎌倉の刑場龍ノ口で首を刎ねられそうになったところ、天変地異が起こり、危うく難を逃れたというエピソードもある(龍ノ口法難)。
 1274年に赦された日蓮は、鎌倉に呼び戻され、執権北条時宗の御内人平頼綱に蒙古問題を解決する手段は法華教帰依しかないとの自説を伝える機会が与えられるが、やはり容れられることなく、鎌倉を退去。その後、晩年を過ごす甲斐国身延山に入った。病気療養のため、1282(弘安5)年、身延山を下りて常陸に向かう途中、武蔵国池上で亡くなった。


3.見学ポイントの解説

猿畠山法性寺(えんばくざんほっしょうじ)
 日蓮宗。元応2(1320)年。開山日朗(日蓮の弟子)、開基朗慶(日朗の弟子)。清澄寺を追われた日蓮がここの岩屋に潜んでいたところ、この山に住む白い猿が食物を供したという伝説がある。
 この寺の裏にある崖が「お猿畠の切岸」である。「切岸」とは、一番高い山の尾根の外側または内側をまっすぐに切り落とし急な崖としたもので、北条氏が三浦氏から鎌倉の町を防禦するために築いた施設といわれている。
お猿畠の切り岸
 法性寺裏にはお猿畠の切岸という人工の崖がある。鎌倉時代に北条氏が三浦氏に備えるため名越の切り通しとともに築いた防衛施設といわれ、全長800メートルにも及ぶ。
名越の切通し
 鎌倉から三浦へ通じる切り通しで、現在の名越トンネルの上に旧道の一部が残っている。北条氏にとって三浦一族は強力なライバルであり、それゆえ名越は鎌倉防御の一大拠点であった。1247(宝治元)年の宝治合戦(三浦の乱)で、北条氏は三浦氏を討つことに成功し、名越切り通し付近も、そののちその性格に変化が生じたようである。切通し周辺には各種のやぐらが群集している。名越周辺が鎌倉時代に墓地として使われていたなごりであろう。
日蓮乞水
 鎌倉五名水の一つ。干ばつに苦しむ人々のために日蓮が杖を突き立てて水源を探り当てたとも、1253(建長5)年名越から鎌倉へ入った日蓮が喉がかわいたので杖を立てて探り当てたともいわれている。鎌倉五名水とは日蓮乞水(名越)、梶原大刀洗の水(十二所)、銭洗水(佐助)、金竜山(現存せず)、不老水(現存せず)である。また不老水の代わりに甘露水(山ノ内)を入れる場合もある。
長勝寺
 日蓮宗の寺院。山号は石井山。建長5 (1253) 年、日蓮が伊豆の配所から鎌倉の松葉ガ谷に来て、初めて草庵を結んだ所の一つとされる。この地の領主・石井長勝が日蓮上人に帰依し、日除と名乗り、弘長3(1263)年にその邸内に寺を建てたことにはじまる。本来この地は本圀寺の旧地であったが、室町時代初期に本圀寺が京都に移り廃寺となってしまった。そして、本圀寺の京都移転後の貞和元(1345)年日静の再興によって山号と寺号を開基の石井長勝にちなみ、石井山長勝寺になったという。昭和51(1976)年、境内の一部が発掘され、室町時代末期の民衆居住区が見付かっている。
 総門を入ると右側に山門があり、山門を入った左側の高台に室町期の唐様建築の法華堂がある。中には日蓮上人像や大壇・鰐口などがある。境内の正面には帝釈堂があり帝釈天が祀られている。これは松葉ガ谷法難の時、帝釈天の使いである白い猿に救われたことにちなみ帝釈天出現の霊場として安置されている。帝釈堂前の銅像の日蓮上人像は高村光雲作で東京の洗足池から移されたものである。
安国論寺
 日蓮宗の寺院。山号は妙法華経山。妙法寺、長勝寺とならび日蓮の松葉ガ谷草庵の跡と伝えられている。はじめ、この地には日蓮の弟子日朗が岩穴の近くに立てた安国論窟寺と、日現が建てた要法寺の2寺があったが、のちにこの2寺が一つになった。山門を入ると左側に東京の増上寺の徳川将軍家墓地から移された石灯籠が並ぶ。また江戸時代に尾張徳川家の寄進した御小庵がある。境内には日蓮が『立正安国論』を執筆したという岩穴、御法窟がある。御法窟の右側には日蓮に仕えた従者の熊王丸を祀る熊王大善神尊殿がある。そして御法窟わきの階段を登っていくと、日蓮が毎日富士山に向かって読誦したと言われる富士見台がある。文応元(1260)年、日蓮は『立正安国論』を北条時頼に建白した為、度重なる法難を受けた。安国論寺の裏山には、日蓮が松葉ガ谷焼き討ちの法難の際、白猿に袖をひかれて避難したと言われる南面窟がある。そこから本堂に向かって降りていく途中にあるのが、日蓮の弟子で師孝第一と謳われた日朗が荼毘に付されたという日朗上人荼毘所である。
安養院
 元は浄土宗名越派の根本道場善導寺があったが、幕府滅亡時の焼失の跡地に、北条政子が頼朝の菩提を弔うために長谷笹目に創建した律宗の長楽寺が移ってきて、寺号を長楽寺、院号を政子の法名から安養院に改めたという。本堂には本尊阿弥陀如来像が祀られ、その後ろに1.85メートルの千手観音像が安置される。これは1673(延宝8)年に比企ヶ谷にあった田代寺から移されたもので、昇竜観音、良縁観音、田代観音などとも呼ばれる。坂東三十三札所めぐりの第三番霊場でもある。
 裏手には「徳治三年」(1308)の銘を持つ、善導寺開山尊観の墓と伝えられる大きな宝篋印塔と政子の供養塔という小さな宝篋印塔がある。
 町は元来「街路」からでた言葉で、道路の両脇に店が並んでいる場所をさしていた。現在小町大路といわれる宝戒寺前から大町四つ角を通って材木座に通じていた道筋が町大路と呼ばれていたが、店が並び町がしだいに広がっていったことから、夷堂橋を境にして北を小町、南を大町と呼ぶようになったと思われる。
八雲神社(祇園天王社)
 永保年中(1081〜84)新羅三郎義光の勧請と伝えられている。当時「後三年役」に陸奥国にて苦戦を伝えられた兄八幡太郎義家のもと支援に赴く途次、鎌倉に入ると、たまたまこの地に悪疫が流行しているのを知り、これを救うため京都の祇園社を勧請し、祈願したところ、たちまち悪疫退散し住民は安堵し難を救われたと言い伝えられている。鎌倉の「厄除さん」といわれる由縁である。
  「鎌倉年中行事」によると室町時代宝徳年中(1449〜52)関東管領足利成氏の頃は神輿を管領屋敷に渡御し神楽を奏し奉幣の式があるを例をしたとあり、当日の祇園祭には種々舞練物があったと記されている。慶長9年3月(1604)徳川家康より永楽五貫文の朱印地が下賜され、以後代々の徳川将軍家より朱印状が下付された。
 江戸時代の祭の様子は「相模風土記稿」によると6月7日、同14日四座の神輿が大町、乱橋、小町、雪ノ下の内大蔵の四所に巡行あり、假屋大町、乱橋の二ヶ所に設けられたと記されている。
明治25年小島烏水の「小壺日誌」に「7月14日夜鎌倉大町の祭礼を見ばやと行く(中略)大町にいたれば景況一変して雑踏言はむ方なく、揃ひの晴衣に天王さまを担ぐ若者の前駆には、何やら節をかしく唄う撃折小児の賑はしく神輿の駐まるところ、喝采湧くがごとく起きる。神輿の数は四、大町は提灯に「大」字なり」と記されている。
妙本寺
 日蓮宗。山号は長興山(ちょうこうさん)。この地は比企ガ谷と呼ばれ、1203(建仁3)年に北条時政により滅ぼされた幕府の重臣比企能員(よしかず)一族の屋敷があったという所である。この寺は日蓮に帰依した能員の末子大学三郎能本(よしもと)が、比企一族の菩提を弔うため父の邸跡に日蓮の弟子日朗を開山として1274(文永11)年に創建したといわれる。
 参道の石段をのぼり、朱塗りの二天門を入ると右手に2代将軍源頼家の子一幡(いちまん)(1198〜1203)の袖を埋めたという袖塚がある。一幡の母は比企能員の娘の若狭の局で、焼け残った小袖の紋で一幡の死が確認されたという。この塚の奥には比企能員一族のものと伝える墓がある。
 また、境内正面奥には江戸時代に再建の祖師堂がある。堂内の宮殿には南北朝時代の日蓮上人像があり、右に日朗と比企能員夫妻の像、左に日輪と比企能本夫妻の像が並ぶ。
 新釈迦堂跡へ行く途中には中世の『万葉集』研究家で知られる仙覚律師の碑が立っている。仙覚は比企氏の出身で1269(文永6)年ここで『万葉集注釈』を著したことにちなんでいる。
 祖師堂左手前に非公開の霊宝堂がある。「建武四年」(1337)の年号のある仏事に使う打鳴器の一種の雲版(国重文)や日蓮・日朗上人ゆかりの寺宝がおさめられている。
本覚寺
 鎌倉時代、ここには幕府の守護神を祀っていた天台宗の夷堂(えびすどう)があった。この夷堂に配流地の佐渡から鎌倉にもどった日蓮が滞在したという。この夷堂跡を一乗房日出(にっしょう)が1436(永享8)年に日蓮宗に改め創建したのがはじまりという。2世日朝が身延山から日蓮の遺骨を分けて移したことから「東身延」ともいわれ、俗に「日朝さま」とも呼ばれている。戦国時代には、後北条氏と緊密な関係にあり、住僧がその使者となったり、その鎌倉支配の拠点的な役割を果たしたりしている。現在、中央には本堂があり、南北朝時代の釈迦三尊像や日蓮像、日朝像が安置されている。本堂右奥には日蓮の分骨堂がある。鐘楼の梵鐘は、日出が上総木更津の八幡宮での法論に勝ち、持ち帰ったもので、「応永十七年」(1410)の銘が記されている。本堂横の墓地には、名刀正宗を生んだ刀工岡崎正宗と2代目貞宗の墓という石塔がある。
日蓮辻説法跡
 この辻説法跡のある通りは、小町大路と呼ばれ、当時は武家屋敷と商家町の境としてにぎわい、多くの人々が往来した。そのような道端に立って日蓮は熱心に法華経を説いたが、激しく他宗を批判したために群衆に石を投げられたりしたこともあったという。この碑はもともと同じ小町大路の妙勝寺(廃寺)にあったものを1901(明治34)年に現在地に移したものである。説法の場所は固定されていたわけではなく、この他に本興寺などにも辻説法跡がある。
妙隆寺
 日蓮宗。山号は叡昌山。室町時代の1385(至徳2)年、鎌倉幕府草創期の有力御家人千葉介常胤の子孫千葉胤貞が本領に移るに当たり、その跡地に日英を開山として創建された。第2祖となる日英の弟子でもあった日親(1407〜88)は、1427(応永34)年、21歳の時、この寺の池で忍力行法を行い、爪の血で「十界の大本尊」を描いた後、熱湯に両手を入れ、湯が冷めるまでお経を唱えたという。のち京都に本法寺を建て、1439(永享11)年、将軍足利義教に法華教信仰と他宗信仰の棄捨を勧めた。しかし重ねての言上は禁止され、翌年それに背いたとして罰せられた。その折に受けた責め苦の一つに、灼けた鍋を頭にかぶせて改宗を迫られたというものがあり、そこから「鍋かぶり日親」の呼び名が生まれた。
 裏手の墓地には「丸山定夫之碑」が建つ。丸山(1901〜45)1945年8月6日の広島への原爆投下で被爆して亡くなった、移動演劇隊「櫻(さくら)隊」の主催者である。築地小劇場に研究生として参加。同期に千田是也、山本安英がいた。碑のレリーフは当たり役であった「守銭奴」(モリエール作)のアルパゴンである(本郷新の作)。1966(昭和41)年、元さくら隊員の永田靖の発案で建立されたという。裏には「よく読み、よく歌い、よく飲み、よく恋し、友を愛し、人の世話をみ、純情で敏感で、柔軟なる心情をもって知る人すべてから愛された」とある。因みに犠牲になったのは、丸山と高山象三、園井恵子、島木つや子、森下彰子、羽原京子、笠絅子、小室喜代、仲みどりの9人であった。

4.参考情報

(今回はありません)