歴史を歩く会 2004年春
春の江戸城を歩く−竹橋・本丸・靖国神社−

トップページ歴史を歩く会

目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説
4.参考情報


1.実施要綱

【日時】 4月18日(日)(雨天順延 4月25日(日))
      実施の問い合わせは6〜7時までに事務局へ
【集合】 東京メトロ東西線竹橋駅「竹橋」側改札前 午前10時
*「毎日新聞社」のある出口です。
【コース】 竹橋駅(集合)
  ・竹橋
  ・太田道潅漑公追慕の碑
 ↓
平川門
 ↓
二の丸
 ↓
本丸跡
  ・本丸、大奥
  ・中雀門
  ・富士見櫓
  ・松の廊下
  ・午砲台
  ・富士見多聞
  ・石室
  ・天守台
 ↓
北桔橋門
 ↓
東京国立近代美術館工芸館(近衛師団司令部庁舎)
  ・北白川宮能久親王像
  ・東京国立近代美術館工芸館
 ↓
北の丸公園(昼食)
  ・日本武道館
 ↓
田安門
  ・清水門
  ・九段会館(遠景)
  ・高灯籠
 ↓
品川弥次郎大山巌銅像
 ↓
靖国神社
  ・大灯籠
  ・清朝の狛犬
  ・大鳥居
  ・常陸丸殉難記念碑
  ・田中支隊忠魂碑
  ・石灯籠
  ・大村益次郎像
  ・大灯籠
  ・神門
  ・能楽堂
  ・憲兵之碑
  ・神道無念流道場跡
 ↓
遊就館
戦没軍馬慰霊像
鳩魂の塔
海防艦
 ↓
(解散)
【参加費】 1000円(資料代など)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 歩く距離は3キロほどになります。
本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
トイレの場所は限られていますので、係員の案内に注意してください。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐後、それまで東海地方を根拠地とした徳川家康が関東一円を領有することとなる。居城に定められた江戸城に家康が初めて入城したのは、奥州征伐の途次、同年8月1日とされる。この「八朔」の日は江戸御打ち入りの記念日として、幕府の式日とされた。
 家康の入城以前の江戸城は後北条氏の支城として、城代遠山氏が置かれていたが、建物は老朽化しており、石垣もなく、周囲には竹木が生い茂るという田舎城にすぎなかった。室町時代、関東管領扇谷上杉定正の重臣太田道灌が、平安末期に築かれたという江戸氏の居館跡に営んだ江戸城の面影はなかったようである。
 江戸城の整備は秀吉の朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで中断されたが、慶長8年(1603)の征夷大将軍就任、江戸幕府開設以後、「天下普請」によって本格的に進められることとなる。何度にも及ぶ増修築の末、総構が完成したのは、3代将軍家光の寛永13年(1636)のことであった。
「火事と喧嘩は江戸の華」とも言われるが、江戸城もその災いから逃れることはできなかった。まず、明暦3年(1657)の振り袖火事で、天守閣・本丸・二の丸・三の丸を焼失し、以後、天守は再建されなかった。さらに延享4年(1747)に二の丸御殿焼失、天保9年(1838)の西の丸全焼、弘化元年(1844)の本丸御殿全焼などと続き、文久三年(1863)に本丸・二の丸・西の丸を焼失し、それ以後、本丸も再建されていない。慶応3年(1867)の大政奉還後、二の丸が焼失し、これも再建されなかった。
 慶応4年3月、官軍による江戸城総攻撃が予定されたが、勝海舟・西郷隆盛の会談が実を結び江戸城攻撃は行われなかった。4月に江戸城は開城し、徳川慶喜は水戸へ退去することになった。しかし一部の幕府側勢力は上野寛永寺付近に集結し、官軍と戦うことになった。官軍側の大村益次郎は富士見櫓において指揮をとった。
 明治元年(1868)、東京城と改められ、皇居となった後も、明治6年(1873)に西の丸御殿が焼失している。因みに焼失前の西の丸大広間において、明治元年6月2日、靖国神社創建前の招魂祭が斎行されている。まだ継続中の戊辰戦争における陣中慰霊祭という性格で、この折に招降された戦没者は東征軍進発以後の武蔵・上総・下総・越後での戦いで死んだ人々だったという。
 維新政府は、徳川家に由緒のある武家地に対して土地没収の上知令を命じた。幕府の崩壊によって武家地の多くは荒廃することになった。そしてその広大な大名屋敷地は、官庁の施設、軍用地などに転用された。特に、江戸城北の丸には近衛砲兵・歩兵師団が設置されるようになった。

3.見学ポイントの解説

竹橋
 江戸城の北東部に位置する橋。渡って右手には鉄砲蔵があったという。現在は国立近代美術館が建つ。左手の石垣は平川門につながる帯曲輪。帯曲輪とは堀を二重にして水位調節を行うためのものであるとか、本丸の防衛を強化するためのものなどと言われる。
太田道潅漑公追慕の碑
 太田道潅(1432〜86)は、室町時代の武将で、扇谷上杉定正の重臣。父は資清。永享4年(1432)相模国に生まれる。文安3年(1453)元服して資長と名乗り、康正元年(1455)、太田家の家督をゆずられた。この年以降、関東は渡瀬川、利根川、荒川の線で、古河公方足利成氏方と関東管領の上杉氏に分かれて戦闘が繰り返された。この間にあって、上杉定正の家宰太田道潅は「関東御静謐」を願って戦いに東奔西走した。しかし文明18年(1486)、道潅は主君上杉定正に謀殺された。
 江戸城は、太田道潅が、古河公方足利成氏に備えるために築いた本格的な城郭であるが、康正2年(1456)から長禄元年(1457)にかけてできたものであると考えられている。なお彼が剃髪して道潅と号するようになったのは、合戦にあけくれていた文明10年(1478)頃とされている。
 道潅は築城家・戦略家として知られているが文人としても名高く、江戸城内の居館に五山の禅僧や連歌の宗祇らを招いて時には風雅な集いを楽しんだという。
平川門(平河門)
 藤堂高虎の発案により、防御線を多くするための帯曲輪を持つ変形枡形門。本丸の下乗門で、三の丸正門に当たり、奧女中の通用門であったことから「お局門」とも言われた。右手の小さな帯曲輪門は、城内で出た死者や罪人を出した不浄門である。赤穂事件の浅野内匠頭や絵島・生島事件の絵島らが、ここから出されたという。
 高麗門前の大手濠に架かる、戦後復元された平川門木橋の欄干にある擬宝珠は、かつて二重橋にあったもので、慶長と寛文の銘が見られる。
二の丸庭園
 二の丸には寛永13年(1636)に創建された二の丸御殿があり、慶応3年の焼失まで、4回焼けている。その構造は本丸御殿を簡略化したもので、用途は将軍の別邸として、6代将軍家宣の御台所天英院の住居、9代将軍家重の元服前と大御所時代の住居など多様であったが、のち前将軍のお手付き中臈(大奥の女官)が晩年を過ごす場所となった。
 小堀遠州による作庭があったとされるが、現在の庭園は9代家重時代の絵図面を元に復元された回遊式庭園である。諏訪の茶屋は明治45年(1912)に吹上御苑に建てられたもので、東御苑の整備に当たり、この地に移築された。また都道府県の木は1968年の東御苑公開に当たり寄贈・植樹されたもの。因みに神奈川県も東京都もイチョウである。雑木林は昭和天皇の発意で、失われゆく都市近郊のそれを残そうと、1983(昭和58)年から3年がかりで造成されたものという。
本丸
 江戸城の中心部で、将軍の住居と幕府の政庁を兼ねた。本丸御殿は、天守台の手前、奥の方から「大奥」・「中奥」・「表」で構成されていた。
 大奥は将軍の私邸に当たり、正妻である御台所をはじめ、側室や多くの女中、将軍の子女が生活する、基本的には将軍以外の男子禁制の場所であった。中奥との間は塀によって厳重に仕切られ、左手の御鈴廊下によってのみ通じていた。
 中奥は将軍の住居と政務を執る公邸であった。これに続く「表」が幕府の中央政庁に当たり、謁見その他の儀式を執り行う大広間・白書院・黒書院、日常、諸役人が執務したり、登城した大名らが詰める諸座敷からなっていた。
中雀門(書院門)跡
 江戸城の正門である大手門から本丸へ入る表門。現在、スロープになっている坂道は、もと石段であった。切石積みの石垣に見られる焼け跡・破損は、文久3年(1863)の本丸焼失の際の類焼跡と考えられるという。
富士見櫓
 本丸で現存する唯一の櫓。万治2年(1659)に創建された三重櫓で、最も古い遺構の一つ。1923(大正12)年の関東大震災で倒壊・大破したが、主要部材に旧来の材料を用いて再建された。外壁中央には様々な形式の「張り出し」が付けられ、「石落とし」を兼ねた櫓は、どこから見ても同じに見えることから「八方正面の櫓」とも呼ばれる。明暦の大火後、再建されなかった天守閣の代わりに利用されていたこともあるという。穴太積みの石垣は築城名人加藤清正の子忠広の時、熊本藩加藤家が請け負ったという。
 他に現存するのは、伏見櫓と桜田巽櫓のみである。
松の大廊下跡
 松の廊下は大広間と白書院の間を結ぶ、城内で二番目に長い廊下で、名の由来は障壁画に松を主題とした絵が描かれていたことによるという。
 元禄14年(1701)3月14日、勅使饗応役浅野内匠頭長矩が高家筆頭吉良上野介義央に対して刃傷に及んだ場所である。白書院で予定されていた5代将軍綱吉による勅使・院使との面会は、会場を黒書院に移して行われた。内匠頭は田村右京太夫邸にお預けとなり、その日の内に切腹が命ぜられた。赤穂藩5万3000石も改易され、将軍綱吉による不公平な裁定は、元禄15年12月15日未明における、元赤穂藩家老大石内蔵助良雄ら、赤穂浪士47名による本所吉良邸討ち入りを招くこととなる。
午砲台跡
 本丸跡には明治期から昭和30年代まで、気象庁の官舎があり、気象台発祥の地でもあった。午砲台は明治4年(1891)年9月に設置され、天文台からの信号合図で、近衛兵が正午の時報を撃った。1929(昭和4)年4月1日に廃止されるまで、東京府民には「ドン」の愛称で親しまれたという。現在は大芝生の中央部に石標が置かれている。
富士見多聞
 本丸にあった15の多聞櫓の内で残存する唯一の遺構。石標には「御休息所前多聞」とある。御休息所は中奥にあった将軍の私的な居間。多聞櫓は防衛と装飾を兼ねた長屋造りの建造物。鉄砲や弓矢などの武器を納め、外壁には鉄砲狭間が設けられた。
石室
 抜け穴の入口とか、御金蔵という説もあるが、大奥御主殿・御納戸の脇という位置から、非常の際に大奥の調度品や文書類の貴重なものを納めた富士見御宝蔵跡と考えられる。
天守台跡
 天守閣は明暦の大火で焼失するまでに3度建造されている。最初は慶長11年(1606)、家康の時、中央部の富士見多聞寄りに建てられた。白漆喰塗りで、高さ48メートルの五層の天守で、面積は安土城や大坂城の二倍以上だった。二代目は、秀忠による元和8年(1622)の本丸改築に際して、慶長の天守が撤去され、翌9年、本丸東北部に完成した。高さは慶長の天守を上回ったという。三代目は、家光の寛永15年(1638)、元和の天守台に金の鯱を載せた、高さ51メートルの、銅板黒塗りの壁を持つ天守閣として建築された。
 明暦の大火で焼失した後、翌年には現在の天守台が、それまでよりもやや低い18メートルの高さで、加賀前田家によって築かれた。しかし、幕府草創期とは違い、天守の必要性が薄れたことと、財政問題もあり、前将軍家光の弟で4代家綱の補佐役を勤めた、会津松平家の藩祖保科正之の進言によって、天守造営は中断されることとなった。
北桔橋
 明治以降、桔橋ではなくなったというが、元ははね上げて本丸との連絡を完全に断てるようになっていた。復元された高麗門には、橋をはね上げて置くための金具が残っている。
北白川宮能久親王像
 弘化4年(1847)伏見宮邦家親王の第九皇子として生れる。嘉永元年(1848)青蓮院宮家を相続。安政5年(1858)輪王寺宮家を相続、公現法親王を称し上野寛永寺の門跡となる。明治3年(1870)年還俗して伏見宮家に復帰、軍籍に就く。同年勅命によりプロシヤに留学。歩兵・砲兵連隊・参謀学校などで兵学を修める。明治5年(1872)北白川宮を相続。明治10年(1877)帰国、近衛砲兵連隊隊付となる。明治17年(1884)陸軍少将に任ぜられ、歩兵第1旅団長、参謀本部出仕。明治25年陸軍中将に任ぜられ、第6師団長、第4師団長を歴任。 明治28年1月(1895)近衞師団長に任ぜられる。4月17日下関条約により清国、台湾を割譲。5月29日近衛師団を率いて樺山資紀初代台湾総督とともに台湾に上陸、台湾北部を平定。6月22日台北に台湾総督府開庁。10月28日台南でマラリアにて病没。享年49歳。11月陸軍大将。
東京国立近代美術館・工芸館(竹橋騒動)
 赤レンガ造りの二階建、スレ−ト葺の屋根、中央部に八角塔屋をもつ簡素なゴシック風の様式をもつこの建物は、明治43年(1910)に建築された旧近衛師団司令部庁舎(国重文)である。明治時代の洋風レンガ建築の貴重な遺構であり、現在東京国立近代美術館の分室として、日本の伝統工芸から現代工芸に至各種の工芸品を展示している。
 この地は明治になると近衛兵の兵営が置かれ、明治7年(1874)には、歩兵・砲兵の兵営が設置され竹橋営所と呼ばれた。明治11年(1878)、前年の西南戦争の論功行賞と減給に不満を抱いた近衛砲兵第一大隊の兵260余名が反乱を起こして大隊長を殺害し、大砲を営所から引き出して清水門前の参議大蔵卿大隈重信邸に発砲した。さらに赤坂離宮の仮皇居の門前で嘆願しようとしたが、まもなく鎮台兵に鎮圧された。これが竹橋騒動とよばれるものである。この事件後、政府は軍人訓戒、次いで軍人勅諭を公布して軍律の強化に努めた。
北の丸公園
 もとは江戸城北の丸で、御三卿の田安家(千鳥ヶ淵側、近衛歩兵第二連隊記念碑がある側)と清水家(清水堀側、吉田茂像がある側)の屋敷があった。1871(明治4)年の東京大絵図には両方とも「御用邸」と記されている。その後は近衛師団の兵営および練兵場となり、近衛師団司令部が置かれた。第2次世界大戦後は、1946(昭和21)年に東京特別都市計画で皇居周辺大緑地の一部となり、1961(昭和36)年には東京都、1963年に建設省が公園として整備し、1969(昭和44)年4月に完成、一般公開された。その後は厚生省が管理し、現在は環境省の管轄となっている。

御三卿はこの田安・清水の二家と一橋家で、田安家は八代将軍吉宗の次 男宗武を、一橋家は同じく四男宗尹を、清水家は9代将軍家重の子重好 を祖とした。賄料十万石を拝領し、江戸城の田安門・一橋門・清水門の 内に屋敷を賜い、重臣は幕府から派遣された。
日本武道館
 1963(昭和38)年に東京オリンピックの柔道競技の会場として20億円を費やし建設された。現在は(財)日本武道館によって運営されている。名前の通り、柔道・剣道など日本の武道に関する大会や研修会に使用するのが目的であるが、現在はコンサート会場やプロレス会場として有名である。八角形の建物は高さ42メートル、収容人員は約1万4000名ほどである。
田安門
 江戸城の北部に位置する城門。桝形門でその創立年代は明らかでないが、1607(慶長12)年には既に存在している。現在の門は1636(寛永13) 年に再建され、現存する門の中では最古のものである。
清水門
 北の丸の東門。1658(万治元)年に再建された枡形門。
 田安門とともに1963(昭和36)年6月に国の重要文化財に指定され、文化庁が管理している。

 *なお、一橋家の屋敷は現在の気象庁付近で、一橋門は1873(明治6)年に撤去された。
九段会館
 昭和天皇の即位を記念して昭和9年(1934)に建てられ、戦前は軍人会館であった。帝冠様式で設計は川本良一。当時の建築界では「日本らしいデザイン」ということで、RCの洋風ファサードに城郭の屋根を載せた「帝冠様式」というスタイルが流行っていた。昭和11年(1936)の「2・26事件」に際して戒厳司令部が置かれたことでも有名。戦後は旧日本軍の軍人・軍属の「英霊」を讃える遺族の団体である日本遺族会の本部となる。館内には結婚式場、レストラン、宿泊施設があり、日本遺族会が経営している。
高灯籠
 1871(明治4)年に建設された。常夜灯とも灯明台ともいわれる。夜間照明のための施設で品川沖の船舶からも見えたという。大正年間に九段坂の改修工事によって道路の反対側から移転された。
品川弥二郎像
 天保14年(1843)閏9月29日生。長門国萩松本村出身。安政4年(1857)9月松下村塾に入って吉田松陰に学ぶ。同5年12月松陰の冤罪を訴えて謹慎させられたが、翌年11月には許された。 文久2年(1862)4月上京して寺田屋事変に関係。また、江戸に行き、11月高杉晋作らと英国公使襲撃を計画、御楯組の血盟に参加した。元治元(1864)年6月上京、7月の禁門の変には八幡隊隊長として戦ったが、敗れて帰国、8月御堀耕助らと御楯隊を組織した。慶応元年12月木戸準一郎(孝允)に従って変名して上京、薩摩との提携に尽し、国元と京都間を往復し、幕府の情勢の偵察及び薩摩と長州の連絡の任に当る。慶応2(1866)年の薩長同盟提携では、人質として薩摩藩邸に留まった。同3年10月大久保一蔵(利通)と岩倉具視に会い、錦旗調製のことを託されるとともに、討幕の密勅を奉じて広沢兵助らと山口に帰った。
 明治元年(1868)10月整武隊参謀として奥羽に出陣、翌年7月山口に凱旋した。2年12月明治政府に召出され弾正少忠となり、翌3年3月脱退暴動鎮撫方不行届の罪で一時逼塞を命ぜられた。同年6月退職し、3(1870)年8月普仏戦争視察のため、欧州へ派遣され、仏英独に滞在し、農政や協同組合も調査した。また、在独公使館に勤務した。
 9年(1876)3月帰国、6月に宮中顧問官となった。同年萩の乱、翌10年西南戦争鎮圧に尽力。同14年(1881)農商務省で殖産興業に努めた。17年子爵。同18年駐独日本公使。同20年(1887)帰国後宮中顧問官、22年御料局長官を兼任、皇室財産を確立に尽力した。
 24年(1891)6月第一次松方内閣の内務大臣となり、信用組合法案を第2議会に初提案。翌25年3月第2回総選挙における民党への選挙干渉指揮で引責辞職。その後、枢密顧問官に任ぜられたが、同年6月退官して西郷従道、佐々友房らと国民協会を組織し、ついで同副会長となった。明治32年枢密顧問官に復帰したが、翌明治33年(1900)2月26日肺炎のため死去。享年58歳。
大山巌像
 大山巌(1842〜1916)は薩摩出身の軍人。西郷隆盛の従兄弟にあたる。明治維新後フランスに留学し、陸軍の建設につとめ、長州の山県有朋とならぶ薩摩の第一人者となる。1885(明治18)年の内閣制度創設以来6代連続して陸軍大臣を務める。日露戦争時には満州総司令官。のちに元老、内大臣にもなる。銅像はかつて市ヶ谷の陸軍参謀本部前にあったが、戦後になってこの地に移された。
靖国神社
 1868(慶応4)年5月、薩摩藩・長州藩は鳥羽伏見の戦いで死んだ自分たちの側の兵士を祀るために京都の東山・霊山に招魂社(今の京都護国神社)を建てた。1869年には、明治政府は江戸を東京と改め首都とすると、6月に九段上に招魂社を建設し、京都の招魂社を合祀し東京招魂社とした。ここには戊辰戦争での戦死者や安政の大獄以後政争で犠牲になった志士たちも合祀された。
 明治12(1879)年、東京招魂社は靖国神社と名を改め、別格官幣社(天皇の家来である臣下を祀る神社のこと)に格付けされた。
 靖国神社は戦争のたびに戦死者を新しい祭神として祀るので時代とともに祭神が増加していくことになっている。戦前、普通の神社は内務省が管理していたが、靖国神社は陸・海軍省が管理しており費用は軍事予算、宮司は陸軍大将、憲兵が守衛をつとめ、お賽銭は軍に納められていた。
 戦後は、GHQの「政教分離」の指令によって、神社本庁に属さない単立の宗教法人となり現在に至っている。
大灯籠
 西南戦争の際に黒田清隆によって編成された「別動第2旅団」が、1877(明治10)年4月に熊本城において西郷軍と激烈な戦いを展開した。1880(明治13)年、戦没者の供養のため花崗岩製の見事な灯籠が奉納された。
清朝の狛犬
 日清戦争の際に朝鮮の海城にあった三覚寺にあったものを山県有朋が「譲り受けて」明治天皇の展覧ののちに靖国神社に置かれた。しかし日清戦争時に遼東半島から「捕縛」したという史料もある。
大鳥居(第一鳥居)
 現在の鳥居は1974年に再建された。柱の高さ25メートル、笠木の長さ34メートル、重さ約100トン。これに匹敵する鳥居は和歌山県の熊野神社の本宮にあるのみ。
常陸丸殉難記念碑
 日露戦争の際にロシアのウラジオ艦隊によって撃沈された輸送船常陸丸の戦没者を記念した碑。1934(昭和9)年に建てられた。当初は軍人会館(九段会館)の敷地内にあったが占領期に撤去されて3つに分断されていた。地下鉄工事の際に掘り起こされて、1965年に再建された。
田中支隊忠魂碑
 大正7年(1918)7月、アメリカはシベリアに抑留されているチェコ軍捕虜救済のためウラジオストクに日米共同出兵を提議。8月2日、日本政府はシベリア出兵を宣言。最終的には日本・アメリカ・イギリス・フランス、それにカナダ・イタリア・中国による、総兵力2万1000名(日本1万2000名)の共同出兵となった。
 日本は最初、九州小倉駐屯の第12師団、北海道旭川駐屯の第7師団、名古屋駐屯の第3師団が派遣された。田中支隊は第12師団に属した歩兵第72連隊第3大隊である。
 連合軍の支援をうけた反革命勢力は都市部を制圧し、革命派はパルチザン闘争に切り替えた。駐剳日本軍はこのパルチザンと気温零下42度という気象条件に悪戦苦闘することになる。1919年(大正8)2月25日から26日かけてアレクセーエフクの西北、アムール鉄道ユフタ駅付近の戦闘で田中勝輔少佐の率いる歩兵第72連隊第三大隊が「最後の一卒に至るまで全員悉く戦死」、救援に向かった野砲兵第12連隊第5中隊と歩兵第72連隊第11中隊の1小隊も衆寡適せず、「歩兵の負傷兵卒五名を除き悉く枕を並べて戦死」、野砲2門も奪われた(『靖国神社忠魂碑誌』第5巻)。忠魂碑は1934年に建設され、第2次大戦後撤去され、九段会館にあったものが昭和館の建設で現在地に設置された。
石灯籠の列
 参道の左右に63基の灯籠が並んでいる。西南戦争の戦死者を悼み1879(明治12)年に華族有志から奉納された。
大村益次郎像
 大村益次郎(1825〜1869)は長州の出身で維新政府に参画し、近代的軍隊の基礎をつくった(「日本陸軍の父」)。東京招魂社(靖国神社の前身)の創建にも力を尽くしたが、大村の急激な兵制改革に反対する守旧派士族に襲われる重傷を負い、 1869(明治2)年に没した。この銅像は、 1893(明治26)年に日本で最初の西洋式銅像として建てられた。高さは12メートル。彰義隊討伐時の容姿で、目線は東北地方を向いていると言われる。かつて足下には弓矢をデザインした鉄柵と大砲8門が配置されていたが、1943(昭和18)年に撤去されて陸軍省に献納された。
大灯籠
 日本一大きな灯籠といわれる。高さは13メートルもある。1935(昭和10)年に富国徴兵保険相互会社(社長根津嘉一郎、現在の富国生命)が奉納した。社殿に向かって左側に陸軍、右側が海軍の戦闘場面(日清戦争から満州事変まで)が彫られている。
 戦前戦中に「徴兵保険」という保険があった。これは今でいえば学資保険のように、男子が成長し徴兵されたときに立派に送り出してやりたいと親が契約し掛け金を払い続ける。親が死んだときには掛け金を払う必要は無くなり、徴兵された時や、保険の満期には保険金(祝い金)がもらえる。親としては男子は老後の生活を見てもらう大切な存在であり、それを戦争で失わないように貧しいにも拘わらず徴兵保険に加入する世帯が多かった。この徴兵保険は相当の人気商品だったという。
 徴兵保険専門会社としては、富国徴兵、第一徴兵(下東邦生命、消滅)、第百徴兵(元第百生命、消滅)、日本徴兵(現やまと生命)などがあった。
神門
 1934年に第一徴兵保険会社が奉納した。いわば靖国神社の正門。
能楽堂
 元々は芝の東京タワーのあたりにあったが、1903年に移築された。1881(明治14)年に岩倉具視が華族に呼びかけて完成されたという。
憲兵之碑
 憲兵の任務は監軍護法にあったが、大東亜戦争中は更に占領地の行政にあたった。戦後は憲兵に対する取調は厳しく、言われなき罪に問われて獄死や自決する者も多くいたという。この碑は彼ら憲兵の霊を奉るものである。
神道無念流道場跡
 幕末期、江戸の三大道場に数えられたのが、神田お玉が池・千葉周作の玄武館(北辰一刀流)、南八丁堀大富町・桃井春蔵直正の士学館(鏡新明智流)、そしてこの飯田橋・斎藤弥九郎の練兵館であった。
 神道無念流は江戸中期、下野(栃木県)に生まれた福井兵右衛門を開祖とする。二代宗家戸賀崎熊太郎(武蔵国埼玉郡上清久出身、新田義貞の末裔と称す)の時、麹町二番町に道場を開き、門人3000名に達する隆盛を極めた。
 寛政10年(1798)に越中国氷見郡仏生寺村に生まれた弥九郎は、貧しい中で寺僧について学問を修めたり、商家に奉公したりした末、15歳で江戸に出て、旗本の従者となる機会を得て、熊太郎の高弟・岡田十松が神田に開いた撃剣館に入門した。同門に韮山代官の江川太郎左衛門や水戸藩の藤田東湖、蛮社の獄で知られる渡辺崋山がいた。練兵館は江川の支援で開かれたという。弥九郎の息子たちが武者修業中、長州で無類の強さを発揮したことから、門人には桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作・品川弥次郎ら長州藩士が見られる。練兵館との直接的関わりはないだろうが、新選組の芹沢鴨(水戸天狗党、神職出身?)も神道無念流の免許皆伝であった。
遊就館
 1881(明治14)年に建設された遊就館は戦前最大の国立軍事博物館として軍事主義思想の普及に大きな役割を果たした。1934(昭和9)年には本館の両側に国防館が建設され、近代兵器の実物、爆撃機の搭乗体験、戦闘シーンのジオラマなどが展示されるようになった。敗戦後、遊就館は閉鎖され建物は富国生命に貸与されたが、1986年に再び博物館としてオープンした。
 建物としての遊就館は1931年に竣工した。設計は陸軍省経理局建築課(陸軍技師内藤太郎・柳井平八、顧問伊東忠太)。また靖国会館(旧国防館)は1934年に同じく陸軍省経理局建築課によって設計された。
戦没軍馬慰霊像
 日本軍は欧米の軍隊に比べて機械化が遅れ、自動車の代わりに馬が輸送手段として大きな役割を果たした。中国戦線・太平洋戦線において70万頭が戦没したといわれている。1958(昭和33)年に建立。
鳩魂の塔
 伝書鳩は電信が十分に発達していなかった頃には有効な通信手段だった。1929(昭和4)年、東京中野の陸軍電信隊内に鳩のブロンズ像が造られた。その後、この像は上野動物園に移され、戦後の1982(昭和57)年に靖国神社に復元・奉納された。
海防艦
 海防艦とは、最初は北洋での漁業保護の為に、後には南方との航路護衛の為の艦艇で、小型であるが良好な航海性能を持った護衛艦艇である。日本は大陸や北洋の警備に旧式駆逐艦を使用していたが、ロンドン軍縮条約により駆逐艦の保有を制限され、条約の制限外である護衛用の小型艦を建造した。
 この計画によって占守型が造られ、太平洋戦争の開戦後、占守型に若干の改造を施した択捉型・御蔵型・鵜来型を建造した。さらに小型・簡略化した丙型、戦時標準船用のタービンを搭載した丁型も生まれた。建造数は171隻。苛烈な護衛戦で72隻が失われ、生き残った艦の多くは復員業務に従事した後、賠償艦として連合軍に引き渡された。何隻かは海上保安庁の巡視船として昭和30年代後半まで活躍した。

4.参考情報

4.1. 江戸城略年表

和暦 西暦 記事
長禄元 1457 太田道灌、江戸城を築城する
天正18 1590 徳川家康の居城となる
慶長11 1606 江戸城大増築工事、外曲輪の完成
慶長12 1607 天守・北の丸完成
慶長16 1611 西の丸、吹上の拡張工事
元和8 1622 本丸の大改造工事、本丸御殿・天守台石垣の改築
寛永11 1634 西の丸御殿焼失
寛永12 1635 二の丸拡張工事、翌年完成
寛永13 1636 江戸城の外郭・内郭完成
明暦3 1657 明暦の大火により天守・本丸・二の丸・三の丸御殿焼失
万治2 1659 本丸御殿再建
延享4 1747 二の丸御殿焼失
宝暦10 1760 二の丸御殿、大御所御殿として完成
天保9 1838 西の丸御殿全焼、翌年再建
弘化元 1844 本丸御殿全焼、翌年再建
嘉永5 1852 西の丸御殿全焼、翌年再建
安政6 1859 本丸御殿全焼
万延元 1860 本丸御殿再建(最後の造営)
文久元 1861 天守台石垣を縮小整備、現在の姿になる
文久3 1863 本丸・西の丸・二の丸御殿全焼、本丸御殿は再建されず
慶応元 1865 二の丸御殿完成
慶応3 1867 二の丸御殿全焼
明治元 1868 徳川慶喜、江戸城を出る
明治5 1872 旧江戸城の二の丸・西の丸・吹上を皇居とする
明治6 1873 旧江戸城内の建物の取り壊しを決定、旧西の丸御殿(皇居)焼失
大正8 1919 旧二の丸・三の丸の堀を埋める
大正12 1923 関東大震災により諸櫓・諸門が破損
昭和20 1945 空襲により大手門が焼失
昭和39 1964 北の丸公園を整備する

4.2. 枡形門

 敵が侵入しても直進することができないように、石垣を正方形、あるいは長方形に組んだ城門。塁線が外側に張り出しているものを外枡形、内側で曲がっているものを内枡形と呼ぶ。内枡形の場合、通常外に面した第一門を高麗門、内側の第二門を櫓(やぐら)門とする。