歴史を歩く会 2003年秋
幕末世田谷歴史散歩

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説
4.参考情報


1.実施要綱

【日時】 11月9日(日)(雨天順延 11月16日(日))
      実施の問い合わせは6〜7時までに事務局へ
【集合】 小田急線豪徳寺駅改札前 午前10時
*注意:普通列車しか停車しません
【コース】 豪徳寺駅(集合)
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豪徳寺(招福殿・井伊直弼墓)
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世田谷城跡(昼食)<トイレ>
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勝光院吉良家墓所)
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世田谷代官屋敷ボロ市通り
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世田谷区郷土資料館<トイレ>
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桂太郎墓
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広沢真臣墓
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松陰神社松下村塾(復元)・吉田松陰墓)
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東急世田谷線松陰神社前駅(解散)
【参加費】 1000円(資料代など)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 歩く距離は3キロほどになります。
本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
トイレの場所は限られていますので、係員の案内に注意してください。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

 この世田谷の地は、江戸幕府の3代将軍徳川家光の時代に彦根藩主井伊家の領地となった。彦根藩は、幕末になると江戸湾の警備を幕府から命じられた。やがてペリーが浦賀に来航すると、この世田谷の地は幕末という激動する時代の波に巻き込まれることになる。

◇ペリー来航と世田谷
 嘉永6(1853)年6月3日、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、日本の開国・通商を要求した。江戸湾警備の任にあたっていた彦根藩をはじめとする会津・川越・忍の四藩は、多くの藩士・領民を動員して警備にあたった。彦根藩世田谷領に対しても、御用荷物輸送のための人馬の動員が命じられた。この時は、彦根藩井伊家領世田谷20ヶ村から、まず人足160人・馬35匹が、ついで人足500人が徴発された。
 翌嘉永7年1月11日、ペリーは再び浦賀に来航し、前回の来航の時よりも強硬な態度を示し、艦隊を神奈川沖に停泊させて幕府の回答をせまった。彦根藩は江戸湾の内海警備の任にあったので、またも世田谷領20ヶ村に対して人馬の徴発を命じた。この時は、人足168人、馬30匹が動員され、ついでさらに人足509人、馬36匹が動員されている。これらの動員は、世田谷領の村々にとっては重い負担であったので、村々からその免除を願い出る嘆願書が提出された。

◇条約調印問題と井伊直弼
 同じ年の3月3日、幕府は日米和親条約を締結し、下田・箱館の2港を開いた。さらに安政4(1857)年10月には、前年に来航した米国駐日総領事ハリスが江戸に来て、将軍家定に国書を提出し、さらに老中堀田正睦を訪ねて世界の大勢を説いて通商条約の締結をすすめた。12月になると堀田幕閣は、それについて諸大名に諮問した。幕府の方針は、通商条約に調印して貿易を開始することもやむなしというものであった。諸大名の条約調印についての意見は、ハリスの要求を拒否せよとの意見もあったが、幕府の方針をやむを得ぬと承認する大名が多かった。ただ有力大名のなかには、朝廷の勅許を仰ぐべきだとの意見が出され、幕府としても、調印を国内に納得させるためには、その意見を無視できなかった。そのためやがてハリスとの条約談判が終わり、条約の内容が決まったが、その調印については朝廷との折衝が課題となった。堀田は2月に自ら上京して懸命に勅許の獲得に努力したものの、ついに朝廷からは勅許を得ることはできなかった。
 堀田が京都から帰った3日後の4月23日、彦根藩主であった井伊直弼が大老に就任した。直弼は大老に就任すると、これまで問題となっていた将軍の後継者に徳川慶福を決定した。13代将軍家定の後継者としては、家定の従兄弟で紀州藩主の徳川慶福と徳川斉昭の子である徳川慶喜の二人があげられていた。慶福を支持していたのは、南紀派と呼ばれる井伊直弼ら譜代の有力大名たちであり、慶喜を支持していたのは、一橋派と呼ばれる越前藩主松平慶永らと対立していた。ついで直弼は懸案である通商条約を締結する決意を固め、6月に勅許を待たずに条約に調印したのであった。

◇安政の大獄と吉田松陰
 しかし、この条約調印については、朝廷側や一橋派の大名の不満が激しく、非難は直弼一身に集中した。また在京の志士・浪人たちも幕府に反対する動きをみせていた。直弼はこうした反対派の動きに弾圧を加え、斉昭・慶喜父子をはじめ一橋派の大名を永蟄居・隠居謹慎などに処したほか、反対派の志士である梅田雲浜の逮捕を手始めに橋本左内・頼三樹三郎・吉田松陰らを一斉に検挙するといういわゆる安政の大獄を引き起こした。
 この犠牲者の一人、吉田松陰は、若い頃に兵学を学ぶとともに江戸・長崎に遊学し、世界情勢についての認識を深め、日本の前途について憂えるようになった。最初のペリー来航の時には、浦賀へその様子を偵察に行っている。また再来したペリーの船で米国への渡航を企てたが失敗し、幕府に引き渡され、3年の獄中生活を送ることになる。出獄後、彼は松下村塾を主宰した。この松下村塾からは、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤俊輔(博文)・山県小助(有朋)ら、長州藩尊王攘夷運動・倒幕運動の指導者、そして後に明治政府において長州藩閥の中枢をなす人物が輩出した。しかし吉田松陰は、安政5年12月、老中間部詮勝の襲撃を企てたとして捕らえられ、翌年に処刑されてしまう。時に彼は29歳であった。
 こうした直弼による大獄の断行は、かえって反対派を刺激した。万延元(1860年3月3日、直弼は桜田門外において水戸浪士を中心とする18士に襲われて暗殺されてしまう。いわゆる桜田門外の変である。

 本日見学する豪徳寺には井伊直弼の墓があり、松陰神社には吉田松陰の墓がある。幕末の激動のさなかに、政治的立場こそちがえ、身命を賭けて時代と格闘したこの二人は、同じ世田谷の地に眠っているのである。

3.見学ポイントの解説

豪徳寺
 豪徳寺は山号を大谿山といい曹洞宗の大刹である。江戸時代には彦根藩井伊家の菩提寺として江戸の藩邸で亡くなった藩主らの埋葬地となり、井伊直孝・直弼らの墓所があることで知られる。
 豪徳寺は井伊家の菩提寺となる以前は、当地の領主吉良政忠が創建し弘徳院と称したと伝えられている。最初は臨済宗であったのを、天正年間(1573〜1592)高輪泉岳寺開山の門庵宗開のとき曹洞宗に改められた。その後、井伊直孝(1590〜1659、江戸前期の幕政家、下野国佐野・武蔵国世田谷を与えられる)が大檀那となり、万治2(1659)年、遺言によってこの寺に葬られ、寺名はその戒名(久昌院豪徳天英大居士)にあわせて豪徳寺となった。
 その後、豪徳寺は寛文〜延宝年間(1661〜1680)の大造営事業によって井伊家の菩提寺にふさわしい大寺に旧観を一新することになった。それは押しすすめたのが直孝の娘掃雲院とその母春光院であった。特に掃雲院は若い時から深く仏法に帰依し、豪徳寺の歴史に最も功績があった女性である。
 豪徳寺は掃雲院の多くの堂舎などの寄進によって、井伊家の菩提寺にふさわしい大伽藍をそなえた寺となったが、本堂は宝永元(1704)年の火災によって焼失してしまった。再建には時間がかかり、実に44年後の寛延元(1748)年であった。井伊家の菩提寺といっても、その造営作事などの責務は寺側にあったからであった。
 そのような豪徳寺の経営に井伊家が関与するようになったのは寛政3(1791))年からである。これ以降も年々衆僧の飯米・塩・味噌その他の費用が給されるようになり、寺院運営も順調に続いたようである。
 しかしこのような豪徳寺も維新の変革の波から逃れることは出来なかった。彦根藩の消滅は必然的に井伊家の経済的基盤を崩壊させ、豪徳寺の財政に重大な危機をもたらした。このため多くの建物を除去し新しい時代に即応した寺院として再出発することになった。

【山門】
 一間一戸の四脚門で、切妻造・銅板葺きで両脇に袖塀をつける。基壇は石垣積である。「旧山門」は明治7〜9年に除去され、明治17(1884)年に上棟された。その後関東大震災により大破したが、昭和初期に再建され、今日に至っている。

【鐘楼】
 桁行一間(9.5尺)、梁行一間宝形造で銅板瓦棒葺き、基壇は石垣積。建立年代を示す棟札や文書がなく、確定的年代を決めることは困難であるが、細部の意匠の特徴から江戸時代後期、遅くとも文化・文政期の建立と考えられる。

【仏殿】
 仏殿は掃雲院が藩主直澄の菩提を弔うために造られたものである。正面桁行柱間5間(実長58.6尺)、側面梁行柱間6間(実長52.2尺)、一重裳階付き、入母屋造り、新舎及び裳階屋根を瓦棒銅板葺きとする。基壇は石垣積。昭和57(1982)年から続けられた調査によって土蔵から仏殿の棟札が発見された。この棟札によると仏殿の建立は延宝5(1677)年である。豪徳寺は宝永元(1704)年に火災にあっているが、仏殿は被災を免れたと考えられている。しかしながら数度の修改築がなされて、かなりの部分が後世のものである。

【忠誠公神道碑】
 明治38(1905)年12月に井伊直弼の嫡子直憲の遺徳をしのんで建立された碑である。直憲の弟直安の篆額。書は彦根藩出身の有名な書家日下部鳴鶴(東作は本名)。直憲は直弼と側室里和との間の子で、父直弼の死によって12歳で彦根藩最後の藩主となった。明治17年には伯爵となっている。なお「忠誠公」とは直憲の戒名からきている。
【鳴鶴日下部先生碑銘】
 昭和8年10月建立の碑。西園寺公望の篆額。日下部鳴鶴(1838〜1922)は明治・大正を代表する書家である。彦根藩士田中総右衛門に次男で、のち日下部家の養子になる。本名東作。
 明治2(1869)年太政官の大書記となり、三条実美・大久保利通の知遇を受けたが、明治11年利通の死にあい、以後は書に専心した。
 明治13年中国から楊守敬が来日したのを機に厳谷一之らと金石の学をひらく。明治24年中国にわたり、漢・六朝の書を骨子とした書法を究めた。ことに漢隷の正統を伝えた作例は一格をなし、明治・大正期にかけて盛んになり、多くの門下を輩出した。

【高橋瑞子彰功の碑】
 昭和8(1933)年に建立。女性医師の先駆者高橋瑞子の功績をしのんで建てられた。高橋瑞子は嘉永5(1852)年愛知県に生まれている。若くして医学を志したが、女性には門戸が開かれず、産婆学校で学んだ後ようやく済生学舎という男子のみの医学校に入学することが認められて36歳にして医師免許をとることができたという。

【井伊家墓所】
☆井伊氏
 初代直政が遠江引佐郡井伊谷で23代続き、絶えようとしていた井伊家の正統を家康の命で継ぎ、以降家康に仕え、譜代の重臣となる。関ヶ原の戦いの後、近江佐和山城主となり、後に彦根城を築き、西国・中国の大名を抑え、京を守護するという任につく。
 2代目直孝は家康・秀忠・家光・家綱四代に仕え、幕政を補佐し、幕閣内での地位を確立、その後も老中・大老といった重職を務めた。
 直興は、彦根藩中興の英主といわれ、家臣の由緒書の編纂をするなど藩政の整備に努めた。幕末には大老となった直亮が相州警衛を命じられた。
 次の直弼も大老となり、勅許を待たず安政五ヶ国条約に調印、将軍継嗣問題では紀州の慶福(後の家茂)を推し、安政の大獄により反対派を抑えた。安政7(1860)年3月3日、上巳の節句の登城の際、反対派により暗殺されたが(桜田門外の変)、幕府はその死を伏せ、3月30日に大老職を罷免し、翌閏3月30日に病死と発表した。
 次の直憲の時に明治維新をむかえ、明治2(1869)年の版籍奉還後は藩知事となった。江戸時代を通じて国替えがなく、他家から養子をとらず初代直政の血筋を絶やさなかった。
☆井伊家と豪徳寺
 豪徳寺は元は弘徳院といったが、直孝が遠乗りをおこなった際に弘徳院の門前で猫に招かれ寺内に入ると突然の豪雨とともに落雷があった。寺内にいた直孝一行は無事難を逃れ、これが縁で井伊家の菩提寺になったという。
 歴代藩主と菩提寺はこちらを参照してください

☆藩主以外の墓所(河原芳嗣『江戸・大名の墓を歩く』六興出版より)
 直孝女(掃雲院)、同四男直時(広度院)、同側室石居氏(春光院、直澄生母)、直興側室(陽光院)、同(実性院、直通生母)、同(明珠院、直恒生母)、同(青松院、直惟生母)、直通室(本光院)、直惟室(蓮光院)、同側室(普明院、直よし生母)、同(玉光院)、直定側室(浄戒院)、直よし室(清蓮院)、直幸室(梅暁院)、同側室(紅林院)、同(本覚院)、同(智貞院)、直中室(親光院)、直亮室(龍華院)、同継室(耀鏡院)、同側室(法梁院)、直弼室形原昌子(貞鏡院殿柳室智明大姉)、同側室西村里和(柳村院殿翠顔智性大姉、直憲生母)、同秋山静江(柳江院殿心月明円大姉)、直憲室(春照院)、同継室(覚正院)、支藩の越後与板藩直安(直弼四男)

☆桜田殉難八士之碑
 桜田門外の変で亡くなった者4人、重傷を負いそれがもとでなくなった者4人を祀る。明治19(1886)年3月建立。

☆遠城謙道墓
 直弼の忠僕で直弼の政策の正当性を訴え続け、明治34(1901)年に没するまで直弼の墓守をつとめた。

☆他の井伊家ゆかりの寺
 龍潭寺(静岡県引佐町)、龍潭寺(彦根、遠州より移築)、清涼寺(彦根)、永源寺(彦根)、天寧寺(彦根、直弼の供養塔)

世田谷城跡
 烏山川の舌状台地に築かれた中世の城郭跡。現在、世田谷城跡公園として保存されている部分と隣接する豪徳寺の境内も含まれる。二つの曲輪(廓)の間には大きな空堀がめぐり、主廓の西側には空堀に沿って土塁が作られている。また豪徳寺参道にも空堀の様子がうかがわれる。
 城主は清和源氏・足利氏の流れに発する吉良氏の庶流で、室町時代に奥州管領として、斯波氏との勢力争いに敗れた吉良治家が、14世紀後半頃、鎌倉公方足利基氏から領地としてこの武蔵国世田谷郷の地を与えられたという。それ以後、吉良氏は当地に居館を築いて本拠地とし、「世田谷吉良殿」「せたがや殿」などと称された。鎌倉鶴ヶ岡八幡宮には、永和2(1376)年に治家から世田谷郷内の上弦巻半分を寄付するという寄進状が残されている。
 15世紀中頃、吉良成高は太田道灌と結んだが、道灌亡き後は小田原の後北条氏に接近し、子の頼康は北条氏綱の娘さき姫(高源院)を夫人に迎えている。頼康の跡を継いだ氏朝は高源院が前夫堀越(今川)貞基との間に設けた子である。天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅ぼされると、氏朝も世田谷に留まることはできず、下総国生実(現千葉市)に逃れた。翌年、氏朝の子頼久が徳川家康に招かれ、上総国長柄郡寺崎村に1125石を与えられ旗本に列し、蒔田氏を名乗った。
勝光院
 宗派は曹洞宗、山号は延命山。『新編武蔵風土記稿』によると、その昔は浄土宗金谿山龍鳳寺と称したが、その後興善寺と改めた。建武二年の頃、吉良治家の法名興善寺殿月山清光大居士と言う、この人を開基とする説があるが、これは誤りであるとしている。開山は吟峯公禅師、この禅師は文和3年(1354)5月7日に死去、その後天文15年(1546)吉良頼康を中興開基とした。頼康の法名は勝光院殿脱山浄森居士。頼康は永禄4年12月15日卒。頼康の子氏朝は天正元年曹洞宗の天永琳達禅師を招聘、同派の開祖としたこの時、頼康の法名勝光院を寺名とした。氏朝の子頼久(吉良から蒔田に改称)以降は勝光院が一族の墓所となった。
世田谷吉良氏
 吉良氏は足利氏の支族で、三河国幡豆郡吉良荘より起こった。世田谷吉良氏は、室町時代初期に陸奥管領をつとめた奥州吉良氏の後裔で、治家のとき世田谷に本拠をかまえたといわれる。世田谷吉良氏の歴史については不明な点が多いが、戦国期の吉良氏は「太田道灌状」などにあらわれる。文明年間(1469〜87)に成高は太田道灌と結び数度の合戦に及んだようであり、蒔田(横浜市南区)にも居館を構えた。その後、小田原北条氏の勢力が広まると、頼康は北条氏綱の女を室とし、その支配下に入る。1560年頃には、頼康の家臣団はほとんどが北条氏直属となり、名門の吉良氏は名目的存在にすぎなくなった。豊臣秀吉の「小田原征伐」(1590年)が行われた際、当主の氏朝は下総国に逃れており、世田谷城は抵抗もなく落城した。北条氏滅亡後、世田谷吉良氏は徳川氏に従い、江戸時代には幕府旗本として上総国長柄郡寺崎郷に領地を与えられた。1701(元禄14)年の赤穂浪士の一件により吉良上野介の家(西条吉良氏)が断絶したので、この蒔田氏が高家を継ぐことになった。
世田谷代官屋敷
 世田谷代官屋敷は、江戸中期以後、彦根藩世田谷領20ヵ村の代官を世襲した大場家の住居で、大場代官屋敷とも呼ばれている。大名領の代官屋敷としては都内唯一のもので、現存する主屋と表門は、記録から元文2(1737)年のものと考えられている。江戸時代中期の上層民家の旧態をよく残した貴重な建造物であることから、昭和27(1952)年に都史跡に指定されていたが、昭和53(1978)年には住宅建造物として国の重要文化財の指定を受けた。
 大場家は、桓武平氏の末流である大庭景親の子孫と伝えられ、大庭氏滅亡後、三河に逃れ、そこで吉良氏に仕え、吉良氏東下とともに世田谷に定住したといわれている。天正18(1590)年の吉良氏没落後は世田谷にとどまり帰農した。しかし、寛永10(1633)年に彦根藩主井伊氏が江戸屋敷の賄料として世田谷料十五ヵ村を賜ったときに、大場氏は代官に命じられ、それ以後代々代官職を勤めることとなった。代官の職務は、領内年貢の取り立てが中心であるが、その他、多摩川治水、領内の治安維持など、村々の名主年寄を指揮して行なう大変な任務であった。
 代官屋敷内にある世田谷区立郷土資料館は、「世田谷区史」編纂を契機として、区内資料の収集・保存と公開を目的として昭和39(1964)に開館したものである。二千数百点の古文書があり、うち1366点の大場家文書は都の有形文化財に指定されている。
世田谷のボロ市
 旧大山街道にあたる世田谷代官屋敷前の通りで、毎年12月15・16日と1月15・16日の両日にボロ市が開かれる。起源は、北条氏政が世田谷新宿での六斎市(一と六の日の6回開く)を、1578(天正6)に楽市として認めたことからだといわれている。当時の世田谷は、下総・江戸方面と小田原方面の中間宿として栄えていた。しかし北条氏が滅び、徳川氏が江戸に入府すると六斎市は廃れ、年1回の歳市(としのいち)となった。明治になって太陽暦が用いられると1月に初市が開かれて年2回となった。もともと野良着や草鞋などの補修用のボロが集められ売買されたので、ボロ市の名が明治時代になって付けられた。
桂太郎墓
 1847(弘化4)年、萩城下に生まれる。明治維新後、陸軍に入り日清戦争には師団長として出征。1898(明治31)年に第3次伊藤博文内閣の陸軍大臣に就任。1901年、桂内閣を組閣し日露戦争を遂行した。日露戦後は西園寺公望と交代で内閣を組閣する「桂園時代」をつくったが、1913(大正2)年に憲政擁護運動の盛り上がりのために内閣総辞職をした。同年10月10日、東京の自宅で死去した。67才。
広沢真臣墓
 松陰神社参道の西側にある。広沢は1833(天保4)年に萩城下に生まれた。尊王攘夷運動に従事し長州藩政の中心的指導者となる。明治維新後も政府の重要なポストを歴任し、木戸孝允とともに長州藩閥を代表する人物となる。1877(明治4)年正月9日に東京の私邸において暗殺された。39才。最初、東京芝の青松寺(東京港区)に埋葬されたが、後に大夫山に改葬された。
松陰神社
 吉田松陰は1859(安政6)年10月27日に小塚原において処刑された。処刑後数日して長州藩士飯田正伯・伊藤俊輔らが同地の回向院に碑を建て埋葬したが、高杉晋作・伊藤らが1863(文久3)年に荏原郡若林村の毛利家抱屋敷内に移し頼三樹三 郎・小林民部らの遺骨とともに葬った。墓碑には「吉田寅次郎藤原矩方(のりかた)墓」と記されている。また墓の周りには栗原良蔵・同夫人、綿貫治良助、中谷正亮、野村靖・同夫人などの師弟の墓が並んでいる。
 明治維新後、1882(明治15)年に門弟などが松陰神社を創建し社殿を建立し、1908年には伊藤や山県有朋などが松陰50年祭を営み、その際石の鳥居と大変立派な石燈籠30基を寄進した。
松下村塾
 1936(昭和11)年、松陰神社の境内に萩にある建物を模して造られた。元の松下村塾は1842(天保13)年に萩城下の松本村(現山口県萩市椿東)にあった。もとは吉田松陰の叔父玉木文之進の家塾だったが、安政3年ころより松陰が事実上の主宰者になった。村塾は本来、庶民・下級士族の教育機関だったが次第に松陰を中心とした政治集団となっていった。門下からは高杉晋作・伊藤俊輔(博文)・山県小助(有朋)・などの長州藩の攘夷・倒幕運動の中心メンバーが育っていった。松陰死後、村塾は一時廃れたがのちに再興され、1892年ころまでは存続していたという。1907年に村塾域内に松陰神社が創建され、村塾ともに現在まで伝えられている。
吉田松陰
 1830(天保元)年、萩城下に生まれ代々山鹿流兵学師範である吉田家の養子となる。江戸に遊学をするも1854(安政元)年にアメリカ船に乗りこもうとし失敗し幽閉されのちに獄に入れられた。後に藩の許可をえて松下村塾を開いた。兵学・儒学を論じ名利のための学を否定し、国家経世の学を説いた。安政の大獄のために江戸に幽閉され1859年に刑死した。30才。

4.参考情報

4.1. 井伊家歴代藩主と墓所

『藩史大事典』より抜粋
番号 よみ 戒名 備考
1 直政 なおまさ 祥寿院清涼泰安大居士  
2 直継 なおつぐ 月山了照 上野国安中に分知、通常2代目には数えない
3 直孝 なおたか 久昌院豪徳天英大居士 直継弟
4 直澄 なおずみ 玉龍院忠山源功大居士  
5 直興 なおおき 玉長寿院覚翁知性大居士 直澄甥
6 直通 なおみち 光照院天真義空大居士  
7 直恒 なおつね 円成院徳巌道隣大居士 直通弟
8 直該 なおかね     直興再封
9 直惟 なおのぶ 泰源院海印指光大居士 直興十三男
10 直定 なおさだ 天祥院泰山定公大居士 直惟弟
11 なおよし 見性院観刹了因大居士 直惟二男
12 直定 なおさだ     再封
13 直幸 なおひで 大魏院弥高文山大居士 直惟三男
14 直中 なおなか 観徳院天寧広輝大居士  
15 直亮 なおあき 天徳院真龍廓性大居士  
16 直弼 なおすけ 宗観院殿柳暁覚翁大居士 直亮弟
17 直憲 なおのり 忠正院殿清節恕堂大居士  
寺:豪=豪徳寺、清=彦根清涼寺、永=永源寺、龍=遠江龍潭寺

4.2. 大名の墓(河原芳嗣による解説より抜粋)