歴史を歩く会 2003年春
競馬場から洋館を訪ねて−根岸・山手歴史散歩−

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説
4.参考資料


1.実施要綱

【日時】 4月13日(日)(雨天順延 4月20日(日)) 
      実施の問い合わせは6〜7時までに事務局へ
【集合】 JR京浜東北線根岸駅改札前 午前10時 
【コース】 根岸駅(集合)
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<バス>
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根岸森林公園(競馬場跡)
  ・根岸競馬記念公苑
  ・旧一等スタンド(馬見所)
  ・根岸米軍キャンプ
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地蔵王廟(中国人墓地)
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打越橋(吉川英治邸跡付近)
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山手イタリア山庭園(昼食)
  ・外交官の家
  ・ブラフ18番館
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山手カトリック教会
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山手公園
  ・テニス発祥記念館
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ベーリックホール
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ブラフ80メモリアルテラス(山手80番館遺構)
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エリスマン邸山手234番館山手聖公会外国人墓地
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解散
【参加費】 1000円(資料代その他)、別途バス代210円
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 歩く距離は4キロほどになります。
本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
トイレの場所は限られていますので、係員の案内に注意してください。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

開港場「横浜」の誕生
 現在の横浜市は、全国第2位の人口をほこる大都市に成長している。その発展の最初となったのはアメリカをはじめとする諸外国との交易の開始であった。安政の5ヶ国条約によると開港地は「神奈川」となっていた。しかし、実際の神奈川地域(現在のJR神奈川駅周辺)は東海道筋にあったことなどから、幕府は当初から開港地を横浜村に設置する方針で臨み、諸外国の外交団の反対をおしきって開港場の建設に着手した。横浜村は、野毛山と山手のふたつの台地に囲まれた土地であり、その海岸線に新たに埋め立てを行い堀川を作り他の地域と隔絶したかたちで形成された。まさしく「第二の出島」として、横浜はつくられたのであった。
居留地の形成
 居留地とは、法的に言えば「慣習上または条約上、外国人の居住・営業を特に定めた一区域」ということができる。近世においては長崎の出島が居留地に似た形態を備えていたが、厳密な意味での居留地が日本にできたのは1858(安政5)年の五か国条約の時である。五か国条約では、箱館・神奈川・長崎・兵庫・新潟などの土地が開港場として認められた。
 居留地では基本的には日本側の行政権は及ばなかった。そのことを「治外法権」と呼び外国人の領土的特権の地位として認められていた。また、同時に外国人がその国の裁判権に服さず外国人本国の法律に基づき、外国人の領事による裁判を受ける権利として与えられていたのが「領事裁判権」である。このように居留地においては日本側はなんら法的な権利を有していなかった。
 しかし、同時にそこには日本独特の法慣習も存在していた。それは、おもに商業上の慣習において顕著だった。
 通商条約において外国人の国内旅行や通商権は否定されており、居留地の外国人(その多くは当初は商人なのであるが)の活動範囲はほぼ居留地内に限定されていた。そのため中国の場合と違い、日本側と外国人商人との取り引きは居留地の限られた地域で行われ、日本独特の「居留地貿易」が行われたのである。そのルートは、輸入品の場合「外国商人→引取商→国内の問屋」であり、輸出品の場合「生産者→売り込み商→外国商人」という形式で確立されたのである。このような居留地貿易の形態の確立により、外国資本の活動は居留地内に閉じこめられ、国内の産業を保護するのに役立った一方、商業取り引き自体は外国資本に有利な状態にあり、このことが明治前半期の商権回復運動を盛んにすることになる。このような特色をもった居留地は、明治期の前半を通して存在し、結局、条約改正が実現する1899(明治32)年に廃止になった。
「山手」の成立
 1863(文久3)年、イギリス・アメリカ・フランス・ロシアの四ヶ国の連合艦隊が下関の砲撃を行った。その1ケ月後、四ヶ国連合艦隊の力を背景に日本人による外国人殺傷事件の頻発を理由とし、諸外国は居留地に防衛のための軍隊を置かせることを幕府に同意させる。それ以後、フランス軍が谷戸橋の近くに兵舎を置き、イギリス軍は現在の港の見える丘公園からイギリス館付近にかけて軍隊を駐屯させた。(両国の軍隊は1875(明治8)年に撤収)
 元治元年、横浜居留地覚書が調印され、居留地の整備・拡充、義勇軍の編成、市参事会の設定、遊歩新道の開設などが決定された。1866(慶応2)年「豚屋火事」と呼ばれる大規模な火災が起こり関内の三分の二近くが焼失した。これを契機としてかねてから不備を指摘されていた横浜居留地覚書の改定交渉が行われた。これにより、現在の横浜公園、馬車道、日本大通りなどの設置が決まり、また山手地区を入札によって外国人に貸し出し、その手数料によって山手の改善を行うことが決められた。これによって現在の関内地区の原形が生まれ、また「出島」政策によって外国人の進出が規制されていた山手地区に居留地が生まれるようになった。
 現在の山手地区と山下町の番地は当時外国人に売却するためにつけられた番号が基本的そのまま使用されている。その点では当時の名残は現在まで続いているのかもしれない。またもともと湿地帯のために湿気が多かった関内地区に比べて、山手地区は居住環境として良好であり、明治・大正期をつうじて多くの外国人住宅がつくられた。しかし、幕末から明治にかけての居留地の町並みは関東大震災によってほぼ壊滅してしまった。今日、山手に残っている建築物のほとんどは大正末期から昭和戦前期のものである。
山手の景観
 現在の山手の景観について以下のようにまとめられるという(以下坂本勝比古「横浜山手の西洋館とその歴史的背景」『都市の記憶−横浜の現代建築(U)』平成8年より引用)。
1)質の高い洋館群の伝統が生きている
2)旧山手居留地の骨格がそのまま生かされている
3)ゆとりのある敷地と緑と西洋館が一体となって豊かな雰囲気のある空間が表出して いること
4)眺望に恵まれた景観が得られること
5)教会や棟屋の象徴的景観
6)山手本通り沿いの変化に富んだ町並み
7)起伏に富んだ地形、緑陰の深い樹木
8)ミッション系学校などの文教施設の集中度が高いこと
 確かに、観光化の波にさらされながら、山手地区はよく住宅地としての条件を維持していると言える。しかし、ここ20年近くの変化をよく見てみると、やはりマンション建設が着実に進行しており、貴重な建築物が破壊されている。その象徴がセント・ジョセフ・インターナショナル跡地の問題であろう。「都市の記憶」をどのように継承していくのか、山手の姿は現在もなお進行している「まちづくり」のあり方を考えさせてくれる。

3.見学ポイントの解説

根岸森林公園根岸競馬記念公苑(「横浜競馬場」跡、競馬発祥の地)
 1867年1月11日(慶応2年12月6日)、日本最初の正式な洋式近代競馬が開催された地(常設競馬場)である。しかし1861(文久元)年、現在の関内地区にある馬場で競馬が行われており、こちらを最初とする説もある。初期には競馬のほかに別当レース(馬丁による徒競走)や人力車レースなども行われていた。明治の政治家や華族・財閥など、上流階級の社交場であり、芸者衆を連れた紳士がスタンド入場を拒否されたというエピソードも残っている。最初は外国人クラブの主催であったが、1880 (明治13)年日本競馬クラブの運営となり、戦時下の1943(昭和18)年6月、海軍に買収されるまで東洋一の競馬場として多くの競馬ファンで賑わった。敗戦後まもなく米軍に接収され住宅やゴルフ場として利用された。しかし日本中央競馬会の下に「横浜競馬場」は依然として存在しており、実際のレースは東京競馬場(府中)および中山競馬場で代行開催されていた。1969(昭和44)年、ゴルフ場を中心とする部分の接収が解除になり、横浜市が1977(昭和52)年10月に森林公園を開園、馬事文化財団が根岸競馬記念公苑・馬の博物館を開いた。1994(平成6)年の競馬法改正により「横浜競馬場」の名前が開催競馬場から削除され、根岸競馬場は名実ともに日本から姿を消した。
旧一等スタンド(馬見所)
 1929(昭和4)年建設。設計はアメリカ人J.H.モーガン。地上7階、延面積7700u、観客席4500席、貴賓室、ラウンジ、騎手室、休憩室などをもつ。かつてはその東側に二等スタンドがあり、こちらは1934(昭和9)年の増築を含め12000席でガラス張りの天蓋ひさしもあった。この新スタンドは完成するまでに5年の歳月を要し、総工費は55億円(?)(『根岸の森の物語』馬の博物館編、神奈川新聞社より)であった。「日本一見やすいスタンド」といわれ、各地の競馬場のスタンドのモデルとされた。これらの建物と敷地は1981(昭和56)年米軍から返還され、当時の大蔵省が文化施設として利用することを条件に横浜市に売却されたが、一等スタンドを除く建物は解体撤去され、公園として整備された。一等スタンドについて、保存活用のための改築・補強に要する費用は数十億円かかるとみられている。なおスタンドの設計図数百枚は現在横浜開港資料館で保存されている。
根岸米軍キャンプ
 根岸の一角(寺久保・根岸台・大平町・竹之丸・鷺山・西竹之丸)が米軍に接収されたのは、1946(昭和21) 年5月5日のことであった。接収地はブルトーザーで整地され基本的に住宅地とされたが、旧競馬場についてはコースの内側が9ホールのゴルフ場となり、空き地は軍用トラックとジープのプールとして使用された。この47.1ヘクタールのうち、16.5ヘクタールが1969(昭和44)年11月24日に接収解除となり根岸森林公園に生まれ変わった。
地蔵王廟
 横浜の中国人は幕末のころは欧米人と同じ墓地に埋葬されたが、1866(慶応2年)年外国人墓地の東側500坪の土地が中国人墓地(貸与)となった。当時中国人の習慣として異郷で死去した人の遺骸は故郷へ送り返した。したがって横浜の墓地は仮安置所で、迎えの船が来ると一旦埋葬した遺骸を香港・広東・上海などの故郷へ帰葬した。 埋葬習慣の違いから欧米人と区別する必要が生じ、神奈川県は1873(明治6)年、久良岐郡大尻(現横浜市中区簑沢)の民有地1000坪を買収し、中華会館(幕末に組織された在横浜の中国人の団体)に貸与した。翌年さらに255坪が追加貸与され、合計1,255坪となり、中国人墓地、中華義荘が開かれた。中華義荘の管理は中華会館が行い、経費は華僑の寄付でまかなわれた。その後墓地が荒廃し、墓参するための祠堂がない状態であったため、1892(明治25)年中華会館の理事が発起人となり中華義荘内に地蔵王廟が建てられた。この廟は関東大震災でも耐えて現存し、現在横浜市の指定文化財となっている。地蔵王廟の中央に安置されている本尊地蔵王像は広東省の省都広州にある聯興街の許友三によって造られ、横浜に運ばれた。
※(注)中華義荘 「義」には仮という意味があり、遺骸の仮安置所という意味が あったのではないかと思われる。現在、横浜在住の中国人も2世、3世の時代とな りここを永眠の地としている人が多くなっている。
吉川英治邸跡
 「宮本武蔵」「新平家物語」などで有名な作家吉川英治は1892(明治25)年に横浜に生まれたが、その生家は現在の南区唐沢7番地付近にあった横浜植木商会のなかの一住宅だったと推測されている。英治は、1901(明治34)年まで同地で生活をし、後に清水町1番地(現南区赤門町1−7)に移転している。
外交官の家
 明治政府の外交官・内田定槌(さだつち)氏が1910(明治43)年に建てた東京渋谷の邸宅を移築、復元したものである。1989(平成元)年、横浜市に寄贈され、1995(平成7)年から山手イタリア山庭園内に移された。設計は立教大学初代学長でもあるアメリカ人建築家M.ガーディナーの手による。19世紀アメリカで発展した建築様式を基本としたもので、明治時代における外交官の生活や文化の一端を窺い知ることができる。
ブラフ十八番館(写真)
 関東大震災直後に山手町45番地に建てられた外国人住宅で、戦後、カトリック山手教会の司祭住宅(司祭館)として1991(平成3)年まで使用された。司祭館新築に際して横浜市に寄付され、1993(平成5)年に現在の場所に移築、復元された。木造2階建て、フランス瓦の屋根、暖炉の煙突、ベイウィンドウ(張り出し窓)、上げ下げ窓、鎧戸、南側のバルコニーとサンルーム、玄関ポ−チなど震災前の外国人住宅の典型的な特徴を残しつつ、外壁は防火を考慮したモルタル吹き抜け仕上げとなっている。
ブラフとは?→ブラフ積み
山手カトリック教会
 1862年、パリ外国宣教会ジラール神父によって居留地80番に建てられた横浜天主堂が開港後の日本で初めてのキリスト教会堂である。同教会は1906(明治39)年、2つの塔を持つ煉瓦造の聖堂を山手44番に建設・移転した。これがカトリック山手教会である。ところがこの煉瓦造教会は関東大震災によって完全に崩壊してしまい、現在の建物は1933(昭和8)年に再建されたものである。尖塔アーチの窓に背の高い鐘塔を持った典型的なゴシック様式の教会建築で、内部には細かな装飾が施された列柱を備える。
 施工にあたったのは1885年創業の横浜大手建設会社・関工務店。この教会は同社が請け負った、初のコンクリート造による建物だという。なお鐘や聖母像は、現在も横浜天主堂の建築当時、フランスから贈られた物をそのまま受け継いで使っているという。
 なお、裏手には煉瓦造りの司教館がある。これは専修大学の創設者の一人で、横浜正金銀行頭取を務めた相馬永胤邸の一部を1937年に東京より移築したものである。建物は1910(明治43)年に建てられ山手では数少ない明治時代のもの。設計者は妻木頼黄。相馬と妻木は1876年、アメリカ留学中以来の深い付き合いで、妻木の代表作・横浜正金銀行は相馬が頭取時代のもの。近年、市の歴史的建造物に指定され、改修に際して玄関ポーチは元の姿に復元された。
山手公園
 1870(明治3)年6月4日(明治3年5月6日)、妙香寺境内に開園された日本初の洋式公園。
横浜は開港以来、外国人居留地として外国商人を迎えるとともに、英仏駐留軍をも受け入れていた。彼ら居留民は、過激攘夷派からの身の安全の確保や自らの健康増進・維持の手段として乗馬を含めた遊散場などの施設要求を行ってきた。特に1865年に来日したイギリス公使パークスは、幕府に対して「公園」という概念をていねいに説いて、用地の提供を要求したという。
 1866年11月26日(慶応2年10月20日)、豚屋火事が起こり、居留地の4分の1、日本人町の3分の1を焼失した。これを機に「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」(第三回地所規則)が締結され、第10条で山手地区の一般住宅地への開放と公園地の提供が取り決められた。しかし、この時には資金難からか、実現には至らなかった。
 その後、明治に入り、1870年1月11日(明治2年12月10日)、居留民代表ベンソン(アメリカ人)、W・H・スミス(イギリス人)らが神奈川県に6000坪の公園用地の借用を出願する。その結果、北方村妙香寺境内の6718坪(約2.2ヘクタール)、山手230番地が貸与されることとなった。造園費用は1株20円で居留民から集め、工事費だけで6000円かかったと報告されている。公園の地券が発行されたのは、開園翌年の明治4年5月4日(これをもって1871年開園説もあった)。地代として年403ドル7セントが確定されている。しかしこれを支払うだけの財源を確保できず、1874年4月、イギリス公使から日本側に公園維持が依頼される。当時、彼我公園(横浜公園)を造成中の政府は、将来、2公園を経営する資金的ゆとりはないと拒絶。ここに登場するのがテニス・クラブである。
 イギリスで近代テニスが誕生したのは1874年のことという。イギリス公使から、レディーズ・ローン・テニス・アンド・クロッケー・クラブ(LLT&CC、横浜婦女弄鞠社)に公園を貸与すれば、年150ドルまでの地代は納められるであろう、との提案を受ける。1878年、いったん公園を日本に返還させた上で、改めて7月1日にテニス・クラブに貸与されることとなった。こうして5面のテニスコートが造られ、山手公園は「日本庭球発祥之地」となる。碑はコートをならすローラーを象った物である。
 クラブは1964年から日本人も会員になれるようになり、ヨコハマ・インターナショナル・テニス・クラブ(YITC)、さらに1982年、社団法人ヨコハマ・インターナショナル・コミュニティーと改称して現在に至り、1998年にはYITC120周年を記念して「横浜山手テニス発祥記念館」が開設されている。
園内のヒマラヤスギの巨木は、1879年(明治12年)にイギリス人ヘンリー・ブルックがインドのカルカッタから種子を取り寄せて植えたものという。
ベーリックホール
 1930年、有名な建築家J・H・モーガンの設計によってイギリス人貿易商ロバート・ベリックが建てた住居である。木造2階建、地下はコンクリート造りの1階で、延べ床面積は600平方メートルを超え、山手の洋館の中では最大級である。南側を開放型とし、外壁の一部に装飾タイルのある、当時はやったスパニッシュスタイルである。
 ベリックは1898年に来日し、洋紙のほか絹や茶の輸入で活躍し、フィンランド名誉領事にも就任した人物である。
 1956年、建物は近くにあるセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールに寄贈され、ベーリック・ホールと名をかえ、寄宿舎として使用されてきた。しかしセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールも2000年7月に廃校になり、建物は処分されそうになったが、横浜市が買収、整備をし、横浜市認定歴史的建造物として公開されている。
ブラフ80メモリアルテラス(山手80番館遺蹟)
 このテラスは関東大震災で倒壊した建物の地下部分遺構である。鉄柱の補強がなされたレンガの3階建て、床面積180平方メートルの浄化槽を備えた建物であったという。当時の雰囲気は基礎だけでもよくうかがえる。
 そもそも1984年、山手の元町公園の歩道工事中に大量のレンガが発見され、その後堀り進むうちに山手80番地にあったこの建物の跡が発掘されたのである。調査によると、この建物は1917年頃チャールズ・ニイル夫妻によって建てられ、1920年以来ウィリアム・H・マクガワン夫妻が住んでいた。マクガワン氏は、1895・96年頃に横浜にやってきて、以後T・M・ラファン商会の番頭格の人物であった。しかし、大震災で夫人を亡くし、それ以後消息が不明となってしまうのであった。
エリスマン邸
 エリスマン邸は、1925年から翌年にかけて山手127番地に建てられた洋館である。設計者は、チェコ人の建築家アントニン・レーモンドである。かれは1919年、フランク・ロイド・ライトの助手として帝国ホテル建設のために来日したが、まもなく東京で独立し、生涯の大半を日本で過ごした。モダニズムの建築家として活躍し、日本の建築界に大きく貢献した。
 建築主のエリスマンは生糸貿易商のシーベル・ヘグナー商会の横浜支配人であったが、1940年に亡くなり外人墓地に埋葬されている。
 この建物は1982年に解体されたが、有名な建築家の設計の洋館ということで、取り壊された部材は横浜市に寄贈され、1990年に元町公園内の現在地に復元された。
山手234番館
 1927(昭和2)年頃、外国人向けの共同住宅(アパート)として民間業者によって建設された。設計は朝香吉蔵、施工は宮内建築事務所。1989(平成9)年、横浜市が歴史的景観保全を目的に取得し、改修工事後、1999年7月から公開している。
 1923(大正12)年の関東大震災は横浜に多大な被害を与えると共に、外国人商人らを遠ざけ、かつての貿易港としての繁栄を取り戻せるか懸念された。そうした横浜復興事業の一端を伝える数少ない遺構の一つと言える。1、2階各2戸が左右対称の間取りで配されている。階段は改修前、玄関から急勾配の鉄砲階段が一直線に伸びていたという。建物中央に光庭があり、採光と風呂の湯気抜きの役割を果たしていた。
山手聖公会教会
 1931(昭和6)年建築。J・H・モーガンの設計。大谷石の外壁を持つ英国中世のスタイル(ノルマン風とアングロサクソン風の混合)。山手聖公会としては二代目となる。
 モーガンは1874年、ニューヨーク州バッファロー生まれ。1920(大正9)年来日、以後横浜に事務所を構え、1937(昭和12)年亡くなるまで日本で活躍した。その建築物は現在でも全国に点在するが、地元横浜が半数を占め、根岸競馬場各種建築物や外国人墓地の正門などもモーガンの仕事である。また自身の邸宅が藤沢市大鋸に残され、モーガン自身は外人墓地に眠っている。
 初代の建物は 1901(明治34)年のJ・コンドルの設計になるもので、赤煉瓦造であったが、関東大震災により倒壊。英国聖公会の援助のもと、現在の建物が再建された。この建物も、1945年5月10日の横浜大空襲では大きな被害を受け、外壁だけが残された。戦後、1947年、アメリカ聖公会の援助により、抜けた屋根と内部の一部の修復が完了、1993(平成5)年、外壁が張り替えられ、建築当初の風貌に戻されている。なおこの教会は日本聖公会に属している。この教団は、カトリックとプロテスタントの中間としている。
外人墓地
 外人墓地の始まりは、ペリーの二回目の来航(安政元年・1854)の時にマストから甲板に転落して死亡した軍艦ミシシッピー号のウィリアムス二等水兵を山手にあった増徳院の境内に埋葬したことであった。その後、外国人専用の墓地を設置するため幕府は土地を無償で提供した。以来、居留地の外国人の増加にともない墓地は拡大していき、現在では約1.8ヘクタールの敷地に4000以上の墓標がある。墓地には、リチャードソン(生麦事件の犠牲者)、モレル夫妻(鉄道技師)、ワーグマン(明治期のポンチ絵の作者)、ミス・ギダー(フェリス女学院の創設者)などの外国人が眠っている。また墓地の正門はアメリカ人建築家J・H・モーガンの作である。

4.参考資料

ブラフ積み
 山手は丘陵地帯であったために外国人住宅を建設するとき土留が必要であり、石垣が造られた。石垣の石は房州石を用い、棒状の石材を一段のなかに長手面と小口面とを交互にみせる積み方(レンガ積みでいえばフランス積み)に特徴がある。これは山手地区に広く見られるためブラフ積みといわれる。
 またブラフ積みとセットで築造されたものに街路の石造側溝がある。これは伊豆石を用い石材を凹面状に削り造ったものでブラフ溝という。山手カトリック教会から山手公園沿いに桜道に降りる坂道にこのブラフ溝が復元保存されている。
セント・ジョセフ・インターナショナル
 セント・ジョセフ・インターナショナルは、1901(明治34)年に外国人子弟 の教育を目的としてフランス系日本マリア会によって設立された。東京の暁星 学園、長崎の海星学園との関係が深い学校であった。ところが経営難を理由に 1995年に廃校が決定された。卒業生の中には芸術家のイサム・ノグチ、俳優の 岡田真澄、ノーベル科学賞を受賞したピダーセン教授などがいる。
 ベーリック・ホールは残されたが、スワガー設計(1934年)の「講堂兼体育館」は、高低差のある土地の形状に合わせ、限られた敷地面積を有効に利用した4層の大型多目的施設として有名だったが破壊されてしまった。そしてセントジョセフ校跡地に5階建て大型マンションの建設が計画され、地域住民から反対の声が上がり、署名運動が起きている。山手本通り沿いは景観保全のため10メートルの高さ制限がある、しかしこの土地は、学校用地のため15メートルに規制が緩和されており5階建てが計画されている。地域住民からはマンションを建てるのに学校用地の規制が適用されるのはおかしい、跡地周辺は観光客でにぎわう市内有数の景勝地で計画どうりマンションが建設されると景観を損なう恐れがあり、交通渋滞も懸念されるなどの声が上がっている。