歴史を歩く会 1999年春
町田の近代を歩く−新撰組・自由民権・政友会−

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 4月18日(日)(雨天順延 4月25日) 
      実施の問い合わせは6〜7時までに事務局へ
【集合】 午前9時30分 小田急線鶴川駅改札口 
*急行列車は停車しませんので注意して下さい。町田駅から二つ目の駅です(新宿寄り)
【コース】 小田急鶴川駅
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<バス>
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小島資料館(小野路町小野神社)<トイレ>
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一里塚跡
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村野常右衛門生家
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野津田公園(昼食)<トイレ>
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華厳院(村野常右衛門墓)
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民権の森(自由民権の碑・石坂昌孝墓)
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野津田神社
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自由民権資料館<トイレ>
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解散<町田駅・鶴川駅へバスがあります>
【参加費】 1500円(資料代・交通費・入館料込み)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 歩く距離は5キロほどになりますが、起伏のあるコースです。
本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
トイレの場所は限られていますので、係員の案内に注意してください。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

新撰組
 1862(文久2)年、第14代将軍徳川家茂の上洛に先立ち、羽州浪人清河八郎・幕臣山岡鉄太郎(鉄舟) の協議で浪士隊を結成。翌年2月に300人が上京し、京都壬生村を屯所とした。しかし清河の真意が尊王 攘夷にあったことが知れ、江戸に戻すこととなる。京都にとどまった一部が新撰組を結成し、「誠忠」の旗印 のもと、京都守護職松平容保の配下となり、禁門警備と京都市中取締りに当たることとなった。水戸天狗派 の局長芹沢鴨らを1863年9月に粛清した近藤勇は試衛館道場(養父、天然理心流近藤周助の道場)の仲 間、土方歳三・沖田総司らと隊の実権を握った。
 1864(元治元)6月、池田屋事件で、市中に放火し、その隙に乗じて天皇を奪取しようと企てた尊攘激派 の宮部鼎蔵(肥後)・吉田稔麿(長州)らを斬殺・捕縛して、「壬生浪」の名を高めた。その後も、翌7月の長州 藩による禁門の変を始めとして尊攘派抑圧に功績を挙げた。隊は江戸から伊東甲子太郎・篠原泰之進らを 迎え拡大するが、結成以来の同志であった山南敬助の脱走・切腹、伊東一派の離脱から一派斬殺という暗 い局面も迎えた。
 1867(慶応3)年6月、近藤は見廻組頭取として幕臣に列せられる。しかし翌年、旧幕府軍に属して戦っ た鳥羽・伏見の戦いで破れ、残党を率い、海路江戸へ逃れた。
 旧幕府の恭順派は主戦派の近藤に甲陽鎮撫隊を結成させ、甲府へ向かわせた。途中、故郷の多摩で歓 迎され日時を費やしたため、既に甲府城は官軍の手に落ち、取り戻すことはできなかった。勝沼で新政府軍 に破れ、のち下総流山で捕らえられ、1868年4月25日、板橋で斬首された。
 副長の土方は会津・函館と転戦し、1869(明治2)年5月11日、五稜郭の戦闘で銃弾に倒れた。
 近藤は江戸牛込から多摩に出稽古に通っていた。はじめは島崎勝太と称し、近藤勇を名乗るのは1860 年からのことという。1865(慶応元)年、隊士募集のため江戸に来ていた土方に小島家の当主鹿之助は日 野宿佐藤彦五郎方で会っている。この東帰に際し、近藤は鹿之助に伊藤東涯と大石内蔵助の掛け軸を贈っ ている。近藤・土方らと小島家・多摩地方との親密な関係を示すエピソードである。
自由民権運動
 明治政府の官僚専制による近代化に反対し、国会開設・憲法制定・地租軽減・不平等条約改正・地方自治などを求めた政治運動いう。この運動は、大きくいえば3つの流れが合流していた。
 ひとつは1874(明治7)年に板垣退助らの民撰議院設立建白書提出をきっかけとして愛国社を設立した愛国社系政社、ふたつめは大都市の言論界などを基盤に新聞・雑誌・演説会などを行った都市民権派、みっつめが地租改正反対運動などを通じて自由民権運動にめざめて地域で学習・演説・討論会運動にとりくんだ在地民権結社の動きである。これらの主体はそれぞれ政府に不満をもつ士族層、ジャーナリストなどの知識人、県会などの地方民会に勢力をもつ豪農層などであった。それらの流れは、1880年の愛国社第3回大会で合流し、国会期成同盟を結成し、国会開設請願書の署名運動を展開していった。1881年には国会期成同盟は自由党に改組され、82年には大隈重信を党首とした立憲改進党が結成された。
 町田では、やはり豪農層を中心に民権運動が展開していった。豪農の青年層を中心にして学習結社が結成され、町田北部では「責善会」、南部では「琢磨会」が結成された。責善会は石坂昌孝・橋本政直(小野路)・薄井盛恭(上小山田)・村野常右衛門などが参加していたが、彼らは小野路村を中心とした村々の指導者であり、いずれも区長・戸長・村用掛などの経験をへてきた者たちであった。
 全国的な国会開設請願運動の盛り上がりのなか、町田ではふたつの学習結社が合体し、1881年に武相懇親会を結成し、それ以外にも琢磨会(小川村・鶴川村)・相原講学会・養英会(相原村)・凌霜館(野津田村、現在の自由民権資料館の場所)などが結成されていった。なかでも融貫社はこの地域の民権運動の中心的役割をはたしていた。融貫社はその規則の第1条に「本社ハ民権ヲ拡張シ、国民本分ノ権利義務ヲ講明シ、我国立憲政体ノ基礎ヲ確立スル」ことを目的に掲げ、国民が持っている権利と義務を明らかにして立憲政体の基礎づくりをすることをうたっていた。
 自由党が結成されると神奈川県全体で284名が党員となったが、そのうち南多摩郡だけでも93名を数え、南多摩や町田地域が全国でも有数の自由党の拠点となっていった。
 しかし、彼らの運動は基本的に村落の有力者である豪農層を中心としたものであった。政府が集会条例など本格的に民権運動に対して弾圧を開始すると、彼らのなかの一部は運動から離れていった。また1884年以降、松方デフレとよばれる政府の財政政策によって引き起こされた不況によって中小農民が没落していった。多額の負債を負った彼らが困民党と呼ばれる組織を結成し、高利貸しや銀行に抗議行動を起こしていった時、自由党などに結集していた民権家のあるものは困民党と対立し、あるものは仲裁に回ったりした。
 政府を相手にして反対運動を繰りひろげている時は、ある意味では「地域」から離れた運動を展開していくことができた。しかし、困民党騒動のように地域における紛争解決能力を直接問われていった時、多くの民権運動家は自らの運動の限界を露呈してしまったともいえる。
政友会
 正しくは立憲政友会といい、明治後期から昭和前期まで、帝国議会を中心に活躍した、戦前期を代表する政党である。1899年頃より元老・伊藤博文が既成政党の改革を目指して活動を開始するなか、日本最初の政党・自由党の後身=憲政党が伊藤に接近。1900年9月、立憲政友会発会式が開かれ、ここにはじめて衆議院で過半数を制し、貴族院にも影響を持ち得る全国的な体制政党が出現することとなった。
 それゆえ同党は、九州や関東周辺域に地盤を持つ自由党−憲政党以来の壮士的勢力と、伊藤周辺の官僚政治家のバランスの上に、成立しており、初期はかなり不安定な体制であったといえる。しかし同党は、伊藤の後、西園寺公望、原敬と総裁が替わり、特に西園寺総裁期以降、原敬の指導力のもと安定的な大政党となり、1918年、米騒動で寺内内閣が倒れた後、原内閣が誕生し、軍部大臣と外相を除く全閣僚を政友会幹部によって構成する、本格的政党内閣が打ち立てられた。
 しかし原のリーダーシップによる政友会の伸張は、1921年、原首相暗殺によって終わりを告げ、それ以後は、高橋是清、田中義一、犬養毅と、それぞれ内閣首班には就くものの安定政権を維持できず、とりわけ田中内閣期以降、立憲民政党と二大政党時代に入り、党派争いが激化。その中で政党政治そのものへの支持が失われ、ついには五・一五事件で犬養首相・総裁を失い、以後、軍部の独走を許すことになる。
 町田地域は、野津田村の石坂昌孝が政友会結成に参加し、協議員となって以来、政友会内でも、先に記した関東周辺域を地盤とする旧自由党グループ(自由党関東派)の一つの中核となっていた。石坂の群馬県知事就任以後は、同村の村野常右衛門が、1898年以降、衆議院議員に連続当選し、憲政党以来の生え抜きの政党政治家として、高幡村(日野市)の森久保作蔵らとともに政友会・旧自由党関東派の中心人物となり、1913年、第一次山本内閣時には同党幹事長となる。この時、原は内務大臣であり、村野が原の信頼を得ていたことは、『原敬日記』や『村野日誌』からも見て取れる。
 一方、村野は地域のために努力を惜しまなかった。自ら横浜鉄道(現JR横浜線)監査役や横浜倉庫社長などに就任したことは、このことを物語っているだろう。これらが町田地域を横浜と結びつけ、さらに横浜の倉庫業を押さえることで、地域物産の商品化、ひいては地域の活性化をはかったものといえるだろう。
 実は原敬こそ、このように鉄道や道路を敷設し、地域経済を活性化させることで政友会支持を増やしてきた「地方利益誘導」の第一人者であった。内務大臣を長く続けた原は、その権力を基に積極的に鉄道を敷設し、道路を広げ、各地の支持を得てきた。
 村野は、原の知遇を得ることによって、郷土の先輩・石坂とは違う形で郷土に貢献したといえるかも知れない。

3.見学ポイントの解説

小野路町
 現在の東京都町田市小野路町は、昔は武蔵国多摩郡小野路村とよばれていました。戦国時代には小田原の後北条氏の支配下にありましたが、徳川家康の江戸入封とともに徳川氏の直轄地として代官が置かれ支配されるようになり、はじめは「小野路町」と称されていたようですが、五代将軍綱吉の時世=元禄期(17世紀末)以降、「小野路村」とよばれるようになりました。
 江戸よりは約十里の地、村内を南北に府中から厚木・平塚に至る矢倉沢平塚往還や、「神奈川街道」と呼ばれる日野と神奈川を結ぶ道がはしり、交通上の要地であり甲州街道筋などの脇往還として幕末まで宿駅機能をもたされていました。
 村域は東西・南北とも約一里、地形は中央をなだらかな丘陵にはさまれた小野路川が南北に流れ、谷戸地の景観をつくっていました。
 元禄期以後旗本の領地が置かれるようになり、八代将軍吉宗の享保期(18世紀はじめ)までに、松平氏・岡部氏・山口氏・神谷氏の四家が小野路村に領地=知行地を持つようになり、幕末まで続いていきます。
 文政十年(1827) 、幕府は動揺してきた幕府支配体制を立て直し関東全域の村々の治安維持や命令の徹底を図るために、改革組合村(寄場組合村)の結成を命じました。小野路村は、小野路・野津田・上下小山田・上下図師など多摩郡・都筑郡の村々34ケ村組合の組合寄場となり、村の指導者クラスである橋本家と小島家が寄場名主となって、幕府役人の関東取締出役のもと、明治になるまで組合内の村々の治安維持・地域の情勢把握などに担当しました。また幕末には、この組合をベ−スとして農兵隊が組織され、一揆や打ちこわしと言った動揺する社会情勢への対応がはかられています。
 小野路村は明治維新の後、神奈川県下に入り、明治二十六年(1893)三多摩の東京府移管に伴い東京府に編入され今日に至っています。
小野神社
 創立時期は不明ですが、神奈川県逗子市にある海宝院(曹洞宗)に所蔵される1メ−トル余りの銅鐘(県重要文化財)に、「武蔵国小山田保小野路縣小野大明神宮鐘銘……」とあり、年号は「応永十年癸未冬当縣……大貢十郎四郎」とあり、この武蔵国小山田保小野路縣小野大明神宮が小野神社と考えられています。銘によるとこの鐘は、応永十年(1403)に鋳造されたとありますが、言伝えよると永正十三年(1516)北条早雲が三浦道寸を新井城に攻めたとき陣鐘として用いた言われ、その後、徳川家康の代官頭長谷川長綱が海宝院を建立した際に寄進したされています。明治二十一年(1888)の「村誌」には、祭神は「天下春命或ハ小野篁ノ霊」とあり、天下春命は武蔵の豪族秩父氏の祖神であり秩父神社の祭神でもあります。
一里塚
 一里塚とは、街道の路程標識のために一里(約4キロメートル)の間隔で、塚を道の両側に築いて榎を植えたものです。江戸時代には幕府によって五街道が作られるなど、陸上交通の整備によって宿駅制度が整っていきました。一里塚は街道を利用する人々にとって距離の目安となったのです。
 小野路の一里塚は奥州古道(矢倉沢往還)の途上に位置しており、西へ進むと木曾(町田市木曾町)、相模原の大沼に一里塚があります。この街道は江戸を通らずに奥州へと向かう近道であり、しかも安全であったといわれています。
 元和二(1616)年、徳川家康が亡くなり駿河国(静岡県)の久能山に埋葬されましたが、翌年に家康の遺骸を日光へ移すことになりました。一行は東海道を平塚まで進み、そこで東海道と別れ厚木、座間を通って小野路にも立ち寄りました。この時に幕府は近在の村々に道路の整備を命じ、一里塚も築かれたと考えられています。伝説では、小野路の一里塚を越えて宿の手前の「向坂」を下るときに柩の車軸が折れ、大変難儀をしたそうです。小野路村はこの出来事に対処した報酬として、東海道や甲州街道からの助郷を永久に免除されました。
 現在の小野路は主要道から外れていますが、江戸時代には府中から大磯ヘ向かう鎌倉街道と江戸から
箱根方面へ向かう大山街道の結節点だったのです。。
村野常右衛門生家
 村野常右衛門(1859〜1927)は石坂昌孝とともに町田を代表する民権家である。自由党に入党後大阪事件に連座して有罪となり、1年の禁固刑に服した。出獄後は石坂らと政治活動に復帰し、村会議員、県会議員を経て石坂の後をつぐ形で衆議院議員となった。8期連続当選を果たし、立憲政友会幹事長を務め、晩年には勅撰の貴族院議員にも就任した。また横浜鉄道や横浜倉庫の重役となるなどして経済界でも広く活躍した。村野常右衛門生家は現在の野津田町1083番地にあったが、町田市が村野家から寄贈を受け、解体工事の後野津田公園のなかに移築された。この建物は創建が江戸時代末期にさかのぼり、もともとは茅葺きであったが大正13年に当時としては珍しい鉄板葺きに改築されている。
華厳院
 真言宗の寺院で、寺号は普光山明王寺という。かつては福王寺と号し、天平年間に建てられたとされる。その後、寺は廃れたので、この地にあった明王寺という廃寺に移って中興されたという。江戸時代には、8石の寺領を有した。
 境内の墓地には、村野常右衛門の墓がある。彼の本葬は、昭和2年(1927)10月16日に、この華厳院で行われた。本葬の当日は、会葬者が2000人に達し、鶴川村はじまって以来の混雑となった。町田署では、非番の巡査をふくめた20人が交通整理にあたり、境内は会葬者と花環・弔旗で埋まったという。
民権の森−石坂昌孝の屋敷跡と墓−
石坂昌孝について
 三多摩の自由民権運動指導者として著名である。
 天保12年〈1841〉生。小野路宿の小島為政らと 幕末には小野路村組合の農兵の組織し、また天然理心流道場をつくり、近藤勇らと交流した。
 維新後には区番組制下には戸長などを務め、小野村の郷学舎を設立し、自ら会頭となった。
明治6年11月 第8区の区長・副戸長の一員として「洋教拒絶の会盟」に署名
明治7年5月 権少属に任命されるが、12月に依願免本官
明治11年 多摩郡野崎村の吉野泰三を訪問した際、石坂邸を評して「柴芝を円形に置き洋式の庭を模擬している」と記している。
学習・親睦団体「責善会」を組織する。
明治12年3月 神奈川県会開設。初代議長に選ばれる。
しかし4月には病気を理由に議長辞職願をだし、認められる。
明治13年2月 第3回地方官会議。これを傍聴した全国各府県の県会議員等が国会開設問題を討議したのに刺激され、佐藤貞幹らと東京において神奈川県民懇親会を開く。
12月には府中において武蔵6郡懇親会を開き、国会開設運動に邁進して行く。
明治14年1月 第1回武相懇親会を原町田村吉田楼にて開催。参加者約300。
11月には融貫社を結成大会を原町田吉田楼において開催。
明治15年7月 石坂昌孝・村野常右衛門ら融貫社の中心メンバー自由党に入党。
10月石坂昌孝、東京で開催の板垣退助・後藤象二郎洋行送別会に出席。
明治16年3月 溝駅・鶴間村で武相政談演説会を開催。5月 凌霜館開場式。昌孝等100名以上出席。
10月、八王子広徳館設立開業式 、昌孝世話人
明治17年8月 困民党騒擾に直面、以後仲裁に奔走する。
明治18年 昌孝等自由党員、国会開設期の短縮を建白
明治23年1月 江兆民・大井憲太郎ら再興自由党を結成。昌孝も常議員に選ばれる。
7月第1回衆議院議員選挙、昌孝当選
明治25年2月 第2回臨時総選挙、昌孝当選。
この年自由党関東会の領袖大井憲太郎、自由党に星亨が主導権を握る。
昌孝、星亨の傘下に入る。
明治27年3月 第3回衆議院議員選挙、昌孝当選
明治29年8月 群馬県知事に任命される。
11月の県会の審議中に一度も顔を見せず。
⇒足尾銅山の営業停止を求める内務大臣宛建議を可決。
翌30年4月非職を命じられる。
明治40年 1月13日死去
野津田神社
 創立年代は明らかでない。享保2年(1717)には五社明神と称していたことが「野津田村年代記」に記録されている。因みに『新編武蔵風土記』には「五社社」となっている。明治21年(1888)には御霊神社と称した。明治42年(1909)には上ノ原の春日社、本村の幸山神社、並木の伊勢神社、川嶋の御獄神社の四社をこの御霊神社へ合併して、野津田神社と社名を変更した。現在の社殿は大正15年10月3日に改築されたものである。