歴史を歩く会 1999年秋
品川界隈の維新を歩く

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説
4.参考情報


1.実施要綱

【日時】 11月14日(日)(雨天順延 11月21日<日>))
      実施の問い合わせは6〜7時までに事務局へ
【集合】 午前10時 京浜急行品川駅改札口
*JR品川駅の改札口と間違えないように注意して下さい
【コース】 京浜急行品川駅<トイレ>
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東禅寺<トイレ>
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鯨塚
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台場跡
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法禅寺
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一心寺
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品川宿本陣跡(昼食)<トイレ>
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品川神社(板垣退助墓)
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官営品川硝子製造所跡
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東海寺大山墓地(沢庵宗彭、賀茂真淵、井上勝、西村勝三墓)
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清光院(中津藩主奥平家墓地)<トイレ>
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海蔵寺
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妙蓮寺
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京浜急行新馬場駅<解散>
【参加費】 1000円(資料代など)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 歩く距離は4キロほどになります。
本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
トイレの場所は限られていますので、係員の案内に注意してください。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

→見学ポイントの解説:品川宿本陣跡をご参照ください

3.見学ポイントの解説

東禅寺
 臨済宗妙心寺派、山号は仏日山。1610(慶長15)年、嶺南崇六を開山として赤坂霊南坂に創建、1636(寛永13)年に当地に移る。開基は日向飫肥二代目藩主伊東祐慶(東禅寺殿)。
 1858(安政5)年、日英通商条約の締結により、イギリス公使館とされる。尊皇攘夷運動の高揚の中で、1861(文久元)年5月28日、公使オールコックの東海道旅行に憤慨した水戸脱藩浪士有賀半弥ら14名により襲撃され、公使官員2名が傷を負い、警備の幕府御用出役、郡山・西尾両藩兵にも負傷者が出た(第1次東禅寺事件)。さらに翌1862年5月29日、警備に当たっていた松本藩士伊藤軍兵衛が公使室を襲撃しようとして発見され、水兵2名を殺害したうえで逃走、藩邸で自害して犯人が判明したという事件(第2次東禅寺事件)が発生している。玄関の柱にはその時の弾痕や刀傷が残っているというが、見分けることができるでしょうか?
 →主な外国人殺傷事件も御参照ください
鯨塚
 利田(かがた)神社の社務所の北側にある。寛政10年(1798)5月1日、一頭の鯨が江戸湾に迷い込み、品川沖に姿を現した。長さ9間1尺(約17メートル)の大きな鯨を見ようと多くの見物客がくりだし、ついに11代将軍徳川家斉に供覧された。その後、鯨の骨をこの場所に埋め、塚をたてた。現在の石碑は明治39年(1906)に再築されたもの。
品川台場跡
 嘉永6年(1853)6月にペリー艦隊が来航したことを契機として、幕府は品川沖に11ヶ所の台場(砲台)をつくり、大筒(大砲)を備えて外国船に対する迎撃体制を整えることを決定した。同年の8月から工事を進め、芝高輪泉岳寺台地・品川御殿山などを掘り崩して土を運び、砲台を築いた。しかし、翌年の安政元年(1854)4月に第1〜第3台場、11月に御殿山下台場が完成したところで、日米和親条約の締結や幕府の財政難などの事情により、工事は中止された。
 現在、台場小学校があるあたりは、御殿山下台場跡であり、計画された台場のうち、唯一の陸続きの台場であった。校庭には、台場の石垣であった石でできた碑が建てられている。
法禅寺
 旧東海道から少し南に入った所にある浄土宗の寺である。寺伝によると、南北朝時代の至徳元年(1384)、言誉上人が、この地の草庵にあった法然上人自刻の像を祀って堂宇を建立したのが起こりという。江戸時代は、五代将軍綱吉の生母桂昌院の帰依を受け、寺運も栄えた。
 入母屋造り瓦葺きの大きな本堂と東海七福神の布袋を祀る観音堂があり、さらに流民叢塚碑がある。明治4年に建てられたこの碑には幕末の天保の大飢饉のおり、品川宿で窮死した500余人を当寺が葬ったことが記されている。また安政元年(1854)御殿山から出土した板碑67基が寺に保管されている。
一心寺
 幕末、日本開国を断行した井伊直弼大老を創始者とした寺で、品川宿の町民代表一同によって建立されたと伝えられている。昭和になってからは豊盛山延命院一心寺という寺格を得、成田山分身の不動明王を本尊としている。
品川宿
 目黒川河口に開けた港町。太田道潅時代には、江戸の外港的役割を果たした。徳川家康が1601(慶長6)年に宿駅整備を行い、品川は東海道1番目の宿駅とされ、陸上交通の重要な位置を与えられた。
 1633(寛永10)年頃、給米として26石9斗が与えられ、1640(寛永17)年の曽根吉次・伊奈忠常の巡見で伝馬100匹が仰せつけられた。目黒川を挟み南北に分かれて人馬役を負担していたが、次第に人足は善福寺・法禅寺門前と北側にできた新町でほとんど負担するようになったため、1722(享保7)年、それらの地が歩行新宿として宿に加えられ、旅篭の営業も認められることとなった。問屋場・貫目改所は南北両宿に置かれていたが、1823(文政6)年に大火で両問屋場ともに類焼し、その後は南品川のみとなっている。
 大名・公家などの宿泊に提供された本陣は南北両宿にあったが、南品川のものは早くに廃れ、北品川(現在、跡地は聖蹟公園となっている)のみとなっており、脇本陣は寛政・享和頃(1789〜1804)には北品川と歩行新宿に一軒づつあった。本陣では一般客を泊めることができず、大名らも財政難により利用を控えたり、充分な手当を支払わなくなったため、経営が厳しくなり、1811(文化8)年に消失した時、主人の(鶴岡)市郎右衛門は自力で再建できず、宿が代官所(代官大貫次右衛門)からの拝借金150両を得て再建に充て、以後、品川三宿で本陣を維持することとなり、市郎右衛門は本陣の守役となっている。この時期、脇本陣の所在地も南本宿と歩行新宿に代わっている。
 一般の旅人を宿泊させる旅篭に置かれた飯盛女(食売女)は、1718(享保3)年に各旅篭1軒に2名とされたが次第に数が増え、1720年に新吉原から訴えられた時には、品川三宿で1000余人が抱えられていたという。
 度々、宿への手入れが行われ、過人数の召し捕らえ、営業者の所払い・過料等の処罰を受け、一時衰微することもあったが、1764(明和元)年には大旅篭9軒・中旅篭66軒・小旅篭16軒で500人まで抱えることが許された。南品川宿155人、北品川宿143人、歩行新宿202人という内割りがなされ、一軒毎の定数もあったが、やはり守られるものではなく、1844(天保15)年正月には関東取締出役により、旅篭屋94軒・飯盛女1358人が捕らえられている。 品川宿にとっては大きな打撃であったが、早くも翌年には、南品川226人、北品川207人など、計668人の飯盛女が見られるという回復を見せた。
 このように品川宿に多くの飯盛女が置かれたのは、幕府公認の遊郭である吉原が“北”と称され、値段・品格ともに高級であったのに対し、品川が“南”と呼ばれ、より身近で安価、庶民的な遊興の地として人気があったためでもある。
品川神社
 品川神社は中世以来の古い歴史をもち、「北の天王様」として親しまれている神社で、北品川の鎮守でもある(もとは稲荷神社と呼ばれていた)。そのため境内にはかつての栄華を偲ばせるものが多く残っている。石の階段をのぼったところにある石造の鳥居は慶安元年(1648)の銘があり都内では二番目に古いものだ。寄進者は江戸初期の老中堀田正盛(三代将軍家光に殉死した)である。その手前には備前焼の狛犬がある。文政12年(1829)に品川新宿の吉野屋万蔵が寄進したものである。神社の裏には自由党総裁として有名な板垣退助(1837〜1919)の墓がある。ここはもともと東海寺の塔頭であった高源院(世田谷区烏山に移転)の旧墓地であった。
 国道に面した場所にあるこんもりとした丘は品川富士である。明治2年(1869)に北品川の丸嘉講中によって馬込村(大田区)から移築されたものである。富士信仰の講集団が富士山を模し遙拝所として造ったものだ。毎年7月1日には山開きが行われる。
官営品川硝子製造所
 明治新政府は、殖産興業政策推進のため、明治9(1876)年4月、北品川宿にあった民営の硝子工場(興業社)を買収して、工部省所管品川硝子製造所と改称したのがそのはじめである。翌10年には、イギリス人技師ウォルトンを雇い、操業を開始。ガラス器具、食器類などを製造、銀座に開設した硝子売捌所で販売した。
 ただし、当時すべてを輸入に依存していた板ガラスの生産には失敗し、明治18(1885)年、西村勝三らに払い下げられた。
東海寺大山墓地
 東海寺は、三代将軍家光が沢庵宗彭のために創建した寺院で、寺領500石が与えられ、寺域は4万7240坪にも及ぶ広大なものであった。寺域には堀田正盛、酒井忠勝、細川光尚らが建立した塔頭をはじめ、たくさんの塔頭・諸庵が林立する豪壮な寺院となった。正保2(1645)年、沢庵が没すると、しばらくは無住となったが、幕府は大徳寺五門流の輪番地とした。元禄7年以降、たびたび火災に遭うが、幕府の庇護により、再建されてきた。明治に入り、品川県(東京都世田谷・品川・大田・目黒・渋谷・新宿・中野・杉並・豊島・目黒の各区及び三多摩の一部、新座郡、入間郡の一部)が設置されると、県庁を東海寺に置くこととなり寺域は削られ旧観は失われた。
 →問答河岸の由来も御参照ください

沢庵宗彭墓
 天正元(1573)年、但馬国出石(現兵庫県)に生まれる。14才の時郷里出石の禅刹宗鏡寺に入り、大徳寺派の董甫宗仲などに師事した。この宗仲の影響により、権勢に結びついた五山禅ではなく、反骨と在野の禅、只管弁道を旨とする禅僧への道が開かれた。文禄元(1592)年上洛。大徳寺や堺・大安寺、一凍紹滴(明堂古鏡禅師)の陽春庵などに学び、慶長14(1609)年、36才の若さでには大徳寺153世住持となった。しかし3日で大徳寺を去り、権勢の喧噪を避けて宗鏡寺に隠棲しながら、各地の寺をまわり、多くの寺の復興をはかった。
 寛永4(1627)年、紫衣事件が起こり、幕府により大徳寺が弾圧されたとき、沢庵は意見書を出して幕府に抗議し、ために出羽上山に流刑された。赦免後は、将軍家光の帰依を受け、柳生宗矩らと交流し、晩年、家光により品川東海寺を開き、ここで生涯を閉じた。73才。沢庵漬は、ここで考案されたという説もある。

賀茂真淵墓
 元禄10(1697)年、浜松(静岡県)の賀茂神宮神職岡部政信の子として生まれる。幼いときより漢学にいそしみ、浜松を訪れた荷田春満や、その弟子杉浦国頭、森暉昌らに国学や和歌を学んだ。享保18年、上京して春満に学び、古典や古語の研究をすすめた。また契沖にも師事し、契沖の文献学をも踏まえた独自の学問を樹立した。それは『万葉集』などの研究から日本固有の古代精神の意義を強調し、「国学」の発展に一時期を画するものとなった。『国意考』や『万葉考』は、その代表作といえる。
 春満死後は、江戸に出て春満の養嗣在満らとさらに学事にいそしみ、延享3(1746)年、50才にして和学を以て田安宗武に仕えた。明和6(1769)年死去。73才。本居宣長を始めとして弟子も多く、平賀源内なども一時門下に名を連ねている。

井上勝墓
 天保14(1843)年、萩藩士井上勝行の第3子として生まれる。文久3(1863)年伊藤博文等と脱藩・渡英、ロンドン大学で鉱山・土木工学などを学んだ。明治元(1868)年帰国し、造幣頭兼鉱山正に任官。以後、鉄道建設開始と共に、民部権大丞兼鉱山正。工部省設置と共に、工部権大丞。明治5(1872)年、鉄道開業に際して鉄道頭。6年7月いったん退官するが、7年再任。以後、工部少輔、鉄道局長、技監、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任し、技術官僚の立場から阪神間・京阪間、さらには東京−京都間の鉄道敷設に邁進した。特に東京−京都間の鉄道は、軍事的要請から中山道経由となっていたものを、技術的側面から東海道経由とすることを主張した。26年退官後は、貴族院議員、鉄道院顧問などとして鉄道敷設法の基礎づけを行い、機関車国産化に努力した。43年、ロンドンで客死。68才。

西村勝三墓
 天保7(1836)年、佐倉藩側用人西村芳郁の三男として生まれる。明六社の西村茂樹は長兄にあたる。佐倉支藩の佐野藩で砲術助教をつとめたが、安政3(1856)年脱藩して商人に転じ、横浜で修行した後、慶応3(1867)年、江戸で伊勢勝商店を開業した。
 戊辰戦争では新政府軍総督府の御用商人となり、外国商館との直接取引による銃砲・弾薬の売買で巨額の利益を上げた。さらに新政府の兵部大輔大村益次郎からの軍靴納入の斡旋を受けて、軍靴製造に取り組み、弾直樹とならぶ近代製靴の先駆となると共に、官営品川硝子工場をはじめ多くの官営工場の払い下げを受けて産業資本家・政商なった。
 晩年には日本近世工業史の編纂にかかわり、『日本近世造船史』『日本近世窯業史』などを完成させた。明治41(1908)年1月死去。72才。
清光院
 東海寺の造立後、その広大な境内のなかに、帰依している大名らによって塔頭(たっちゅう)の建立が相次いで行われた。塔頭とは、大寺の山内に本寺を中心として、これに密接して建立される寺院である。この清光院は、慶安2年(1649)年に東海寺の塔頭として建立された。東海寺の塔頭は、明治維新後に庇護者を失って廃絶するものが多かったが、清光院は現在も残っている塔頭の一つである。
 五輪塔や墓碑が建ち並ぶ境内の墓地には、福沢諭吉らが仕えた豊前(大分県)中津藩主奥平家の墓がある。
海蔵寺
 俗称を投げ込み寺という。江戸時代にここに溜牢があり、病死した罪人が祀られている。境内にはさまざまな供養塔がある。罪人たちの遺骨を埋めたうえに観音像を安置した頭痛塚。ここには鈴ヶ森刑場の処刑者や品川遊郭で死亡した遊女も同時に葬られたという。津波によって品川浦にうち寄せられた死体を葬った津波溺死者供養塔(慶応元年銘)。大正4年にたてられた京浜鉄道轢死者之墓。関東大震災のときに品川の海岸にうち寄せられた数十の遺体を供養した大正大震火災横死者供養塔(昭和7年銘)などが主なものである。
妙蓮寺  
 恵日山と号し、長禄元年(1457)に太田道灌が江戸城を完成させた日に創建されたと伝えられている。
 境内の墓地に高木正年の墓がある。高木は安政3年(1856)、南品川の旧家細井半兵衛の次男として生まれ、叔父高木以善の養子となった。蘭学を木村芥舟、法律を大木喬遠・金子堅太郎に学び、明治16年(1883)に25歳で東京府会議員に選出された。その後、第1回総選挙において叔父の平林九兵衛と議席を争い衆議院議員になった。所属政党は改進党・進歩党・憲政党・憲政本党と変わったが、一貫して非政友会という立場であった。41歳のとき両眼を失明し、盲目の代議士として活躍した。昭和9年(1934)に79歳で死去した。
 また墓地の中央には江戸時代初期に幕府転覆のクーデターを企てた丸橋忠弥の首塚がある。

4.参考情報

4.1. 主な外国人殺傷事件

1859(安政6) 7月27日 ロシア海軍見習士官・水兵ら3名、横浜で攘夷派に殺傷される
10月11日 フランス領事の中国人召使、横浜で殺される
1860(万延元) 1月7日 イギリス総領事館傭通弁伝吉殺傷事件(東禅寺門前)
2月5日 オランダ商船長ら2人、横浜で殺される。
12月5日 米国通訳官ヒュースケン、三田で浪士に斬殺される
1861(文久元) 5月28日 第1次東禅寺事件
1862(文久2) 5月29日 第2次東禅寺事件
8月21日 生麦事件
12月12日 高杉晋作・久坂玄瑞ら品川御殿山に建設中のイギリ公使館を焼き討ち
1863(文久3) 9月2日 フランス士官、井戸ヶ谷で殺害される
1864(元治元) 10月22日 イギリス士官2名、鎌倉で殺害される

4.2. 問答河岸の由来

 ある時、東海寺を訪れた3代将軍家光を迎えに出た沢庵に対して、家光が
海、近くして東(遠)海寺というは、これいかに」と問うと、沢庵は「大軍を指揮しても将(小)軍というが如し」と応じたという。