歴史を歩く会 2000年秋
幕末の浦賀を歩く

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 11月12日(日)(雨天順延 11月19日<日>)
      実施の問い合わせは6〜7時までに事務局へ
【集合】 午前10時 京浜急行浦賀駅改札口
*堀之内駅で浦賀行き普通列車に乗り換えてください。横浜駅から浦 賀駅まで1時間ぐらいです。
【コース】 京急浦賀駅
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(バス)
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西叶神社
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愛宕山公園(中島三郎助招魂碑、咸臨丸出航の碑)<トイレ>
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浦賀奉行所跡
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浦賀ドッグ川間分工場跡
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燈明台(昼食)<トイレ>
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千代ヶ崎台場跡
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浦賀番所跡
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(渡船)<トイレ>
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徳田屋跡
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東叶神社(勝海舟断食跡、招魂碑)
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東林寺中島三郎助墓
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東耀稲荷
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顕正寺(中根東里・岡田井蔵墓、香山栄左衛門碑)
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乗誓寺
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京急浦賀駅<解散>
【参加費】 1000円(バス代・渡船賃・資料代など)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 歩く距離は4キロほどになります。
本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
トイレの場所は限られていますので、係員の案内に注意してください。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

近世・近代の浦賀
 浦賀は湾口が狭く奥行きが長く、大型船も入港できる天然の良港であった。近世初頭の浦賀は徳川水軍の根拠地のひとつであった。また徳川家康が外交貿易を積極的に推進しようとするなかで、フィリピンやメキシコのアカプルコとの貿易航路を開くために開港した東国唯一の貿易港であった。そのため浦賀には、イスパニアやオランダ・イギリス人などが滞在し修道院も建築されていた。
 しかし、家康の死後、対外交政策が転換し、長崎・平戸以外の貿易港は禁止されることになった。ヨーロッパ人の来航が禁止されると同時に江戸湾に出入りをする船舶の監視を強化するために三崎と走水に番所が設置され、浦賀は寄港地としての機能を失っていった。
 その後、浦賀は「干鰯」の中継貿易で一時栄えることになった。当時、干鰯は田畑の生産力を高めるための有機肥料として使われていた。鰯漁業は主に関東から東北地方にかけての地帯で行われていた。またその漁にはほとんどが関西方面からの出稼ぎ漁民が行っていた。浦賀はこの干鰯流通の東西の中継としての役割を果たしており、1642(寛永19)年に東浦賀の関西資本の干鰯商人を中心に干鰯屋仲間の設置が幕府によって認められた。しかし1703(元禄16)年のいわゆる元禄の大地震によって関西からの出稼ぎ漁民が引き上げたことと、新興勢力である江戸干鰯問屋の発展によって経営が次第に困難になっていった。
 その後、1721(享保6)年に三崎・走水から伊豆の下田に移っていた船改番所・下田奉行所が浦賀に移転された。これは江戸湾の警護という意味と同時に、房総沿岸・相模沿岸や奥羽・東北地方からの江戸への物資の輸送を把握するという商品流通機構の統制という性格も持っていた。このように政治的・経済的に重要な役割を負わされた浦賀を支える東浦賀村の干鰯問屋の経営が不安定では浦賀奉行にとっても得策ではなかった。1747(延享4)年から房総三国から江戸へ送られる干鰯・〆粕のうち十分の一を東浦賀へ水揚げすることが認められ、東浦賀干鰯問屋は再出発した。しかし、その後も断続的に不漁が襲い、また江戸干鰯問屋との競争も続いていった。
 このように、近世の浦賀は日本の政治的な中心地であり大消費地でもある江戸に流入する物資のほとんどを取り扱う重要な地域であった。それだけに諸外国が接近するなかで海防を考える場合、浦賀を確保することは幕府にとって最重要な課題であった。例えば、浦賀港の前に一ヶ月間、外国船が停泊し続けた場合、どのような事態が起きるか考えてみてください。ペリー来航はまさに江戸幕府の急所をつく形で行われたのであった。

3.見学ポイントの解説

西叶神社(叶明神社・叶神社)
 現代の正式呼称は叶神社であり、西叶神社は通称である。『相模国風土記稿』には叶明神社となっており、寛政5年(1793※1)9月時の浦賀奉行仙石治左衛門が社伝を記して拝殿に掲げたと記されている。養和元年(1181※2)文覚上人が源氏の再興を祈願して山城国石清水八幡宮をここに勧請したと伝えられており、祭神は応神天皇である。
 叶神社は西浦賀の総鎮守であり、浦賀廻船問屋衆の厚い信仰に守られてきた。特に目を引くは社伝の彫刻である。作者後藤利兵衛義光。天保8年(1837)2月1日叶神社は焼失、その5年後社殿は浦賀奉行や廻船問屋衆の協力で再建された。再建費用は2500両とも3000両とも言われている。利兵衛は文化12年(1815)安房国朝夷郡北朝夷村(現在の千倉町)に生まれ、明治35年(1902)に88歳で没した。彫刻に要した費用は411両余といわれいる、精巧な彫刻は浦賀廻船問屋衆の財力と後に名工と言われた20代の若き彫り師のエネルギッシュな姿を想像することができる。
※1 寛政4年(1792)9月ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋幸太夫を護送して根室に来航、通商を求める。
※2 文治元年(1185)3月 平氏滅亡
愛宕山公園
 愛宕山公園は、横須賀市最古の公園で浦賀園と呼ばれ、1891(明治24)年6月に開園した。海よりの登り口には「浦賀園」と刻んだコンクリート板が掲げられ、それをくぐると石段が続き、男坂と呼ばれている。
 この公園にはいくつかの碑がある。中島三郎助の招魂碑はふたつあって、ひとつは高さ4.5メートルで当時の外務大臣榎本武揚の文である。また日清・日露戦争戦没者の忠魂碑もある。咸臨丸出港の碑は、1960(昭和35)年の建立で書は外務大臣藤山愛一郎によるもので、碑の裏側には咸臨丸乗組員96人の名前が刻まれている。
浦賀奉行所跡浦賀番所跡
 江戸時代も享保期になると、江戸の人口は百万を超え、それに伴って江戸に海路で運送される商品も増加した。こうした船の積荷を検査することをはじめとして、「海の関所」の役割を果たしていたのが、浦賀奉行所である。浦賀は江戸湾の入り口であり、港も深くて広いために奉行所の場所として適していたのである。 奉行所前の海岸には浦賀番所が置かれ、ここで廻船問屋たちが浦賀奉行の指揮のもとに船の積荷の検査を行った。浦賀港には、毎月300〜400艘の廻船が入港したという。
 文化・文政期になると、日本へ外国船が来航するようになり、それによって浦賀奉行の職務に江戸湾の警備が加わることになった。江戸湾の相模側の警備は、浦賀奉行を中心として、非常時には川越藩・小田原藩が援護することとなった。天保8年(1837)には、日本人漂流民を送還するためにアメリカ船モリソン号が浦賀へ来航するが、浦賀奉行は異国船打払令に従って、これを砲撃している。弘化・嘉永期になり外国船の江戸湾来航が増加すると、即時に打ち払うことをやめ、外国船には穏便な対応をするようになり、浦賀奉行はその応接を担当することになった。そして、嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航を迎えることになるのである。
浦賀ドッグ
 1853(嘉永6)年のペリー来航の衝撃により、幕府は200年来の「大船建造の禁」を解き、同年11月浦賀に造船所を建造した。ここでは幕府の主力艦鳳凰丸が建造され、咸臨丸もアメリカから帰国後、ここで修理を受けている。しかしその後は1866(慶応2)年に設置された横須賀造船所が中心となり、浦賀造船所は使われなくなった。
 日清戦争後、明治政府の手厚い保護により造船所の建設が相次ぎ、横浜船渠株式会社、因島船渠株式会社などが設立された。そのなか浦賀船渠株式会社は1896(明治29)年9月、榎本武揚らの提唱によって、浅野総一郎などの融資を受け設立された。
 その頃、もうひとつ浦賀に設立された工場が東京石川島造船所浦賀分工場(川間)であった。二つの造船所は激しい受注合戦を繰り広げたが、1902(明治35)年川間分工場は浦賀船渠に100万円で買収された。
 その後、浦賀船渠は第一次大戦時の造船ブームに業績を好転させ、国会議事堂の鉄骨をこの工場で組み立てるというエピソードも残した。昭和10年代に入ると戦争の影響から駆逐艦・掃海艇などを多数進水させた。また戦後はGHQにより賠償工場に指定された。1969(昭和44)年には住友機械工業と合併し、住友重機械工業株式会社となり現在に至っている。
燈明堂跡
 慶安元年(1648)に幕府の命により石川左衛門重勝らによって築造されたと伝えられる木造二階建の日本式の灯台の跡である。一階は番人小屋であり、二階は四方を紙張の障子に金網をめぐらし、その中に銅製の燈明皿を置いて菜種油を使用して海上を照らした。当初は幕府の勘定奉行の所管であったが、元禄4年(1691)から浦賀の干鰯問屋が維持管理し、明治5年(1872)までその役目を果たした。
千代ヶ崎台場跡
 弘化3年(1846)には、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが率いる艦隊が浦賀に来航して通商を要求した。このように外国船の江戸湾来航が増加すると、幕府は江戸湾の警備の強化をせまられた。そのため、浦賀奉行担当の台場(砲台)が新設された。この千代ヶ崎台場は、嘉永元年(1848)に平根山下に新たに築造されたものである。
渡し船
 東西浦賀間約233メートルを時速4ノット、わずか3分で結ぶ、全国でも珍しい海上の「市道」である。現在就航するのは、1998年8月に、就航120周年を記念して建造された「愛宕丸」。大名・公家が使った「御座船」をモデルに造られたという。その時、市道の愛称も募集され、「浦賀海道」に決定している。
 明治初期、民営としてスタートし、1917(大正6)年から浦賀町営、そして1943(昭和18)年に横須賀市に合併され、市営に引き継がれて現在に至る。ただし運行業務は1949(昭和24)年から民間に委託されてきたらしい。現在は1996年から地元の建築会社「ミウラ総建」が担当しているという。通勤・通学から買い物客まで、地元の足としてなくてはならないものとなっている。
徳田屋跡
 徳田屋は江戸時代から明治・大正期まで続いた浦賀を代表する旅館。創業期は不明。
寛政改革で知られる老中松平定信が相模・伊豆を視察した折に止宿したという(1793)。正式に「御用御宿」とされたのは、文化8(1811)年3月からである。
 ペリー来航の嘉永6(1853)年6月、長州藩の吉田松陰が2度目の宿泊をし、佐久間象山と一緒になっている。1992年3月、これを記念して「吉田松陰・佐久間象山相会処(徳田屋跡)」の碑が建てられた。松陰も象山も、これに先立つ嘉永4(1851)年、それぞれ熊本藩士宮部鼎蔵・門弟小林寅三郎を伴って宿泊しているという。
 また安政2(1855)年には松陰と同藩の桂小五郎(木戸孝允)が浦賀奉行所与力中島三郎助から造船技術の教授を受けにやってきた時に宿泊し、安政5年には浮世絵師安藤広重が止宿している。
 残念ながら1923(大正12)年の関東大震災で倒壊後、再興されることはなかった。
東叶神社(叶明神社・叶神社)
 現代の正式名称は叶神社。西叶神社を正保元年(1644)9月19日に勧請し、牛頭天王・船玉明神と合祀した。背後の明神山は小田原北条氏の支城・浦賀城の本丸跡と言われている。山頂にはこの神社の奥宮がある。勝海舟が咸臨丸の艦長に任命されアメリカに渡航する際、ここで航海の安全を祈願して断食したと伝えられている。
 東浦賀は江戸時代前期には、干鰯問屋が軒を列ねていた。干鰯は九十九里浜の地曳網漁で大量にとれた鰯を干して畿内農村の綿作などの肥料としたもので、九十九里浜の漁民から東浦賀の干鰯問屋を経て大阪へ出荷されていた。この商いの繁栄が叶神社勧請の背景と思われる。しかし、元禄以降、現地九十九里浜に集荷問屋が発達し、そこから江戸の出荷問屋を経て大阪へ向かう流通ルートが形成されると、東浦賀の干鰯問屋は衰退していった。
東林寺「忠魂碑」
 境内に入ってすぐ左側にあるこの碑の碑名は陸軍大将大山巌(1842〜1916)の手になるものである。碑の背後にある「忠魂碑建設発起人」碑によると、明治30年3月竣工とあることから、日清戦争の戦死者をまつったものであると考えられる。裏面には碑文や戦死者の氏名、建立年月日、石工名などが刻まれているのが普通だが、この碑には見るべきものがなく、不自然な感じがする。碑の左に建てられている故井上亀之助氏の顕彰碑碑文によれば、占領中の一時期、軍国主義一掃の風潮の中で、この碑は遺棄同様の扱いを受けたものと思われる。おそらくその際に裏面が削り取られたのであろう。なおこの寺は1523年に僧良道がそれまで2つあった寺を1つにまとめることによって誕生した。したがってこの僧を開山としている。
中島三郎助の墓
 中島三郎助(1820〜1869)は浦賀の生まれ。浦賀奉行所筆頭与力として、1853年のペリー艦隊来航時に折衝にあたった。実はこれ以前にも、1846年に来航したデンマークの測量船カラテア号を川越藩士らと共に乗り止める、という経験を積んでいる。
 浦賀奉行の推薦を受け、1855年、長崎海軍伝習所に入り、射撃と砲台築造を学んだ。1859年伝習所廃止のあと、東京築地の海軍操練所の教授方となり、ついで軍艦頭取などを勤めた。戊辰戦争では、開陽丸艦長として五稜郭の戦いに参加。1869年千代ヶ岡砲台守備隊長として、2人の息子と共に戦死した。
東耀稲荷
 1782年創建。祭神は、食保神(うけもちのかみ=五穀をつかさどる神)である。稲荷信仰は、田の神に対する信仰であり、きつねは田の神の使いと考えられたので、きつね尊信の風が稲荷信仰と結合したものとされる。江戸時代になると、稲荷の神格は、防災開運の神として、また、漁村では漁業神として、都市では商工業者の守護神としての性格を持つようになり、その信仰が普及した。
 小さな社であるが、欄干などにはみごとな彫刻が彫られている。古くは顕正寺の境内にあったという。
顕正寺
 東耀山。日蓮宗。
 「海軍大尉香山君碑」…浦賀奉行所与力香山栄左衛門永孝(1821〜77)の子、永隆(1840〜80)の碑で、亡くなった年(明治13年)の8月に建てられている。父の永孝は嘉永6年のペリー来航に際し、副奉行を名乗った中島三郎助に次いで、浦賀奉行をかたって黒船に乗り込んで交渉に当たっている。久里浜での国書受取にも臨席した。富士見宝蔵番・歩兵差図役頭取などを歴任。永隆は長崎で海軍術を学んだが大政奉還後、帰農して一時、巣鴨に住んだ。明治3(1870)年、請われて海軍に復職し大尉にまで昇ったとある。
 中根東里の墓…東里(1694〜1765)は江戸時代の儒学者。伊豆(静岡県)下田に生まれ、僧となって証円と名乗った。還俗して、はじめ荻生徂徠に学んだが、やがてその説に疑問を抱き、室鳩巣に師事する。晩年には陽明学に転じた。江戸を始め、加賀・鎌倉などにも移り住んだが、姉が浦賀奉行所与力の合原家に嫁いでいた縁から浦賀に身を寄せ、最期を迎えることとなった。墓は位牌の形をしており、東里自身が亡くなる1年前に建てたもので、正面と裏面の碑銘は東里自筆のものという。
 岡田井蔵の墓…安政7(1860)年、日米修好通商条約批准書交換の為に米艦ポーハタン号で渡米する正使新見正興らに、木村喜毅(軍艦奉行)・勝海舟(教授方頭取)らを乗せた咸臨丸が随行することとなった。井蔵はその乗組員で、4名の「教授方手伝」の内の一人として名を連ねている。
乗誓寺
 東教山阿弥陀院。浄土真宗本願寺派。開基は源実朝に仕えた平塚入道了源(曽我十郎祐成の子で、母は虎御前)とされる。安貞元(1227)年、阿弥陀寺と号して平塚に創建されたが、文明年中(1469〜87)に東浦賀に移されたという。寛永14(1637)年に現在の寺名に改められた。
 裏手には浦賀唯一の鐘つき堂がある。この鐘楼堂は、1984(昭和59)年12月に再建されたもので、「本願(まごころ)の鐘」と名付けられている。また入り口のイチョウは蓮如上人手植えのものと言われている。