歴史を歩く会 2001年春
近代黎明期の神奈川を歩く

トップページ歴史を歩く会

目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説
4.参考史料


1.実施要綱

【日時】 4月15日(日)(雨天順延 4月22日<日>)
      *実施の問い合わせは6〜7時までに事務局へ
【集合】 午前10時 JR京浜東北線東神奈川駅東口
【コース】 東神奈川駅(集合)
 ↓ 
金蔵院
 ↓ 
熊野神社
 ↓ 
高札場(神奈川地区センター)
 ↓ 
成仏寺
 ↓ 
慶運寺
 ↓ 
本陣跡(第一京浜/滝ノ橋付近)
 ↓ 
神奈川台場跡
 ↓ 
神奈川公園
 ↓ 
幸ヶ谷公園(昼食)
 ↓ 
洲崎神社
 ↓ 
普門寺
 ↓ 
甚行寺
 ↓ 
本覚寺
 ↓ 
大綱金比羅神社
 ↓ 
神奈川台関門跡
 ↓ 
かえもん公園(高島台と高島嘉右衛門)
 ↓ 
内山岩太郎銅像
 ↓ 
上台橋
 ↓ 
横浜駅西口(解散)
【参加費】 1000円(資料代など)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後2時頃を予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後2時頃ですが、場合によってはもう少し時間がかかることがあります。
トイレの場所は限られていますので、係員の案内に注意してください。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

幕末の神奈川宿
東海道の宿場としての神奈川宿
 東海道には「東海道五十三次」といわれるように53の宿場があったが、神奈川宿はその一つであり日本橋を出て三番目の宿場町である。また、港町でもあるとともに江戸とは一日で往復できる距離にあったこともあって江戸時代には多くの人馬が行き来し、たいへんなにぎわいを見せていた。江戸時代も中期以降になると庶民の富士登山や大山参詣が盛んになり、そのシーズンであった6月から7月には神奈川宿もにぎわった。上総・下総(千葉県)から船で渡って来るものもあり、金沢や三浦半島方面から江戸へ行くために船で上陸するものもいた。江戸時代も後期になると神奈川宿の人口は5千人を超え、東海道でも有数の規模の宿場として繁栄した。
宿場の機能と構造
 東海道とその宿場は、幕府や大名の参勤交代のための施設として整備されたが、時代を経るにしたがって庶民の往来も活発になっていった。東海道の宿駅の業務には、公用の御伝馬を継ぎ立てることや旅行者の宿泊・休息施設を提供すること、さらに江戸・大坂間の飛脚の業務があった。宿には、その運営にあたる宿役人がいた。その中でも重要な役目を果たしていたのが問屋であり、人馬の継ぎ立ての一切をつかさどっていた。また、問屋の補佐役として数名の年寄がいた。宿の施設としては、参勤交代の大名や公用の幕府役人、公家が泊まる本陣や庶民が泊まる旅籠屋などがあった。
ペリー来航と神奈川宿
 宿の人馬の継ぎ立てのために、指定された村々から人と馬を出すことを助郷といった。幕末期になると、東海道の交通量は次第に増加の一途をたどり、神奈川宿も助郷によって疲弊していった。特に1853(嘉永6)年のペリー来航以降は、東海道の人馬継ぎ立ての他に浦賀への継ぎ立てが増加した。翌年のペリー再来航の際には、神奈川の警備に明石藩が任命され、神奈川宿を宿所として警備にあたった。この時、応接掛として出張中の奉行らは神奈川宿に詰めた。
開港と神奈川宿
 その後、1585(安政5)年に安政の五カ国条約と呼ばれる通商条約がアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアとの間に結ばれた。そこにおいては神奈川が開港場の一つとされていた。しかし、経済的・軍事的にも重要な東海道に面した神奈川に開港場を設置することは、当時の幕府にとっては避けたいことであった。そこで幕府は当時は東海道からも遠く辺鄙な一漁村であった横浜に開港場を建築し、その既成事実化をはかった。アメリカ・イギリスはこの措置に反対して神奈川開港を主張した。そのため、横浜開港に際して各国は公使館を神奈川に設置したのである。
埋め立てと鉄道
 神奈川宿は近世の絵図を見れば明らかなとおり、海辺に発達した宿場町であった。神奈川の海岸線の埋立は、1859(安政6)年5月、江戸湾海防の一環として構築された神奈川台場から始まる。埋立の土砂は権現山を崩して運んだといわれ、面積は約八千坪(26400平方メートル)であった。台場には砲台が備えられたが、この前年には、各国と修好通商条約が締結されており、数年にして廃されてしまった。
 明治に入り、東京ー横浜間の鉄道敷設が始まると、神奈川県裁判所は野毛浦の石崎から神奈川青木町の海岸まで約1.4km、幅63mを埋め立て、うち中央に9mの線路用地、その両脇に5mずつ公道をとり、残る部分を民間に貸し出すという計画で埋立工事の請負者を募集した。それを落札したのが高島嘉右衛門である。嘉右衛門は、140日間の工事でこの埋立を完成させ、この土地は高島町と名付けられた。
 この後、この一帯の埋立は少しずつ進んで行くが、とりわけ工業化が進んだ明治末以降、工場誘致のための埋立可能な場所として注目された。工場の進出と重なるように海岸線は「神奈川宿」から離れていった。
関東大震災と帝都復興事業
 1923(大正12)年9月1日におきた関東大震災によって、東京と横浜では地震による火災も加わり甚大な被害を受けた。家屋の倒壊や市街地の焼失のために失われた都市機能を回復させる目的で、震災からの復興事業が国家規模で策定された。
 内務大臣であった後藤新平によって積極的に推進された帝都復興事業は、大蔵省による予算の削減や反対派による介入を受けて規模を縮小させながらも画期的な都市計画を実現させていった。丸の内のオフィス街や郊外住宅地の建設は震災後に急激に発達したといわれている。
 当初の帝都復興計画では高速鉄道・道路・運河・港湾・諸官衙の建設など当時における欧米の最新の都市計画案を採用しようとしたが、費用・復興主体・土地買収などの諸問題が生じたため計画規模は大幅に変更された。実現された復興事業には幹線街路と補助街路の建設、運河の開さく・改修、公園の設置、土地の区画整理などがある。
 帝都復興計画は当時の厳しい財政事情と政治的対立の影響が反映したため、規模の縮小を中心として大幅な変容を余儀なくされた。ただし東京と横浜がこの事業によって近代都市へと大きく発展したことは事実である。
横浜大空襲
 1945(昭和20)年5月29日、午前9時から約1時間にわたって横浜の中心部に対して大規模な空襲が行われた。本土空襲は1944年11月から行われたが、当初は昼間高々度からの航空機工場を目標にしていた。しかし次第に大都市市街地に対する夜間焼夷弾の絨毯爆撃に戦術は変更されていった。
 東京大空襲(1945年3月10日)などの大規模な空襲が行われるなか、横浜地域に対しては散発的な空襲のみがあるだけだった。市民のなかには横浜は外国人も多数住んでいるので目標からはずされているのではないかという噂もたっていた。しかし、実際には「大都市焼夷弾攻撃の最終段階」として横浜大空襲は行われたのだった。
 5月29日にB29約500機、P51約100機が飛来し、約2500トン、数十万発の焼夷弾が投下された。投下地域は神奈川区・西区・中区・保土ヶ谷区・南区などに及んだ。特に平均弾着点(空襲の目標)とされた東神奈川駅、平沼橋(横浜駅近く)、市役所近く、お三の宮(日枝神社)近く、大鳥国民学校(本牧)は大きな被害がでた地域だった。
 →参考史料:横浜空襲体験記
領事と公使
領事(consul)
 外国に駐在し、自国の通商の促進と、在留自国民の援助および保護にあたる役職。通常、総領事・領事・副領事などがある。なお、幕末から明治時代にかけて、日本は欧米諸国からその国の者の犯罪を日本の法律では裁けない「領事裁判権」という権利を押しつけられていた。
公使(minister)
 外交使節の一階級。特命全権公使。ほかに弁理公使・代理公使がある。名誉と席次は大使に次ぎ、職務はこれと変らない。国家を代表して他国に派遣される最上位の外交使節。主に任国の政府と外交交渉を行なうのが仕事。

3.見学ポイントの解説

金蔵院
真言宗智積院派。神鏡山東曼荼羅寺金蔵院(『神奈川区誌』では金剛院となっている?)。歴代住職の中に金蔵院良印という人がいる。
 平安時代後期、1087(寛治元)年、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正による創建。
1599(慶長4)年、徳川家康から朱印地10石が与えられた。本堂前に家康「御手植の梅」があり、毎年1月に住職がこの梅の枝を一枝たずさえて江戸城に登城するのが習わしであったという。1712(正徳2)年、当院が別当を勤めていた熊野三社を熊野権現山から当院境内に遷宮(現熊野神社)。
1945年5月29日の横浜大空襲で焼失。本堂は1965年7月、唐破風造瓦葺で再建、1969年11月に落慶法要が営まれた。
熊野神社
 金蔵院と同時に京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正によつて平安時代後期に創建されたと言われている。紀伊国の熊野権現を祀り、「権現様」と呼ばれている。もとは権現山(現幸ヶ谷公園)にあったが、江戸時代中期に金蔵院境内に遷座した。その後、明治維新の際、神仏分離令によって金蔵院と分離した。
 正面の鳥居の左右に大きな狛犬が鎮座している。嘉永年間、鶴見村の石工飯島吉六作と伝えられている。境内の右手に大きな戦没者慰霊碑がある。日中戦争・日米戦争で戦死した21か町出身の312人が祀られている。
高札場
もとは滝ノ橋のたもと、江戸に向かう神奈川本陣がある側にあった。高札場は幕府や領主の法令・掟や伝達事項などを人々に知らせるため、高札に墨書して掲示する場所で、人通りの多い町辻や橋詰め、市場などに設けられた。管理は厳重で矢来をめぐらし、石垣・土盛りなどで、みだりに人を近寄らせなかった。幕府による大高札としては、忠孝・親子札、キリシタン訴人高札、人馬賃定高札などがあった。明治新政府が1868年に示した「五榜の掲示」もこの形式による。
神奈川地区センター前の高札場は、絵図などの史料をもとに復元されたもので、間口約5メートル、高さ3.5メートル、奥行き1.5メートルという大きなものである。センター内には神奈川宿の模型が置かれている。
成仏寺
 鎌倉時代の永仁年間(1293〜99)の草創と伝えられる。京都知恩院の末山で、浄土宗の寺である。三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため、寺地が召し上げられ現在地に移された。
 開港当時はアメリカ人宣教師の宿舎となり、宣教師で医者でもあった「ヘボン式ローマ字」で有名なヘボン博士は本堂に、聖書や賛美歌の翻訳に尽力したブラウンは庫裏(くり)に住んだと言われている。
慶運寺
 浄土宗知恩院末。開山定連社音誉聖観は近江甲賀郡の人で室町時代、芝増上寺の第3世。1868(慶応4)年の大火で焼失し、慶運寺の末寺、神奈川宿の西端にあった浦島院観福寺(浦島寺)と統合し、浦島寺といわれるようになった。観福寺には浦島伝説が伝わっている。『武蔵国風土記稿』は「当寺を浦島寺といひて縁起あり、その文に、かの丹波国与佐郡水の江の浦島が子のことを引てさまざまの奇怪をしるせり、ことに玉手箱など云もの今寺宝とせり、いよいようけがたきこなり」。当寺は幕末開国時にフランスの領事館がおかれた。
本陣跡
 交通量の多い第一京浜(国道15号)は旧東海道を拡幅したもの。滝ノ橋をはさんで、江戸寄りの西之町に神奈川本陣(石井家)、上方寄りの滝之町に青木本陣(鈴木家)があった。
 本陣とは参勤交代の大名や公家・幕府の役人などが宿泊・休憩する格式の高い宿泊施設。利用者からは座敷代・茶代相当分の宿料、祝儀などが下賜された。本陣役は宿駅ができた頃からの旧家が勤め、他に名主役・問屋役などを兼ね、苗字・帯刀を許される者もあった。
神奈川台場
  この台場は神奈川の警備を担当していた松山藩が横浜開港に備えて築造したものであり、横浜とその周辺地域の警備拠点の一つとして機能したといわれている。松山藩大目付柴田才治郎が平野弥十郎・森田屋藤助・出雲屋佐七の三名の商人に台場建設の請け負いを命じ、1859(安政6)年7月に工事が開始された。現横浜市域の農民も資材調達に深く関わっており、彼等には多額の資金が投下されたと考えられる。台場は翌年(1860)6月に竣工し、佐賀藩鋳造の36ポンド砲10門と松山藩鋳造の砲4門が備えられたという。明治維新後も存続し、諸外国との儀礼交換の祝砲の発射地として利用されたが、1899(明治32)年には廃止された。
神奈川公園
 関東大震災の直後、内務省都市計画局において公園協議会が開催された。そこでは都市の全面積の一割を公園や広場にあてるという方針の下で公園計画案が立てられた。横浜に関しては山下公園、野毛山公園、神奈川公園、日之出川公園の四公園が計画された。日之出川公園を除いた三公園は新設が決定し、竣工された後に復興局長官から横浜市長へ維持管理が引き継がれた。
 神奈川公園は民有地の一部と神奈川区有水面を埋め立てて公園とした。神奈川方面には当時人口が比較的稠密であったにもかかわらず付近に児童遊園あるいはこれに準じるような施設がなかったため、児童遊園としての機能を含ませることになった。また京浜国道に面しては横浜市の神奈川公会堂も設置された。公園の面積がそれほど広くないため諸般の施設を十分に完備することはできないが、児童の遊園地としてまた一般住民の休養地としての役割が期待された。
 公園の工事は1927(昭和2)年4月に始まり、昭和4年12月に完成した。昭和5年3月には横浜市へ引き継がれ、4月10日に開園している。公園の中央には噴水池が置かれ、周囲に植えられた樹木や芝によって園内が彩られていた。公会堂としての神奈川会館には講堂、食堂をはじめ集会用の各室のほか園内を見渡せる「バルコニー」もあった。
幸ヶ谷公園
 神奈川宿の山側にあるこの公園は、古くは権現山と呼ばれていた。現在でも坂を登ったところに位置しているが、山というほどの高さではない。
 幕末から明治にかけての神奈川宿及び横浜開港場では海面埋め立てのために大量の土砂が必要とされていた。海に近かったため権現山の土は削り取られ台場や鉄道用地の埋め立てに使われた。現在、幸ヶ谷公園と幸ヶ谷小学校がある丘が権現山の跡になる。公園の奥には眼下に東海道本線などの鉄道が走っており、さらにその向こうには丘の続きが見える。この鉄道用地も土を削り取って開通させたもので、以前は本覚寺のある丘とは一続きであった。
 権現山は古戦場としても知られている。戦国時代、関東管領である上杉一門の家臣であった上田蔵人は、北条早雲に内通して主君に反旗を翻した。この山の上にはそのときの砦があった。管領方二万の大群によって包囲された上田方の砦は、十日間に渡る戦いの後、攻め落とされたと伝えられている。
洲崎神社
 東海道の名残である宮前商店街の脇にある。源頼朝が安房国の安房神社の分霊をこの地に招いたのが、洲崎神社のはじまりといわれている。この周辺の地名の青木町は、この神社にあったご神木のアハギがなまったのが由来といわれている。石鳥居や周囲の地形には『江戸名所図会』に描かれた雰囲気が残っている。
 境内一帯は樹木が繁茂しているため昼間でも薄暗い。しかし歩いてみるといくつかの碑を見つけることができる。歌碑や旧跡碑などのなかには大正4年の大正天皇即位記念碑もある。また「神奈川料理待合二業組合」と寄付者が刻まれた台石には女将の名前が並んでいる。
 神社の前を出ると第一京浜に出るあたりが昔の船着き場である。かつては6月のお祭りには御輿を神社前の海にかつぎ入れ、安房神社の神と対面させる神事が行われたいたという。
普門寺
 洲崎山と号する。もとは洲崎神社の別当寺であった。開港当時はイギリス士官の宿舎にあてられたと言う。
甚行寺
浄土真宗伊勢国一身田専修寺の末、開山は本山14世堯秀。1656(明暦2)年創建された。幕末開港時はフランスの公使館がおかれた。
本覚寺
 鎌倉時代臨済宗の開祖栄西の草創と伝えられる。戦国時代の権現山の合戦で荒廃したが、1573(天正元)年に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めたという。
 開港当時公使ハリスは横浜を眼下に望み、湾内を見通せるこの寺をアメリカ領事館に決めたという。
 神奈川領事であったドーアは、庭の松の枝を払い落とし、この木の上に星条旗を掲げ、さらに寺の本尊を板囲いでおおい、山門を白ペンキで塗り、日本人の立ち入りを禁じたと言われている。
 また、山門脇には1858(安政5)年日米通商条約締結の際、ハリスとの交渉にあたった全権委員・岩瀬忠震(ただなり)を記念する碑が立っている。
大綱金刀比羅神社
 平安時代後期の草創で、飯綱権現をまつり、はじめは後方の飯綱山上にあったという。源頼朝、太田道潅の崇敬を受けた。社殿は1642(寛永19)年に関東郡代伊奈忠治が建立、1776(安永5)年、太田備中守資愛(奏者番兼寺社奉行、のち老中)が再建したこともある。文政(19世紀前半)の頃、現地に移り、明治政府の神仏分離政策によって1869(明治2)年6月21日、大綱神社と改称し、別当普門寺から分離して神主を立てた。1909(明治42)年、金刀比羅権現(海の神)を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。横浜大空襲で被災、堂宇一切を焼失した。神社前の鳥居横あたりが江戸から7番目の一里塚があった場所と思われる。上に見える寺は三宝寺。瑠璃光山と号す浄土宗の寺。幕末から維新期にかけての住職、大熊弁玉は歌人としても知られ、高島山公園には歌碑が建てられている。
神奈川台関門跡
 1859(安政6)年の横浜開港以来、尊攘派志士による外国人殺傷事件が相次いだ。事態を憂慮した幕府は、1860(万延元)年4月に要所に関門や番所を設け警戒にあたった。ここは神奈川宿の東西に設けられた関門のうち、西側の関門の跡である。
高島嘉右衛門(1832〜1914)
 青木町一帯の埋め立て事業請負、鉄道敷設、ガス局建築・経営などで知られる明治初期の実業家。天保3年に江戸で材木商兼建築請負業を営む商家に生まれた。『横浜成功名誉鑑』(明治43年)では彼を次のごとく評している。「横浜市の元勲 高島嘉右衛門君 神奈川青木町1780 明治初年横浜に来り、工事請負及幾多の事業を経営し、当路の貴紳と訂盟す、高島町を埋め立てて鉄路を通じ、…瓦斯局を建設して全市に光彩を加へし等、其事業の雄大にして着眼常に衆人に先立つ」。
 明治7年には横浜行幸中の明治天皇皇后両陛下がガス局を訪問した際に拝謁を許されるなど「家門の光栄ここに至て極ま」った嘉右衛門であったが、同9年に突如としてガス局及び一切の不動産を売却し(この時前者が「ガス局事件」として問題化)、居をここ神奈川大綱山へと定めて隠居生活をはじめた。なお、安政大地震、慶応2年の横浜大火、明治初年太政官札暴落などを通じて材木商として巨利を得た際にはその経営判断に易筮を用いていたといわれる。事実晩年には「呑象」と号して易学に親しみ「高島易断書」の編著者としてもその名が知られた。墓所は神奈川区本覚寺。
内山岩太郎
 1890(明治23)年群馬県前橋町に生まれる。東京外国語学校スペイン語科中退。1917(大正6)年外交官試験に合格。その後、ブラジルなどに赴任。敗戦後、1946年1月幣原内閣より神奈川県知事に起用され、翌年4月第1回知事公選に当選。以後、1967年4月まで4期20年間知事職にあった。占領期にはしばしば占領軍当局との折衝を試みた。在任中に戦後の京浜工業地帯の再建・発展の基礎をなす各種の総合開発事業が行われた。また勤労会館・近代美術館・勤労婦人会館・県立音楽堂などの建設にも携わった。1971(昭和46)年11月19日死去。墓所は鎌倉市の鎌倉霊園にある。

4.参考史料

横浜空襲体験記
 東神奈川駅についた私は、またもや電車は出てしまったばかりであることを知
った。ガランドーの一層すすけてみえる車の一隅に腰かけて、運転手も車掌もい
ないこの車が、出るのはいつのことやらと、ぼんやりとしていた。それでも一人、
二人と一通り座席がふさがったかと思われた頃、駅員の持つメガフォンがけたた
ましく響いた。「待避待避」あっという間の出来ごとであった。私は一つの防空
壕にとび込み、否、投げとばされて、半分気を失ったようである。ふと、振り返
ると、今少し前、座っていた国電の窓という窓、火の舌を出してさながら大蛇
のような形相である。私は目を疑った。誰かのどなる声がして、どなられている
のが自分たちらしいと知って走り出した。(略)
 道路の両側には古い商家が続いていて、いまだ健在であった(これが京浜第一
国道だと思われる)。軒下をゾロゾロと人々が群れをなして走っていくのが見え
た。(略)
 突然、頭上で異様な音がした。ちょうど夕立を思わせるザザーッという音であ
る。ふり仰ぐと、小さな十文字が三つずつ、群れをなして煙の間に現れ、煙の中
に消える。「これが敵機の編隊だな」と思う。間もなくアスファルトの道路に沢
山の筒状のものが、重そうにボトンボトンと落ち始めた。非常に大きなものに見
えたそれらは、必ず地上に当ると、生きもののようにはねあがって(その高さは
私の背丈程もとび上る)再び落ちる。そしてその時は、ドロドロと何か液体を吐
きちらす。吐き出されたその液体は、ドロリとしていて、コンクリートといわず、
柱といわずへばりついて、アッという間に燃え出す。広い道路のあちこちに火の
地図を描き出した。また、その無気味な液体は逃げゆくどこかの婦人の背中にも
へばりつき燃え出し、何か叫んだように思えたが、そのまま道路にころがって助
けよう術はない。或いはまた、その液体は道路に流れ出し、とりもちのように、
燃え出しもせず逃げ行く人々の足をとった。もちろん、私の足許にも何本かが響
きを立てて落ちた。およそ畳一枚に三本から五本位の密度であったと思う。これ
が焼夷弾であった。
小野静枝(市立第一女子商業学校2年生、当時13歳)
横浜の空襲を記録する会編『横浜の空襲と戦災』第1巻(昭和51年)