歴史を歩く会 2001年秋
六浦から鎌倉へ −朝比奈を越えて−

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目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 11月18日(日)(雨天順延 11月25日<日>)
      *実施の問い合わせは6〜7時までに事務局へ
【集合】 午前10時 京浜急行金沢八景駅改札
【コース】 金沢八景駅(集合)
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上行寺東遺跡
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上行寺
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(バス)
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朝比奈切り通し(山越えです)
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十二所神社(昼食)
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光触寺
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明王院
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浄妙寺
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報国寺
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杉本寺
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頼朝の墓大蔵幕府(解散)
【参加費】 1500円(資料代など)、別途バス代200円が必要
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し 時間がかかることがあります。
歩く距離は4キロほどになります。足回りをしっかりして下さい
トイレの場所は限られていますので、係員の案内に注意してください。
特に昼食場所でのトイレに注意。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、
なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

六浦と朝夷奈切通し
 横浜市金沢区の六浦、現在の金沢文庫・金沢八景駅付近から朝夷奈(朝比奈)切通しを越えて、鎌倉へといたる道は六浦道と呼ばれ、鎌倉の外港として栄えた六浦湊と鎌倉中心部とを直結する重要な道であった。鎌倉時代に入ってこの六浦の地を支配したのは、三浦氏の一族和田義盛であった。和田一族の拠点の一つは鎌倉杉本にあった。六浦と本拠地杉本を結ぶ山越えの道を最初に切り開いたのは、義盛の子である朝夷奈三郎義秀であったと伝えられ、たった一夜で切り開かれたという伝説がある。
 和田氏は鎌倉幕府内で着々と勢力を拡大して義盛は侍所の長官となった。しかし、時の執権北条義時は1213年(建保元)5月に和田氏をほろぼした。いわゆる和田合戦である。義盛は義時の挑発にのって挙兵したが失敗し、一族のほとんどが討ち死にした。和田合戦の後、北条氏は六浦の支配に手をのばす。このころ幕府内では、北条氏と三浦氏が主導権争いを続けていた。北条氏は三浦氏との対抗上、良港である六浦の地を確実にその勢力下に収める必要があった。さらに六浦に陸揚げされる物資の運搬のためにも鎌倉と六浦を結ぶ道が重要となる。そこで切り開かれたのが、この朝夷奈(朝比奈)切通しである。『吾妻鏡』には、1240年(仁治元)11月に新道造営を議定し、翌1241年4月に工事に着手したとある。また、同年5月には執権北条泰時が自ら愛馬で土石を運んだという。しかし、現在の研究においては、既に存在した道を泰時が大規模な工事でそれを立派にしたのが朝夷奈(朝比奈)切通しであるという説がある。その理由は、杉本寺など源頼朝以前から存在したと考えられる古寺社がこの地に並んでいるのは、滑川上流から六浦湊へと抜ける交通路が存在していたからこそ生じた現象だというものである。
 北条氏は1247年(宝治元)の宝治合戦で三浦一族を滅亡させて、この六浦の地にその支配を貫徹させていった。称名寺と金沢文庫がその拠点となり、文化の中心ともなった。朝夷奈(朝比奈)切通しの完成によって、鎌倉と六浦の結びつきはさらに緊密となり、六浦は関東各地からの物資の集散地として発展した。また、六浦は製塩地でもあり、塩も他の商品とともに鎌倉へと運ばれていった。ときには、中国からの貿易船が到着し、書物や陶磁器なども六浦に陸揚げされた。
足利氏と鎌倉
 足利氏は源義家の子義国を祖とし、下野国足利を本拠地とする。その所領は鳥羽上皇の安楽寿院に寄進され、のち八条女院領となり、大覚寺統(後醍醐天皇が出る)へと伝えられた。北条氏とは姻戚関係を結びつつも、一族の存続には代々苦心してきた様である。足利高氏(のち尊氏)は後醍醐天皇が1333(元弘3)年、隠岐を脱出して再び討幕の兵を挙げると、鎮圧のために西国に派遣されたが、4月、後醍醐方に寝返り、源氏再興の旗を揚げることとなった。建武中興後、1336(建武2)年の中先代(北条時行)の乱を鎮定した後、鎌倉で新田義貞誅伐の兵を挙げたことで反乱。翌年7月、持明院統の光明天皇を擁立(北朝)、1338(暦応元)年8月に征夷大将軍となった。以後、15代義昭までの室町幕府将軍家となる。
 尊氏は鎌倉には嫡男義詮を南朝への備えとして置いていたが、1349(貞和5)年に彼と入れ替わりに、その弟基氏を下し、鎌倉公方が誕生した。以後、氏満・満兼・持氏と続くが、将軍との対抗意識が強く、ついに持氏にいたって6代将軍義教と対立し、滅ぼされる(1439、永享の乱)。のち、その子成氏が許されて鎌倉に入ったが、関東管領山内上杉氏と合わず、1455(康正元)年、鎌倉を追われ下総の古河に逃れた(古河公方)。
 十二所から浄明寺へ向かう泉水橋から青砥橋のほぼ中間に「公方屋敷址」が残る。歴代鎌倉公方の住居跡である。この地には初め大江広元の屋敷があったが、その子毛利季光が三浦泰村の乱(宝治合戦)に連座したため没収され、のち足利義氏に与えられたという。また別に開府以来、足利義兼の屋敷があったという説もあり、定かではない。

3.見学ポイントの解説

上行寺東遺跡
 上行寺の裏山の一角にあった遺跡が上行寺東遺跡である。この遺跡は、1984年から発掘が行われその存在が明らかになった。遺跡全体は上中下段の3段に分かれており、鎌倉時代のやぐら遺跡である。やぐらとは鎌倉時代独特の葬送施設であり、鎌倉地方全体に見られるもので、武士階級などの墓だと推測されている。上行寺東遺跡では発掘時に100体以上の人骨、瀬戸・常滑の壺、400個以上の五輪塔、各10基程度の宝篋印塔と板碑が出てきた。特に注目されるのは、最上段の丘の遺跡で阿弥陀如来とその全面の平場につくられた建物跡と池と思われる窪地だった。この場所は中世の六浦港を見下ろす場所にあり、この地域全体の霊地・聖地であったのではないかと考えられている。しかし、この貴重な遺跡も保存運動が行われたにも関わらず、マンション建設によって破壊されてしまった。
上行寺
 日蓮宗の寺院。前身は真言宗金勝寺であったといわれている。金勝寺は六浦の丘の上にあった淨願寺の末寺であったとする説があり、上行寺東遺跡は上行寺の奥の院としての役割を果たしていたようである。上行寺の開基は六浦妙法(景光)である。境内には妙法の墓塔と伝えられている石造の多宝塔があり、基部には文和癸巳(2年、1353年)4月24日の命日が刻まれている。また境内に「牛馬六畜供養宝篋印塔」が建っている。基部には文和元年(1352)年の銘文(「牛馬六畜乃至法界平等利益也」)がある。この石塔は牛馬を使い六浦から鎌倉への運送業を商売とする商人たちによって建てられたものと推測されている。
朝夷奈切通し
 鎌倉の「四境・七口」のひとつで、東は六浦(現横浜市金沢区)と接している。やや位置は異なるが久良岐郡と鎌倉郡との郡境もあり、鎌倉を外部から隔てる境界であった。とくにこの切通しは、新道(県道金沢鎌倉線)が拡幅によらず別に作られたため、中世以来の昔の面影をよく留めている。1969(昭和44)年には国の指定史跡となった。
 命名の由来は、鎌倉幕府初代別当・和田義盛の三男、朝夷奈三郎義秀が一夜で切り開いたという伝説によるが、『吾妻鏡』には1241(仁治2)年に北条泰時(三代執権)が開いたとある。『吾妻鏡』の仁治元(1240)年11月30日の条に、「鎌倉と六浦の津との中間に、始めて道路を当てらるべきの由、議定有り」という記載があり、翌1241年4月5日の条には「六浦の道を造り始めた」とある。これは従来の道の改良であったとする説もある。北条氏はこの切通しを交通の安全と鎌倉の防衛を目的に設置した。切通しの軍事防衛的な意義は、最近の発掘調査からも証明されている。朝夷奈切通しの直上には「平場」と呼ばれる防衛遺構が認められ、人為的に造成された地表面が残っている。また地形的には、不透水層である逗子火砕岩層の岩盤になっているため降水が地中深くに浸透せず、ところどころにある湧水が川の水源となっている。近世の紀行文には「ここより又山路にさしかかりてむさしさがみのさかひをこえ朝夷那のきりどほしてふところにいたりぬ。今や空のけしきもはかばかしからぬにやと思ふに雨もふらず、いみじう心ぼそき道の山間ひにて、岩さへおほひかかれるにてぞ有ける。所々よりわきいづる岩間の清水の、後はひとつにながれ落て音はすさまじきまでに聞えて、行んとする道は山川といへるにてや侍らんと思ふに人のかよひぢなり。そのながるる水はいはんかたなく早き瀬なれば、よどむかたもなくてただおちにおちて、こえなんとするに川ならねば舟もはしもあらず。(著者未詳:東路の日記/1767・明和4年)『鎌倉市史 近世近代紀行地誌編』(1985)」とある。なお、切通しの鎌倉側には「梶原太刀洗いの水(鎌倉五名水のひとつ)」がある。梶原景時が頼朝の命によって、この近くにあったとされる上総介広常の邸宅に討ち入ったという話が残っている。
十二所神社
祭神は天神七柱、地神五柱の十二柱。元村社。十二所の鎮守。 『風土記稿』には「按ズルニ光触寺境内ニ熊野十二所ノ社アリ、是ヲ村ノ鎮守トス、サレバ是ヨリ村名モ起リナルベシ」とあり、鎌倉市史はこの説を採用している。勧請はいつ頃か不詳だが、市史は時宗と熊野の関係から考えて、熊野権現社が勧請されたのは光触寺が創建された頃にさかのぼるとしている。
光触寺
 正式名岩蔵山光触寺と号する。時宗、藤沢清浄光寺末寺。開山一遍智真。本尊は阿弥陀三尊。本尊の阿弥陀三尊は通称「頬焼阿弥陀」と呼ばれる。これは盗みの疑いをかけられた法師に戒めとして焼けた水つぎが頬にあてらんとした際、代わりに阿弥陀如来の頬についたという言い伝えに因むものである。(残念ならがら未公開)寺宝の頬焼阿弥陀縁起は現在鎌倉国宝館に寄託されており、現地に残存する数少ない絵巻物として知られる。(『沙石集』にも頬焼の説話が収められている)また本堂脇の石地蔵はもと金沢街道沿いにあり、六浦から来た塩売りが初穂に塩を供えても帰路にみるとなくなっていたことから(地蔵が塩をなめてしまうので)「塩嘗地蔵」と呼ばれるものである。昭和30年代に編纂された『鎌倉市史』社寺編では「門前には家がたちならんで金沢街道の盛んな交通を思わせる」と寺の周辺の雰囲気をわずかながらも紹介している。
明王院(通称五大堂)
 飯盛山寛喜寺明王院五大堂と号する。古義真言宗。京都仁和寺末。嘉禎3年(1235)6月創建。初代の別当は元鶴岡八幡宮の別当定壕、開基は鎌倉幕府四代将軍藤原頼経。本尊は不動明王。五大明王とは不動・降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜叉。
 明王院の創建当時のことは『吾妻鏡』にくわしい。寛喜3年(1231)10月16日、将軍の祈願寺として五大堂建立の沙汰があり、永福寺・大慈寺の境内にその場所を見つけようと、執権北条泰時・連署時房をはじめ評定衆のおもなものと、陰陽師らが巡検したが、結局建設地が確定しないまま五大尊像を造り始めた。貞永元年10月毛利西阿の所領である現在の地に決定。嘉禎元年2月10日に堂が竣功した。境内には総社として春日社を勧請した。頼経が藤原氏出身であるからである。元寇の時には異国降伏祈願が行われた。
浄妙寺
 鎌倉五山第五位。臨済宗建長寺派。山号は稲荷山。1188(文治4)年、足利義兼が相模国酒匂(小田原市)出身の退耕行勇を開山として創建。もとは真言宗で極楽寺と称した。行勇は真言密教を学んだ僧だったが、1199(正治元)年、鎌倉に下向した栄西の門に入り臨済禅を修め、栄西の死後、寿福寺二世となっている。寺の方はのち建長寺開山蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職となり、臨済宗に改め、次いで寺名も浄妙寺とされた。足利尊氏の父貞氏を中興開基とし、尊氏が1331(元弘元)年の父の死後、ここに埋葬した際、その法号浄妙寺殿貞山道観にちなんで浄妙寺と改めたともいう。ただ、地名の浄明寺と表記が違う理由は定かではないようである。本堂の裏に足利貞氏の墓と伝えられてきた宝筐印塔がある。ただし銘は「明徳三年」(1392)となっている。
報国寺
 臨済宗建長寺派。山号は功臣山。1334(建武元)年、元から戻った天岸慧広(仏乗禅師)を開山として創建。開基は足利家時とされるが、別に上杉重兼(宅間上杉氏の祖)とする説もある。ちなみに報国寺のある地は宅間ヶ谷と呼ばれ、宅間上杉氏の故地である。家時は父頼氏が若くして死んだため、跡を継いだが、遠祖源義家の「我七代の孫に吾生替りて天下を取るべし」という家伝の置文があり、その運命の重圧に耐えかねてか、時節未だ到来せず、「我命をつづめて三代の中にて天下を取らしめ給え」と書き置きして切腹したという。孫に当たる尊氏の室町幕府創設を祈念したかの様にも取れるが、その死期も明確ではない。後代における創作とも充分考えられよう。安達泰盛が滅んだ1285(弘安8)年の霜月騒動の前年、安達らとの謀議を疑われた家時が足利家の存続をかけて自刃したと考えられるともいう。竹林の奥に残る五輪塔が家時の墓と伝えられる。
杉本寺
 山号は大蔵山といい、寺の縁起では734(天平6)年、光明皇后の命令で藤原房前と行基により創建され、円仁(慈覚大師)が中興開山となり、花山法皇の命令で、源信(恵信僧都)が十一面観音を安置し、坂東三十三観音の第一番の札所とされたと伝えているが定かではない。1189(文治5)年大蔵観音堂が失火で炎上したときに別当浄台坊は火炎の中に飛込み、無事に本尊を取り出すことができ大いに信仰を集めた。のちには観音みずからスギの木の下に火をさけられたので、「杉の木の観音」と呼ばれるようになったともいう。
 石段を少し上ると仁王門があり、さらに上ると茅葺の本堂があり、堂内には本尊として3体の十一面観音像がある。中央(国重文)は平安後期、右(国重文)は鎌倉中期の秀作である。なお杉本寺を含んだこのあたりは杉本城跡で、三浦氏の一族杉本義宗が築き、南北朝の戦乱にも合戦に利用され、山城のあとが一部にみられる。
源頼朝の墓
 笠石を五枚重ねた簡素な五重搭である。頼朝は稲毛重成が亡妻(政子の妹)の追福のため相模川に架橋した時、その落成供養に出席した帰路、何らかの理由で落馬し、それが死因となったようである。現在の石搭は1779(安永8)年に薩摩藩主島津重豪が再建したもので、それ以前は白旗神社に祀られていた。江戸時代に編纂された地誌である『新編相模国風土記稿』の中には、豊臣秀吉が鎌倉を一覧した際に頼朝の墓(「白旗の祠」)を訪ね、「創業の功に於ては、我足下より優れり、然れども足下と我とは、天下の友たり」と、肩を叩いて笑ったというエピソードが紹介されている。
大蔵幕府
 鎌倉を拠点と定めた頼朝は、1180(治承4年)10月、大庭平太景義を奉行として、大倉郷の新しい邸の建設を開始した。12月には「新亭」が完成し、移転の儀式が行われている。ここには頼朝・政子の住まいだけではなく、政所・侍所・問注所、また御家人の館も造られた。これに伴い、周辺の村里に名が付けられ、道も整備され、家々が軒を連ねて賑わいを見せるようになっていった。北条泰時によって若宮大路に移されるまで、幕府の拠点として政治的機能を果たしたのであった。