歴史を歩く会 2002年春
春の大磯を歩く −東海道・海水浴・別荘地−

トップページ歴史を歩く会

目次

1.実施要綱
2.概説
3.見学ポイントの解説


1.実施要綱

【日時】 4月14日(日)(雨天順延 4月21日<日>)
      *実施の問い合わせは6〜7時までに事務局へ
【集合】 JR東海道線大磯駅改札 午前10時
【コース】 大磯駅(集合)
 ↓ 
エリザベスサンダースホーム前
 ↓ 
地福寺(島崎藤村の墓)
 ↓ 
小島本陣跡
 ↓ 
大運寺(中島信行・安田靫彦の墓)
 ↓ 
海水浴場発祥の地碑(昼食)
 ↓ 
新島襄終焉の地碑
 ↓ 
鴫立庵
 ↓ 
島崎藤村邸
 ↓ 
旧東海道の松並木
 ↓ 
滄浪閣
 ↓ 
こゆるぎの浜
 ↓ 
吉田茂像
 ↓ 
大磯町郷土資料館(解散)
【参加費】 1000円(資料代など)
【昼食】 昼食(弁当)は各自でご持参下さい
【解散】 午後3時頃を予定
【諸注意】 本日の終了予定時間は午後3時頃ですが、場合によってはもう少し 時間がかかることがあります。
歩く距離は4キロほどになります。足回りをしっかりして下さい
トイレの場所は限られていますので、係員の案内に注意してください。
特に昼食場所でのトイレに注意。
途中、車の交通などで危険な箇所がありますので、前後の交通に注意し、
なるべく一列になるようにご協力ください。
一番後方にも係員がつきますので、自分の速さで歩いて一日の行程を楽しんでください。
その他、わからないことがありましたら、青い腕章をつけた係員に申し出てください。

2.概説

大磯宿
 大磯宿は江戸から行程16里(約64キロメートル)、東海道第8番目の宿場であり、江戸方から京都方へ向かって山王町、神明町、北本町、南本町、南茶屋町(石船町)、南台町の六町で構成されていた。これらの他に海側には漁師町として北下町、南下町の二町があった。『新編相模国風土記稿』によると、加宿である隣村の東小磯村を含めた東西の町並みは東西29町半余、南北12町であり、戸数678軒のうち本陣3軒、旅籠屋85軒であった。宿場には人馬の継ぎ立てをする役割があり、慶長6年(1601)に東海道の宿駅となった大磯宿の場合も100人・100疋の伝馬役を負担しなければならなかった。この業務の責任を負ったのが問屋場で、南本町、北本町に一ヶ所ずつあり、地福寺大門前を境として南組・北組に分かれ、それぞれに問屋年寄1人、帳付4人、人足指2人、馬指2人が置かれ、交互に役を勤めていた。
 交通機能の維持に重要な役割を果たした宿場には、各地から多くの人々が集まり賑わいをみせていた。しかし、交通量の増大は、一方では宿場の負担の増大でもあった。例えば、文化6年(1809)7月には、支配代官であった江川太郎左衛門に対し、人馬持立金や宿入用などの差支えを訴え、金2500両の拝借を願い出ている。さらに、天保の飢饉の中でも特に被害が甚大であった天保7年(1836)には、米価の高騰、暴風雨などを契機として宿内の穀屋・質屋など七件が打ち壊される騒動が起き、その直後には大火災にみまわれ、大磯宿は大打撃を受けた。
 天保14年(1843)8月、大磯宿は江戸湾防備政策の一環として小田原藩へと編入され、これを機に宿財政の立て直しも図られた。しかし、幕末維新期の政治的混乱や社会変動は交通量の更なる増加をもたらした。安政6年(1859)の横浜開港、文久元年(1861)の和宮降嫁、同三年の将軍徳川家茂上洛、元治元年(1864)からの長州征伐の御進発、慶応4年(1868)の箱根戦争など、歴史の舞台を裏で支えた大磯宿の苦悩は耐えることがなかった。
海水浴場
 「西洋式海水浴」は当然のことながら開港以後に外国人によりもたらされた。記録に残された最初の海水浴はフランスの法律家ブスケの『日本見聞記』で、1872(明治5)年8月のことである。これには「カタシェ(片瀬)で夕食前に海水浴をする。翌日我々は馬に乗って六時に藤沢に着く」とある。その後も外国人遊歩区域にあたる神奈川では『ボンジュールかながわ』を著したエミール・ギメ、大森貝塚の発見で有名なエドワード・モースなども海水浴をしていることを記録している。特に東京大学の医科教授・明治天皇の侍医として日本の医学の発展に大きな功績を残したお雇外国人ベルツは海水浴をするばかりでなく、神奈川県令野村靖の依頼で、海水浴場の適地調査を行っていることもその日記にある。また海水浴と同様健康増進の目的から箱根・熱海を始めとする温泉地調査がこの時期すすめられていたというのも興味深い事実である。
 「海水浴」という用語は日本では1881(明治14)年に『内務省衛生局雑誌』第34号で初めて用いられたものといわれている(同雑誌は『衛生局年報』とは別のもの)。しかしここでは海水浴客を「患者」と記すなど、病気療養が目的で、海水の皮膚への刺激が重要であった。当時愛知医学校校長であった後藤新平(のちの衛生局長・内務大臣)が『海水功用論』を著しているがやはり病気療養の視点から書かれたもので、ここにはいわゆる「甲羅干し」の効用も述べられている。そして後藤は愛知県令国直廉平と図り、同県大野(現常滑市)の千鳥浜海岸に施設を設け海水浴場とした。正確にはこの地には近世以来「潮湯治」という慣習のあり全国に知られていたのではあるが。
 1885(明治18)年、陸軍軍医総監松本順が『海水浴法概説』を著し大磯に海水浴場を開設した。松本は後藤と異なり海水浴に病気療養だけでなく健康増進の意味をも見出しており、その意味で現在の海水浴の保養(=リクリエーション)とは未だ隔たりがあるがその萌芽と見なすことができる。ただしこの時期の海水浴はあくあで海水による皮膚への刺激が目的で、波が荒いことが重要であり、大磯もこの点から適地とされたようである。大磯は現在は遠浅の海岸であるが、これは1923(大正12)年の関東大震災により海岸が約1.2メートル隆起したことによる。
日本の別荘地
 明治20年代になると、鉄道が関東圏各地とつながるようになった。遠隔地への足が飛躍的に向上し、これによって外国人の避暑願望、日本人の西洋文化吸収欲・ステイタスシンボル欲が表面化し、上流階級の間で一気に別荘建築が流行り始める。
 別荘は日光・伊香保・箱根・江の島など便利な鉄道沿線や既存の観光地、外国人の観光ルートにそって造られた。1899(明治32)年の外国人の内地雑居が認められる以前は、やはり外国人の別荘は遊歩区域内の神奈川県が中心だった。それにともなってか日本人の別荘も当初「湘南」に集中した。「湘南」では、葉山・鎌倉・大磯が先に開け、その間を埋めるかたちで逗子・鵠沼・茅ヶ崎が別荘地となった。
 そのうち大磯と葉山は「湘南」の西端と東端にあたり、交通の便は最も悪かった。しかし大磯には伊藤博文・山県有朋・大隈重信、三菱の岩崎弥之助、三井の三井養之助など、葉山には天皇家・宮家・高橋是清・団琢磨などの別荘が集まったのは何故だろう。第一に考えられるのが地形である。大磯も葉山も北側が山で避寒に適していること。次ぎに考えられるのが景観である。葉山は江の島と富士山が一つの構図に収まる。また大磯も葉山も砂浜と岩礁が入り交じり、こじんまりとまとまった複雑な海岸線を持っている。また地元の人々の誘致策もある。大磯では自由民権運動の指導者として有名な中側良知(初代大磯町長)が松本順と協力して、海水浴の整備をはじめ大いに活躍した。
 このように大磯は近代日本最初の「リゾート」として開発が始まった場所として考えられるのである。近年、行政を主体として「湘南市」構想が発案され議論が始まっている。今後、大磯という街はどのように変化していくのであろうか。

3.見学ポイントの解説

大磯駅/海内第一避暑地の碑
 明治20年代以降、別荘構築が上流階級の間で流行する。大磯も1887(明治20)年の東海道線(横浜−国府津間)の開通以降に別荘地として大いに栄え、特に伊藤博文、山県有朋という二代元老を始めとして多くの「名士」が避暑地として用いた。
 1907(明治41)年、日本新聞社が行った人気投票「避暑地百選」において大磯は2位の伊豆・修善寺に大差をつけて1位となった。この碑はそれを記念して建設されたもので、当時「日本一の海水浴場」といわれた大磯の繁栄の一端が窺える。
エリザベス・サンダース・ホーム
 1948年、沢田美喜によって解説された混血孤児のための施設。沢田美喜は1901(明治34年)年、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫(久弥の長女)として東京本郷に生まれ、外務次官、フランス大使や国連大使を歴任する沢田廉三と結婚、外交官夫人として永い海外生活を送るが、敗戦後、進駐した米軍兵士と日本人女性の間に生まれた混血児の養育を決意し、このホームを開いた。ホームの名称は、日本に40年間住み、美喜と同じ聖公会会員でもあり、ホームに遺産を寄付した英人・エリザベス・サンダースに因んでいる。
 この地は、もともと岩崎家の別邸地だが、美喜は、孤児たちの施設を作る為に、岩崎家が国に物納した大磯の別荘をGHQに掛け合い、400万円で買い戻したという。戦後の財閥解体により岩崎家といえども財産は乏しく、自分の持ち物を処分し、多くの人たちから寄付を集め、また借金をしてまかなったという。美喜はアメリカでも18回にわたって募金活動を行い、寄付者には、パール・バックやジョセフィン・ベーカー等もいる。ここで育った孤児は2000人を超える。1980年、旅行先のスペイン・マジョルカ島で死去。著書は「黒い肌と白い心」他多数。  
船着山地福寺
 創建は承和4年〈837〉と伝えられているが、『新編相模風土記稿』には中興開山は宥養(没年は元和8年〈1622〉12月25日)のみ記して創建時不詳である。また、「船着山円如院と号す、古義真言宗、京東寺宝菩提院末、関東五箇法談所の一なり」とあり、真言宗の布教拠点の一つでことがわかる。1891〈明治24〉年地福寺は大火に遭い、町役場・郡役所とともに焼失した。旧庁舎は地福寺境内地に接続する場所にあったが、町は地福寺から土地を買い入れ郡役所敷地として献納をした。境内には作家島崎藤村が妻静子とともに葬られている。
小島本陣跡
 江戸時代、大磯宿には、参勤交代の節に大名が宿泊する施設である本陣が存在した。小島本陣は大磯に三軒あった本陣の内、建坪二四六坪と最大のものであった。当主は代々才三郎を名乗り、大名宿泊の当日には御目見えを許され、色砂利などの土地の名物を献上した。
 小島氏の初代は鞠木彦右衛門尉邦忠といい、小田原北条氏の家臣で伊豆に三〇〇〇石を領有した。北条滅亡後、大磯に隠れ住んでいたところ、家康上洛に際して宿泊所となるなど、後の本陣への道が開かれたものという。
 小島本陣には様々な大名等が訪れたが、公家一条忠香の養女美賀子も一橋慶喜との婚儀のため江戸へ向かう途中の安政2年(1855)9月、小島本陣で昼休をしている。その時、本陣には畳の表替えや雪隠の新規設置などが命じられ、貴人来訪の準備に大慌てであった。
 明治に移ると、廃藩置県と共に本陣としての使命を終え、明治5年(1872)に廃業した。
大運寺
 浄土宗、芝増上寺末。開山は秀誉上人。本尊阿弥陀仏には、首が良弁、尊体が恵心によって作られたという伝説があり、12世紀、平安末期の佳作という。
※中島信行 1846〜99(弘化3〜明治32)土佐国高岡郡津賀地村の郷士の子に生まれる。1864(元治元)年、土佐藩を脱藩して、のち坂本龍馬の海援隊に入る。維新後、新政府に出仕。1874(明治7)年1月神奈川県令に就任(〜1876.3)。公選民会を主張する革新的地方官(開明派県令)として知られる。元老院議官を経て、1881(明治14)年、自由党が結成されると副総理となる。84(明治17)年、岸田俊子と結婚。87年保安条例で皇居外3里に追放され、横浜に移る。90(明治23)年、第1回衆議院議員総選挙で神奈川第5区(高座・愛甲・津久井、選挙区人員14万余名・有権者1589名。ちなみに大磯は第6区)から当選、初代議長となった。その後、イタリア公使(1893年半年間)、貴族院勅撰議員を歴任。96(明治29)年に男爵。墓には伊藤博文の筆で「長城中島君墓」とある。
※中島俊子 1863〜1901(文久3〜明治34)京都の商家岸田茂兵衛の長女。1879(明治12)年、宮中に仕え、皇后に孟子を進講したが、病気を理由に2年で辞退。土佐立志社の坂崎紫蘭らと交友、その影響で自由民権思想に共鳴。1882(明治15)年、大阪・岡山等の演説で男女同権を主張。信行と結婚後、『女学雑誌』に多くの論文を投稿。横浜フェリス女学校に招かれ、漢学を講ずる。信行のイタリア公使就任に伴い渡欧したが、病気で帰国。大磯の山王町に別荘を建て、伊藤博文とも交流、梅子夫人に書道を教えた。墓には「中嶋湘烟之墓」とある。
※安田靫彦 1884〜1978(明治17〜昭和53)本名は新三郎。1898(明治31)年15歳の時、小堀鞆音の門に入り、1901(明治34)年東京美術学校専科に入学したが、まもなく退学。1907(明治40)年、岡倉天心に知られて茨城県五浦の日本美術研究所でしばらく制作。1912(大正元)年、文展に「夢殿」を出品、2等賞を受け、注目される。1914(大正3)年から大磯に住み、関東大震災では住居の全壊を経験。戦中、山中湖湖畔への疎開をはさみ、没年まで大磯で暮らした。昭和戦前期の大作「黄瀬川陣」をはじめ、戦後も卑弥呼や額田王などの歴史画を創作した。1958(昭和33)年から横山大観亡き後の日本美術院理事長。パトロンには横浜本牧の原三渓がいた。
※中川良知 1841〜1900(天保12〜明治33)宿継飛脚を扱う商家「橘屋」に生まれる。幕末期、年寄役を務め、東征軍を迎える。1874(明治7)年に東海道馬車会社が設立されると、大磯駅の監督に就任する。1879(明治12)年には淘綾郡から最初の神奈川県会議員の1人に選出される。自由民権運動にも活躍し、80年には国会開設請願を提唱し、福沢諭吉起草の「国会開設ノ儀ニ付建言」に2万人以上の署名を集め、81年には民権結社湘南社を創設するとともに、自由党にも入党した。89(明治22)年の町村制施行を機に県議を辞し、大磯町初代町長に就任(〜1892.6)。松本順の提案に基づき、海水浴場を開設。隣接する街区の集団移転も成功させ、宿駅制度廃止後、廃れてきた大磯の経済発展と衛生対策に貢献した。
水浴発祥の地碑
 大磯の海水浴場は1885(明治18)年に松本順によって開設された。当時陸軍軍医総監の要職にあった松本は、疾病治癒・健康増進の意味から海水浴を奨励し『海水浴法概説』を著していた。自ら海水浴の適地を探した結果として大磯が選ばれたのである。ただし当時の海水浴は「潮力激烈ナル」地形が適当とされており、現在の海水浴のイメージとは大きく異なるようである。
 1907(明治40)年の『大磯誌』では邦人の最初の海水浴提唱者は松本順であるとし、また大磯海水浴場が「日本最初の海水浴場」であることを強調している。本碑はそれに基いている訳であるが、実際のところは尾張などでは近世から「潮湯治」と呼ばれる習慣があり、あくまでも「西洋式海水浴のはじめ」という意味合いのものである。
新島襄終焉の地の碑
 新島は、明治時代のキリスト教牧師、教育家であり、なによりも同志社大学の創立者として知られている。1890年1月23日、病気療養のため滞在していた旅館百足屋(むかでや)で亡くなった。碑の文字は、新島の門下生である徳富蘇峰の筆になるものである。
鴫立庵
 鴫立庵の名は西行が東遊の際、当地で、「心なき身にもあはれはしられけり鴫立沢の秋の夕暮」と詠じたことに由来するという。寛永4年(1664)小田原の崇雪という人が庵を結び、鴫立庵の標石を建てたという。元禄8年(1695)俳人大淀三千風が江戸より入庵し、今日残る堂宇の大部分を建立した。また旦那寺を地福寺とするなどの庵規を定め、この地を俳諧道場として世に紹介した。
 現在ここには代々の庵主の墓碑のほか、歌碑・句碑など多くの石碑がある。前述した西行上人歌碑、江戸前期の歌学者・戸田茂睡歌碑、松本順の墓碑などが特にあげられよう。
島崎藤村旧宅
 この大磯の地に島崎藤村が移り住んだのは満70歳のときである。藤村の『雑記帳』昭和16年1月13日の条に「大磯行、大内館泊り」、翌14日には「左義長の祭」※を安田靱彦らと見物している。このとき町屋園を仮寓に定め、後に100坪の土地を家屋とともに買い取った。昭和18年8月21日「東方の門」執筆中に脳溢血の発作で倒れ、翌22日に没した。戒名は「文樹院静屋藤村居士」。
※「左義長」(さぎちょう) 毎年1月14日に北浜海岸で行われる道祖神の祭り。この祭りは、いわゆる「どんど焼き」で、松飾りなどをピラミッド型に積み上げたサイトに、夕方頃火をつけ、サイトの火が下火になった頃に、木ぞりに小さな祠をつけたもの(道祖神の仮宮)を、海に入った青年たちと陸側に陣取った子供たちに分かれて綱で引き合います。 仮宮はその後陸に引き上げられ町内を曳きまわされる。これをヤンナゴッコという。平成9年には国の重要無形文化財に指定された。
旧東海道の松並木
 環境汚染が進んでいて、往時の面影は・・・
滄浪閣
 伊藤博文は何度も神奈川県内に別荘を構えている。最初は1887(明治20)年頃に久良岐郡洲崎村(現 横浜市金沢区)の夏島の別荘であり、伊藤はここで明治憲法草案を起草したことで有名である。その後、滄浪閣という名の別荘を小田原御幸ヶ浜に建てている。しかし小田原と東京の往復の途中、大磯の地が気に入り、小田原の別荘を売却して大磯に滄浪閣を建設している。場所は西小磯85番地で大磯宿の西端に位置し、1896(明治29)年5月に竣工している。この伊藤の別荘建築が契機となり、多くの政治家・実業家・皇族などが次々に大磯に別荘を建てることになった。特に滄浪閣の西隣は西園寺公望邸、東側には鍋島邸、大隈重信邸、陸奥宗光邸、山県有朋邸などが集中していた。また、大磯駅から大磯中学校に達する道は住民によって新道として造られたものであり統監道と呼ばれた。伊藤は1905(明治36)年に初代韓国統監となり、道の名称はここからとられた。なお、当時の滄浪閣の建物は関東大震災によって倒壊し、現在は結婚式場の名前として使われている。
こよろぎの浜
 鴫立庵の脇を流れる鴫立沢が相模湾に注ぎ込むあたりから西に広がる砂浜を「こよろぎの浜」と呼んでいる。『万葉集』にも「相模路のよろぎの浜のまなごなす児らはかなしく思はるるかも」と詠まれ、古くから景色の良い海岸として知られていた。国道134号線(西湘バイパス)と防風林の松林が海に面し、この海岸と正月の箱根駅伝でも使われる国道1号線との間には伊藤博文の滄浪閣を初め、神奈川県令を勤めた陸奥宗光・沖守固も含め、明治以降の政治家・華族・財閥らの別荘がひしめいていたのである。
 大磯八景は、宮代謙吉(旅籠「百足屋」主人)が1895(明治28)年に大磯町長就任後、観光行政に尽力し、大磯の景勝地を選んで斎藤松州画伯に依頼して絵はがきとして出版したのが起こりという。また1937(昭和12)年に大磯小学校第二代校長朝倉敬之が八景を詠んだ自作の歌碑をそれぞれの場所に建立した。残念ながら当地を詠った「小松原けむる緑に打ちはれて見渡し遠く小余綾の浦」を刻む「小淘綾の晴嵐」の碑のみ残されていない。
「花水橋の夕照」…高麗山に入るかと見江し夕日影花水橋に冴えて残れり
「高麗寺の晩鐘」…さらぬだに物思はるゝ夕間暮きくぞ悲しき山寺の鐘
「化粧坂の夜雨」…雨の夜は静けかりけ里化粧坂松の雫の音ばかりして
「唐ヶ原の落雁」…霜結ぶ枯葉の葦におちてゆく雁の音寒し唐ヶ原
「照ヶ崎の帰帆」…いざり火の照ヶ崎つづく見ゆいかつり舟や今帰るらん
「鴫立沢の秋月」…さやけくも古にし石文照らすなり鴫立澤の秋の夜の月
「富士山の暮雪」…くれそめて紫匂ふゆきの色をみはらかすなり富士見橋の辺
吉田茂像
 吉田茂は、1878(明治11)年生。土佐自由党の名士で、第一期衆議院議員・竹内綱の五男。横浜の貿易商・吉田健三の養継子となり、のち牧野伸顕の女婿となる。藤沢耕余塾、学習院を経て東京大学卒業。外務省入省。イギリスや中国など各地在勤。1919(大正8)年、パリ講和会議に随員として参加。田中義一内閣、東方会議当時の奉天総領事。外務次官、駐英大使を最後に退官。太平洋戦争開戦後、親英米派としてにらまれ憲兵隊に検挙されたこともある。戦後、東久邇内閣、幣原内閣の外相、1946(昭和21)年、公職追放を受けた鳩山一郎の依頼を受けて日本自由党総裁。第一次吉田内閣を組織。以来54年まで五度首相となった。その間、日本国憲法制定、サンフランシスコ講和会議主席全権として調印。1967(昭和42)死去。国葬を受ける。
 大磯の吉田邸は、鉄道が開通した9歳の時(1887年)吉田家が別荘を購入してからで、115年にもなる。1923(大正12)年の関東大震災では、倒壊焼失するが、横浜の本宅も焼失し、以後は大磯に住むようになる。
県立大磯城山公園・大磯町郷土資料館
 県立大磯城山公園は、もと中世の小磯城であったといわれる。この小磯城は、1477(文明9)年、長尾景春が謀反して山内上杉顕定を滅ぼそうとしたとき、景春の被官越後五郎四郎が立てこもった城という(『鎌倉大草子』)。しかし大田道灌に攻められ落城したといわれる。今でもわずかに土塁らしきものが残っている。園内には、かつてこの地にあった旧三井邸・城山荘(じょうざんそう)をかたどった郷土資料館がある。城山荘は三井家総帥・三井八郎右衛門高棟が、1898(明治31)年に建築した別荘で、関東大震災では大きな被害を受けたものの倒壊にはいたらず、、1970(昭和45)年、解体された。部材は京都に残されている。大磯町郷土資料館は「湘南の丘陵と海」をテーマに、地域の歴史・文化・自然に関する資料を収集・展示・公開している。